因果の道理と浄土真宗②

2014年11月14日00:00

ダイヤモンドという物が存在します。
ダイヤモンドは、炭素からできています。
炭素という元素に、温度と圧力が加わって形成されます。
今ではその原理を使って、人工的にダイヤモンドを作ることもできます。

しかし、炭素に温度と圧力をかければ出来るからといって、
炭素を人間の掌で力いっぱいグーッと押し続けたってできるものではありません。
超高圧、超高温という条件があるのですから。


【聖道門と浄土門/善人と悪人/悪人だもの】(←よい題名が浮かびません。あれば教えてください)
ある人は説きました。
大根の種をまけば、大根が生え、西瓜の種をまけばスイカが生える。
善いことをすれば善いことが自分に返ってきますよ。
お金がほしければ、一生懸命働きなさいと言いました。

それを聞いた人は言葉通り一生懸命働いて、
たくさんのお金は得られました。

今度はある人は、○○が欲しければ→→をしなさい、
と説きました。
○○を獲得したいと思った人はそれを信じて、
→→に一生懸命励みました。

→→という原因を蒔けば、
○○という結果が生えてくるに違いないと信じたからです。
でも、自分なりに一生懸命→→をしても○○はなかなか得られません。
そのうち、→→をすることにも少々疲れてきました。

でも、ある人ははっぱをかけます。
まだまだ→→が足りないからだ。○○はそう簡単には得られないぞと。
そう言われて、また頑張りました。
死ぬまでに間に合わせたいと頑張りましたが、
結局、得られませんでした。
なぜでしょう。

たしかに、→→をすれば○○は得られるものだったのです。
でも、それには実は「その人が善人であったならば」という条件があったのです。
所詮、無理だったのです。


【幻に向かって】
ある人は言いました。

○○が欲しければ、この▽▽という種に→→という縁をたくさん与えなさい。
そうすれば、炭素でも高温と圧力という強い縁によってダイヤモンドに変わるように、
きっと得られるのだと。

人々はそれを信じて、→→という縁をたくさん与え続けました。
しかし、なかなか○○は得られません。

きっとまだまだ→→が足りないのだと思って頑張りますが、
○○は生えてきません。
なぜでしょう。

実は、○○の因は▽▽などではなかったのです。
本当は、○○の種は、私がもつことのできないものでした。

種をもてないのですから、
もっていないところにいくら→→をしたって、生まれてくるはずがない。

しかし、いつか生えてくるに違いないと思って人々が頑張るのをいいことに、
ちっとも生えてこないのをいいことに、
ある人はもっと→→をやれと騙すばかり、
人々はいつまでたっても生えてこないのは自分のせいなのだと、
ありもしない結果を求めて、
幻に向かっていくばかりなのでした。

【因果の道理と浄土真宗の救い】
因果の道理は正しくても
因果の道理によって自分が救われるかということとは別なのです。

因果の道理という真理では救われようのない悪人の私であるから
因果の道理を超えた如来の誓いを信じることによって救われていくのです。

この区別がわかりますか。

因果の道理を否定するのではありません。
因果の道理を信じないのでもありません。
自力の心を捨ててとは、
因果の道理によって救われようとする心を捨てて、
自身の救いに於いては因果の道理ではなく、
如来(名号・念仏)によって救われるということなのです。
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因果の道理と浄土真宗①

2014年11月13日00:00

因縁果の道理とは、
すべてのものは因と縁によって成り立っているということです。
ただし、因と縁と果は固定的なものではなく、
それぞれの「関係性」を表す言葉であるということに注意が必要です。

【例:「聞き手」と「話し手」】
聞き手と話し手が存在して関わりあっているということではなく、
聞き手によって話し手が存在し、
話し手によって聞き」が存在するということ。
(聞き手と言えるのは話し手が存在するからであり、
逆もまたしかり。
話し手と聞き手が生じるのが同時であるということ。)

【例:親と子】
親から子が生まれたのではなく、
子が生まれた時に産んだ人が親になる。
「親」と呼べるのは「子」が生まれたから。
子が生まれたときに、親と子という関係が生まれたということ。
子が存在するなら親が存在する。

【因果の道理と浄土真宗】
浄土真宗では、因果の道理をわきまえて生きていく。

◎祈祷的宗教を否定する。
…大根の種からスイカが生えることを恐れる必要はない。
 スイカの種を蒔いて大根が生えることを期待しない。          
→だから迷信をもたない。(浄土真宗では祈祷やまじないに迷う必要がない。)

◎求道的宗教を否定する。
…因果の道理をわきまえて生きていく(祈祷的宗教の否定)としながらも、
因果の道理によって自身で自身を救うことはできないと説く。
(如来を信知することによってのみ救われるのだから)

【因果の道理と浄土真宗の救い】
因果の道理は正しくても
因果の道理によって自分が救われるかということとは別なのです。

因果の道理という真理では救われようのない悪人の私であるから
因果の道理を超えた如来の誓いを信じることによって救われていくのです。

この区別がわかりますか。

因果の道理を否定するのではありません。
因果の道理を信じないのでもありません。
自力の心を捨ててとは、
因果の道理によって救われようとする心を捨てて、
自身の救いに於いては因果の道理ではなく、
如来(名号・念仏)によって救われるということなのです。

タダではない「無料券」

2014年11月08日00:00

ある人が、
皆にすごい宝物をあげましょうと言いました。

どんな人でも手にすることができて、
しかも消えることのない大きな宝物だから、
これこそが本当の宝物、
究極の宝ですよ
と言います。

世の中の宝物は、
誰しもが得られるとは限りません。
ところが、
お金がない人でも、
学力や能力のない人でも、
体力のない人でも
病気の人でも
時間のない人でも
関係なく、
どんな人でも、
無条件で得られて、無くならない宝物があったら
欲しいでしょう?すごいでしょう?と。

そんな宝物があるのなら欲しい、
世の中の宝物に限界を感じている人達は集まりました。

人々は疑います。
タダで宝が得られるなんて、そんなうまい話があるはずがない。

そこである人は説きます。
そうです。普通の宝物はそうです。
だけどタダでなかったらすべての人が得ることはできない。
人間、能力や残された時間には、差がある。違いがある。
いままさに死ななくてはならないという人でももらえるとしたならば、
それは無条件でなければ。

なるほど、集まった人達は納得しました。
「要するに、タダなんですね」

ある人は答えます。
はい、タダです。
タダだから、無料です。
ここにそのための「無料引換券」があります。
この「無料引換券」で、宝物をゲットできます。

それならその「無料引換券」をください。
集まった人達は口々に言いました。

いやいや、ちょっと待ってください。
ある人は続けます。
すごいお宝を得るための引換券ですよ。

すごいお宝ですよ?
何億円以上よりもっと価値のあるお宝ですよ?
そんなお宝を獲得するのに、
何の苦労もなくできますか?

オリンピックの金メダルだってそれを得るために
どれだけの努力と苦労をしていることか。

ましてその金メダル以上の価値のあるお宝との引換券ですから、
タダでという訳にはいきませんよ…

親鸞会の誤り、陥った過ちをとおして見えてくるもの

2012年02月07日19:22

「一つの決勝点はまた新たなスタートである」

年末にあるオリンピック金メダリストが、
職場であり教育の現場での不祥事により
法に触れたという容疑で検挙されるという事案が報道されました。
それについてある関係者は、
「オリンピックの金メダルは取ってからの生き方が大事だというのに」と
残念そうに述べていました。

さて、私がこのサイトで訴えたいこと、それは何か。
S会やそこに関わる人の悪辣さか
そこに気付かず騙されてしまう人の愚かさか。
それだけではないのです。

カルト(カリスマ的指導者を中心とする小規模で熱狂的な信者の集まり)
と言われる集団には、共通点があります。
カルトの特徴とでも検索すればいくらでも出てくるので、
それを見れば、カルトと関わったことがある人なら
どれもなるほどと頷くものばかりでしょう。

なぜ同じような特徴を持つのか。
それは、その統率者と周りの人間の行動に共通の特徴があるからです。
その中の一つとして、
大抵、統率者はその集団内において素晴らしい人格者として
称賛され崇められているということがあります。
ところが、その集団を離れた人は
「そんな人間ではなかった」と、
つまりは化けの皮が剥がれた現実の姿を知って、
自分も何らかの形で騙されていたことを自覚するのです。

考えてみれば、不思議で不可解なことです。
自分の都合で嘘をつき、人を騙して平気であるような人が、
教団内では最高の人格者として崇められている。
どうしてそんなことになるのでしょう。

ここで思い出してください。
統率者の側にはいつも、側近が何人もいたことを。
狡猾な統率者は、いつも、自分がやっていると見せかけて実は肝心なことは、
「自分ではやらない」のです。
つまり、「自分の『本当の』意思を伝える行為をする」のは
いつも側近や部下であり、
いつしか自分が指示をしなくとも、部下が「御心を汲んで」
先周りしてやってくれるようになっている
そういう組織が出来ているのです。
究極の「責任転嫁」の構造です。

あれ?…何かおかしい…どこか変…一貫しない…
そんなところがあっても、すべて周りの側近や部下が補ってくれるのです。
自分では答えられなくても、周りが先回りして回答してくれる。
あるいは、他人に先に答えさせて、自分はそれを判定あるいは承認する形をとる。
見ている人には常に、
「この先生だけが言っているのではない、先生には賛同者が何人もいる。
(納得のいく話なのだ。納得ができないとしたら
それは納得できない人のほうがおかしいのだ。)」
ということが無意識の中に刷り込まれていく形になっています。
さらには、よくわからないことでも先に答えてくれるブレーンに合わせて、
後から「〇〇君の言う通りだ」と言っておけば
いくらでも知ったかぶりもできるのです。

側近や部下はいつも説明してくれます。
「それは〇〇先生の深い御心であって(私どもには理解できなくとも)」…。
そのうちいつしか、個々の信者の中で、疑問が起こっても、
「深い御心であって…きっと、こうだ…」と良い様に解釈するようになります。
そんなおかしなことがあるはずがない、と思うからです。
自分の中で矛盾を解消しなければ
信じ続けることができなくなるからです。

「信心決定している会長先生が間違ったことを説くなんて、
そんなおかしなことがあるはずがない」
「これまで50年、間違っていたなんてあるはずがない」
「これだけ多くの人が間違いないと言っているのに間違っているはずがない」
「そんな嘘の教えを広めるなんてできるはずがない」
そうですね、自分が…と考えたら、できませんね、そんなこと。
まともな人ほど、そんな人がいるとは考えられません。
だから、そんなことあるはずがないと
現実との間にできそうなギャップを埋めるための理屈を頭の中で考えるのです。
「それ(現実)は、きっと(想像)こういう深い御心で…」

異常さも、矛盾も、不足も、疑問も、
全部自分の頭の中で自動的に補ってしまうのです。
かくして、全てを完璧に備えた素晴らしい人格者が、
個々の信者の脳内に確立されるのです。

どこかの会だけに存在する構造でしょうか?
いいえ、巷にはこんなものが、溢れているのです。
決して、人を信じるのが悪いのではありません。
依存するのが悪いのでもありません。
会や集まりをつくるのが悪いのでもありません。
何事も、程度の問題です。
どこでも、最初からそんな風ではなかったのです。

さて、あなたの近くにもいませんか?
実はいつも足りないところを誰か他人がフォローしている。
(曖昧な話や一貫性のないところを、いつも他人がフォローしなければならない。
周囲が知らぬ間にさせられている。)
それまで自分からは動かない。(動けない。)
それでいて、なぜかフォローさせられている人たちが過度に称賛して
本人はそれを黙って承認している。

見ているとそんな、第二、第三の親鸞会のような構造は
もう既にいくつかあるようです。
再度同じような集団や関係を作ってしまうのは傾向として仕方ないにしても
残念なことだと思うのです。
誰しも騙される危険性は潜在的にもっているのであり、
騙された人はむしろ、また再び同じことに陥る危険性があるのです。

早く間違いに気付いて欲しいということで
親鸞会の誤りを指摘することは当然のこととして、
誤りを知ることを通して、
自分も他人も再び同じ過ちに陥らないようにすること、
これこそが大事なことなのです。

立証責任の転嫁~相手に質問のみをするフェアでない言い分~①

2011年09月22日14:42

3-9 立証責任の転嫁

◎自分の論の正しさは自分で証明する
 説得力のある議論には必ずギャップがあります。
 そのギャップの中にあるのは「当然正しい」とみなしている
さまざまな考えであり、
それらすべてが正しいことを他の人に証明するのは不可能です。

 なぜなら、聞く人にとってその証明が説得力のあるものなら、
それにはさらにギャップがあり…という具合に永久に証明を続けなければならないからです。

 何かを論ずる場合、この「立証責任」は、
論者にとって非常に重いものです。

 あることで相反する意見をもつ者同士は、各自、
自分の論の正しさを証明せねばなりません。
自分の論の正当性を証明しようとせずに相手に質問のみをすることで
相手に一方的に立証責任を負わせるのは、
フェアなことではないからです。

 ──と、ここまでを読んで「それがフェアでないことには同意するが、
フェアでないことをしていけないのはなぜ?」
と私に質問をしたい読者がいるかもしれませんね──そう、
相手に立証責任を負わせる質問をするのは簡単なのです。

 つまりこうです。もしもあなたが何かを主張したいのなら、
相手に立証せよと求めるのではなく、
まず自分の側の意見を立証しましょう。つまり、たとえば、
「*の答えはAでもいいのではないですか?なぜそれでは間違いなのですか?」
(とのみ書き、Aであってもよい理由を書かない)
これではダメで、
「*の答えはAでもいいのではないのですか?というのは
○○だからです。なぜそれでは間違いなのですか?」
 
と書かねばならない、ということです。
 それが論ずる者のフェアな態度です。

 議論で「立証責任の転嫁」を行うと、
非常に汚い詭弁となりえます。それが次の例です。

A「霊は存在しますよ」
──(なぜそう言えるのか理由を述べていない点に注目)
B「そうかなあ。なぜ?」
──「Aが理由を述べていないので、これは正しい質問──
  立証責任の転嫁ではない質問)
A「では、あなたは霊が存在しないと思っているんですね。
存在しないって、なぜ言えるんですか?」
──(相手の質問を無視し、相手に逆側の意見を立証させようとしている
点に注目)
B「なぜ存在しないかなんて、理由は答えられないよ」
A「そうでしょうとも。存在しているんですからね」

(小野田博一著『正論なのに説得力のない人ムチャクチャでも絶対に議論に勝つ人』日本実業出版社p86~)



これまで何度も述べてきたように、
自分の論の正当性を支えるものは「根拠」であり、
根拠の説得力の大きさがその主張の正当性の強さになります。

ですから何かを訴えたいなら根拠を述べなくては話になりませんし、
たとえ根拠が添えられていたとしてもそれがいい加減なもので
正当性を支えるに足りるものでなければ根拠があるとはいえません。

したがって、相手の主張に対してその根拠(理由)がなければ、
それを求めるのは当然のことです。
それ以前に、「自分の論の正しさは自分で証明しなければならない」
というのが議論の原則なのです。

だから、上の引用中で言われているように、
「*の答えはAでもいいのではないですか?なぜそれでは間違いなのですか?」
(とのみ書き、Aであってもよい理由を書かない)
これではダメで、
「*の答えはAでもいいのではないのですか?というのは
○○だからです。なぜそれでは間違いなのですか?」
 
と書かねばならない
のです。

後者の前者との違いは、自分の主張に「というのは○○だからです。」
という「根拠」が主張されているかどうかということです。
主張に反論したければ、この根拠に反論すればいいのです。
それでその根拠が相手の正当性を支えるものでない、つまり
崩れてしまえば、相手の主張は間違いだということになります。

つまり、議論とは、お互いに自分の主張が正しいことを示す為に根拠を出して、
その正当性(正しく主張を支えているか)を諮る
(威勢のいい言い方をすれば戦わせる)ものなのですから、
まず自分の論の正当性は自分で証明しようとする姿勢でなければ
フェアではないし、議論にならないのです。(続く)

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Author:lonli
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