「人間は本質的に論理的な生き物である。
だからこそわれわれは、論理的に説得されることを好まないのである。」と。
よく、人間は論理では動かない、論理だけで説得することはできない、
などという物言いを聞くことがあります。
おそらく、そのとおりでしょう。
が、これは、人間が非=論理的あるいは反=論理的生き物であることを意味しません。
事実はむしろ逆です。
人間は論理的な生き物であり、
論理を、理屈を通すことを最も重視するがゆえに、
自分が論理で説得されることを嫌うのです。
人間は、ただ無意識のうちに説得されるのではなく、
自分が説得されていることを明確に意識しています。
だから最も重要な論理で、
理詰めで説得されることをあたかも精神の敗北のほうに感じ、
それを自分で認めたくないわけです。
これに対して、感情の操作によって説得されることは、
われわれのプライドを傷つけません。
情に流されて説得されるというのは、むしろ与える快感を、
優越感を得ることができます。
われわれは、負けるときは、
自分がさほど重視していないもので負けたと思い込みたいのです。
…(中略)…
話を戻しましょう。
議論というものを嫌っている人はたくさんいます。
何が嫌いなのかといえば、
自分が理屈で言い負かされ論破されるのが嫌いなのです。不快なのです。
しかし逆に、自分が他人を理屈でやりこめることはじつに気持ちがいい。
それは理論的な生き物である人間にとって、最も本質的な喜びを与えてくれます。…
(香西秀信『レトリックと詭弁』ちくま文庫、2010年、7-8頁)
論理的に反論をされると、
その内容は決して詭弁ではないのにも関わらず
反論された側が「それは詭弁だ」と食ってかかるという場合があります。
後で詳しく述べたいと思いますが
「詭弁」というのは相手を論理的にやりこめることではなく
むしろその逆で、
実は論理になってない非論理的な虚偽による論法で
相手の反論を封じ込める手法のことを言うのですが、
そのように詭弁でないものを「詭弁だ」とまで言いたくなるのは、
相手に「論理」で負けたくないという「感情」なのでしょう。
論理的に反論されて論理的に言い返せないというのは
自分のプライドが傷つくのです。
相手の主張を詭弁だということにすれば、
相手に論理で負けたのではないということで済むからです。
一方で、元々論理的であるからこそ、論理で説得されることを嫌い、
「感情」で信じたいのが人間なのだとも言えるでしょう。
上に挙げた文章の最後のほうに出てくる
「不快である」とか「気持ちがいい」とか
「本質的な喜び」というのも、感情ではないでしょうか。
それで無意識に感情に基づいて行動していながら、
しかもそれを好んで認めようとはしません。
「本質的に理性的な生き物である」からです。
感情の部分で「理性で判断していると思いたい」のです。
つまり、感情というのは、理性に反するものではなく、
むしろ感情が理性をも左右すると言えるのでしょう。
だから、感情と理論が反するときには葛藤が起こりますが、
そんな時は論理よりも感情のほうを尊重しがちなのが人間なのです。
宗教ではあくまで本人の自由意志という形がとられますから
そこでは「説得」という形で意思の決定に介入がなされます。
その際に大いに効果を発揮するのも
「感情に訴える」ということなのです。
このサイトでは「論理的思考」ということをテーマに「論理」という側面から
考えたいと思いますが、
しかしながら、人間には感情で突き動かされてしまう部分のほうが大きい、
つまり、潜在的には論理より感情で訴えられるほうが効果がある
ということを考えに入れておいていただきたいと思います。
さて、感情に関して関連することを一つ考えたいと思います。
「カルトと言われる宗教が信者から奪うものは
「『論理的思考能力』『理性的批判能力』『客観性』である」という
話を聞いたことがあります。
個々人の論理的思考や教団批判は徹底的に糾弾されるのだと。
「頭でなく心で受け止めなさい」とか「教えの素晴らしさは理屈ではない」
「あなた(の批判)は教えの深さがまだ分かっていないだけ」「素直に聞きなさい」
などと言われるのだと。
これは言えているのではないでしょうか。
親鸞会でもよく「理屈だけではなく、心で知らされる」等と言い、
「頭ではわかっても、心ではわかっていない」等の言い方をします。
しかし、考えてみますと、その、頭・理屈と反する「心」とは何でしょう。
何か、頭とは別に特別な心があるように思わされていましたが、
結局私の中で追い求めようとしたらそれは
「感情」でしかないのではないでしょうか。
普段の生活でもあります。理屈ではそうとわかっているんだけど…
そうはしたくないとかできないとか、心からは思えないと言います。
「頭ではわかっても、心で知らされなければ」と言って
何かを「心で知らされること」が信心決定の条件
のような理解にされてしまいます。
そしてその「心で知らされる」というのは
私たちが想像で思い描いて追い求めてしまうのは
とことんそう思い詰めたのであったり
「〇〇でしたー!!」というような「感情の」高ぶりのようなものです。
一方で、信心というものは感情信心ではない(これはそのとおりです)
と否定されますから、
いくら感情を追い求めたところで
自分で感情ではないと否定をするから、
どこまでもこれは違う、これも違うとグルグル…当たり前です。
「この教えは間違いない」
「求道して行けば間違いない」
「あの方が仰るのだから間違いない」
「あの人や他の人達がこれだけ信じているのだから間違いない」
と感情で信じながら、
「地獄行きの自分」
「極楽行きの自分」
を大きな感情で知らされるような体験を追い求める
ようなものだったと思います。
感情で信じながら、
感情を追い求め、
感情ではないと自己否定もしなくてはなりませんから、
救われなくて当たり前なのです。
(すべての人がこのような状態に陥っているという
意味ではありません)
信心決定とは、
感情の高ぶりがあったことでも、
私が知ったことでも、
私が思ったことでも、
ないのですから。
「感情で信じたい」心を利用されていたのではないでしょうか。
注1)
感情バイアス
(参考)
情報処理過程をゆがめる情報──感情の操作
快あるいは不快な感情を喚起することが、人間の情報処理過程の論理性をゆがめることは、さまざまな形で明らかにされてきている。このことは常識的理解でもわかるだろう。たとえば心理学においては、感情が、動機づけ的機能をもつことは動物実験などからも実証されている。一例をあげると、ネズミを使った実験で、電気ショックを受ける恐怖が、危険回避行動を自発的におこなわせるようになることが示されている。
(西田公昭『マインド・コントロールとは何か』紀伊國屋書店、1995年、71頁)
注2)
(参考)
感情に訴える
理性的な人の特徴は、知性と感情のバランスが保たれていることだといえよう。そのバランスが保たれていれば良い判断が生まれてくる。適応するためには、行動する前に現実を理解していることが必要である。行動への動機づけを高めるには二つの方法がある。一つは、ある状況で必要なものをよく考えさせることであり、もう一つは、強く感情に訴えることである。大部分の人に対しては理路整然とした議論をするよりも感情に訴えかけるほうが、より効果的である。…
(トーマス・W・カイザー&ジャクリーヌ・L・カイザー『あやつられる心』マインド・コントロール問題研究会訳、福村出版、1995年、131-132頁)
最新コメント