論理より感情で納得したい

2011年04月09日00:52

「人間は本質的に論理的な生き物である。
だからこそわれわれは、論理的に説得されることを好まないのである。」
と。

 よく、人間は論理では動かない、論理だけで説得することはできない、
などという物言いを聞くことがあります。

おそらく、そのとおりでしょう。
が、これは、人間が非=論理的あるいは反=論理的生き物であることを意味しません。
事実はむしろ逆です。
人間は論理的な生き物であり、
論理を、理屈を通すことを最も重視するがゆえに、
自分が論理で説得されることを嫌うのです。

人間は、ただ無意識のうちに説得されるのではなく、
自分が説得されていることを明確に意識しています。
だから最も重要な論理で、
理詰めで説得されることをあたかも精神の敗北のほうに感じ、
それを自分で認めたくないわけです。

これに対して、感情の操作によって説得されることは、
われわれのプライドを傷つけません。
情に流されて説得されるというのは、むしろ与える快感を、
優越感を得ることができます。

われわれは、負けるときは、
自分がさほど重視していないもので負けたと思い込みたいのです。
…(中略)…

 話を戻しましょう。
議論というものを嫌っている人はたくさんいます。
何が嫌いなのかといえば、
自分が理屈で言い負かされ論破されるのが嫌いなのです。不快なのです。
しかし逆に、自分が他人を理屈でやりこめることはじつに気持ちがいい。
それは理論的な生き物である人間にとって、最も本質的な喜びを与えてくれます。…

(香西秀信『レトリックと詭弁』ちくま文庫、2010年、7-8頁)



論理的に反論をされると、
その内容は決して詭弁ではないのにも関わらず
反論された側が「それは詭弁だ」と食ってかかるという場合があります。

後で詳しく述べたいと思いますが
「詭弁」というのは相手を論理的にやりこめることではなく
むしろその逆で、
実は論理になってない非論理的な虚偽による論法で
相手の反論を封じ込める手法のことを言うのですが、
そのように詭弁でないものを「詭弁だ」とまで言いたくなるのは、
相手に「論理」で負けたくないという「感情」なのでしょう。

論理的に反論されて論理的に言い返せないというのは
自分のプライドが傷つくのです。
相手の主張を詭弁だということにすれば、
相手に論理で負けたのではないということで済むからです。

一方で、元々論理的であるからこそ、論理で説得されることを嫌い、
「感情」で信じたいのが人間なのだとも言えるでしょう。

上に挙げた文章の最後のほうに出てくる
「不快である」とか「気持ちがいい」とか
「本質的な喜び」というのも、感情ではないでしょうか。

それで無意識に感情に基づいて行動していながら、
しかもそれを好んで認めようとはしません。
「本質的に理性的な生き物である」からです。
感情の部分で「理性で判断していると思いたい」のです。

つまり、感情というのは、理性に反するものではなく、
むしろ感情が理性をも左右すると言えるのでしょう。

だから、感情と理論が反するときには葛藤が起こりますが、
そんな時は論理よりも感情のほうを尊重しがちなのが人間なのです。 注1) 

宗教ではあくまで本人の自由意志という形がとられますから
そこでは「説得」という形で意思の決定に介入がなされます。

その際に大いに効果を発揮するのも
「感情に訴える」ということなのです。 注2)

このサイトでは「論理的思考」ということをテーマに「論理」という側面から
考えたいと思いますが、
しかしながら、人間には感情で突き動かされてしまう部分のほうが大きい、
つまり、潜在的には論理より感情で訴えられるほうが効果がある
ということを考えに入れておいていただきたいと思います。



さて、感情に関して関連することを一つ考えたいと思います。

「カルトと言われる宗教が信者から奪うものは
「『論理的思考能力』『理性的批判能力』『客観性』である」という
話を聞いたことがあります。

個々人の論理的思考や教団批判は徹底的に糾弾されるのだと。
「頭でなく心で受け止めなさい」とか「教えの素晴らしさは理屈ではない」
「あなた(の批判)は教えの深さがまだ分かっていないだけ」「素直に聞きなさい」
などと言われるのだと。

これは言えているのではないでしょうか。

親鸞会でもよく「理屈だけではなく、心で知らされる」等と言い、
「頭ではわかっても、心ではわかっていない」等の言い方をします。

しかし、考えてみますと、その、頭・理屈と反する「心」とは何でしょう。

何か、頭とは別に特別な心があるように思わされていましたが、
結局私の中で追い求めようとしたらそれは
「感情」でしかないのではないでしょうか。

普段の生活でもあります。理屈ではそうとわかっているんだけど…
そうはしたくないとかできないとか、心からは思えないと言います。

「頭ではわかっても、心で知らされなければ」と言って
何かを「心で知らされること」が信心決定の条件
のような理解にされてしまいます。

そしてその「心で知らされる」というのは
私たちが想像で思い描いて追い求めてしまうのは
とことんそう思い詰めたのであったり
「〇〇でしたー!!」というような「感情の」高ぶりのようなものです。

一方で、信心というものは感情信心ではない(これはそのとおりです)
と否定されますから、
いくら感情を追い求めたところで
自分で感情ではないと否定をするから、
どこまでもこれは違う、これも違うとグルグル…当たり前です。

「この教えは間違いない」
「求道して行けば間違いない」
「あの方が仰るのだから間違いない」
「あの人や他の人達がこれだけ信じているのだから間違いない」
感情で信じながら

「地獄行きの自分」
「極楽行きの自分」
大きな感情で知らされるような体験を追い求める
ようなものだったと思います。

感情で信じながら、
感情を追い求め、
感情ではないと自己否定もしなくてはなりませんから、
救われなくて当たり前なのです。
(すべての人がこのような状態に陥っているという
意味ではありません)

信心決定とは、
感情の高ぶりがあったことでも、
私が知ったことでも、
私が思ったことでも、
ないのですから。

「感情で信じたい」心を利用されていたのではないでしょうか。

注1)
感情バイアス

(参考)

情報処理過程をゆがめる情報──感情の操作

 快あるいは不快な感情を喚起することが、人間の情報処理過程の論理性をゆがめることは、さまざまな形で明らかにされてきている。このことは常識的理解でもわかるだろう。たとえば心理学においては、感情が、動機づけ的機能をもつことは動物実験などからも実証されている。一例をあげると、ネズミを使った実験で、電気ショックを受ける恐怖が、危険回避行動を自発的におこなわせるようになることが示されている。
(西田公昭『マインド・コントロールとは何か』紀伊國屋書店、1995年、71頁)


注2)
(参考)

感情に訴える

 理性的な人の特徴は、知性と感情のバランスが保たれていることだといえよう。そのバランスが保たれていれば良い判断が生まれてくる。適応するためには、行動する前に現実を理解していることが必要である。行動への動機づけを高めるには二つの方法がある。一つは、ある状況で必要なものをよく考えさせることであり、もう一つは、強く感情に訴えることである。大部分の人に対しては理路整然とした議論をするよりも感情に訴えかけるほうが、より効果的である。
(トーマス・W・カイザー&ジャクリーヌ・L・カイザー『あやつられる心』マインド・コントロール問題研究会訳、福村出版、1995年、131-132頁)

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獲信者なら間違ったことは言わないのでしょうか

2011年04月01日09:55

獲信者 注1)は間違ったことを言わないのでしょうか?

そんなことはありません。高森会長も次のように指導しています。

「救われた人でも、親鸞聖人の教えと異なることを言うことがある。
それは教学を知らないからである。」



「高森会長の言われることに間違いはないに違いない」という根拠の一つに、
「あの方は獲信している(と思われる)から」ということがあるように思います。

「〇〇氏は(獲信しておられるだろうから)間違っていることはない。」
(〇〇氏は(獲信しておられるだろうから)間違えて説くことはない。」

と信じているとするならば、これは、
「〇〇さんが獲信している(と思われる)から」ということを「根拠」に、
間違いはなかろうと信じている状態です。

「獲信しているかどうか」は、第三者に判定できるようなものではありません。
親鸞会でも「三業で信心の有無ははかれない」と言います。
究極的な判定や断定はできないという意味ではこれは正しいでしょう。
「獲信しておられるから」とは誰にも言えないのです。

しかし「獲信しておられるだろう」ということを思うのは自由ですし、
実際思うことです。心の中では三業ではかっているのです。

ですからこのサイトでは、高森会長の信心の有無ではなく
(本当のところはわからないのですから)
獲信者と言われている高森会長の「言っていること」や「説いていること」と、
それを「聞いたほうがどう受け止めているか」ということについて問題にしていきます。
お間違えのないようお願いします。

故意であってもなくても、
間違ったことを説いている人でも救われますが、
間違ったことを聞かされているほうは、
その間違った理解のために雑行を捨てられないのならば
(他力に帰すことを妨げてしまっては)
いつまで経っても救われないからです。

では、仮に誰かが獲信しているとして、
その人は間違ったことは説かなくなるのでしょうか?

「獲信したならばこういうものを得る」ということはお聖教にも示されており、
そのことは言えます。

親鸞会は
「信心の有無は三業でははかれない」けれども、「信心は三業に現れる」
と言っています。 注2)
これは間違いではないと思います。

しかし、現れるのは信心だけでしょうか?
獲信しても、相変わらず
煩悩も三業に現れるでしょう。
智慧や才覚も三業に現れるでしょう。
俗な言葉で言えば、
性格も三業に現れるでしょう。
癖も三業に現れるでしょう。

獲信しても、
耳四郎のように盗癖のあった人はそのまま
盗みを働くこともあるでしょう。

嘘をつく癖のあった人は、
嘘をつくこともあるでしょう。
「こう言ったほうが自分に都合がいいから」と
事実とは違うと知りながら言うこともあるかも知れません。

高森会長もかつて『講師部員への徹底事項』として次のように指導しています。

・『真実信心獲得した人』=『親鸞聖人の教えを正しく教えることのできる人』とはならない。

・真実信心の獲得と、親鸞聖人の教え(教学)をよく知ってのみ、親鸞聖人の教えを、正しくお伝えする人になれるのである。

・どんなに切れるカッター(信心)でも、定規(教学)がなければ、真っ直に切れないのと同じだ。

・獲信した人に、一番大切なのは、聴聞と教学である。
 親鸞聖人が、法然上人のもとで、真剣に学ばれたのも、その為である。

 救われた人でも、親鸞聖人の教えと異なることを言うことがあるのは、教学を知らないからである。


一部よく意味のわからない言葉
(どんなに切れるカッター(信心)でも、定規(教学)がなければ、真っ直に切れないのと同じだ)
もありますが、それ以外はそのとおりなのではないでしょうか。
高森会長も言っています。
「救われた人でも、親鸞聖人の教えと異なることを言うことがある」のです。
「教学を知らないから」です。

これは、誰でもその危険性があるということです。

高森会長についてもその可能性からは免れないのです。

つまり、「たとえ高森会長が獲信しているとしても、教学を知らないなら、親鸞聖人の教えと異なることを言っているかも知れない」のです。

高森会長に間違いないと信じる根拠は一つではなく他にもあると思いますが
(それはそれでその人の信仰ですが)、
「獲信しているなら、聖人の教えと違うことは言っているはずがないだろう」というのは
確かな根拠ではなく、個人的な思い込みや願望でしかないのです。

そう信じたい、信じているということもあるのでしょうが、

「信じている」というのは、疑っているということである


親鸞会でもよく聞いたように、
どんなに深く「私は信じている」と言っても、
それは疑いを含んでいるのです。

そこに、人間が人間を信じることの限界があります。

これに対する反論としては
「いや、高森会長は教学を知っているから大丈夫だ」
というものが考えられますが、

「高森会長が教学を知っている」というのは、
誰にわかることなのでしょうか。
誰が言っていることなのでしょうか。
どうしてそのように思うのでしょうか。
それは知っていることなのでしょうか、それとも信じていることなのでしょうか。


注1)
獲信者という言い方はあまり好きではないのですが、あえてそのような言葉をつかっています。
その他にも、親鸞会的な言葉遣いをしています。


注2)
高森会長は以下のように指導しています。

        信心決定したら
        ↓     ↑
        ↓     ↑ だから信心決定
いくら言って↓     × しているとは、
も良い    ↓     ↑ 絶対言ってはならない。
        ↓     ↑
         心はこうなる
         口はこうなる  (三業)
         身はこうなる

本当の話の中に虚偽を混ぜる

2011年04月01日09:53

ある人が嘘つきだとしても、その人の言ったことの全部が嘘になる訳ではない。

本当の話の中に虚偽を混ぜるから騙される。


「親鸞会のトリック」と題したサイトですが、
具体的なトリックの話をする前に、
いくつかその前提として考えてみたいことについて書きたいと思います。

考えてみれば当たり前のことなのですが、
ある人の話が嘘ばかりなら
誰も話など続けて聞くはずがありません。
すぐに見破られてしまいます。今日は4月1日ですが、
「今日は4月1日です」という事実を語ったのが詐欺師であったとしても、
「今日は4月1日だ」という事実が嘘になる訳ではありません。

「嘘をついて本当でないことを本当であると思い込ませ、
金品を奪ったり損害を与えたりする人物」のことを「詐欺師」というのであって、 (注1
詐欺師が語ったことが全部嘘になるということではないのです。

実際、詐欺師は本当の話のなかにもっともらしい嘘を混ぜます。
しかも巧妙に。
そうして信用させるのです。

誰かのいうことが一部正しいからと言って
その人のいうことが全部正しいとは言えませんし、
一部間違っているからと言って、全部が間違っているとも言えません。
またそのように考えるのは論理的ではありません。

親鸞会に関して言えば、出されているお聖教の言葉そのものは正しいのです。
私自身、「必ずお聖教の言葉を根拠として挙げているから正しいのだろう」と思っていました。
しかし、その根拠としての使い方や解釈に大いに問題があるのだと
今では言わざるを得ません。

ですから、高森会長の話の中にも正しい部分はあると思っています。
(どんどん無くなってきているような気もしますが。)
当然その部分については、間違った話とは矛盾することになります。

自分が信じていたのはどこだったのか
何を根拠に正しいと信じていたのか
そこがどう間違っていたのか
どうして信じてしまったのか
考えてみることで新たな発見もあるのではないでしょうか。

(注1)
詐欺
騙す

動機

2011年04月01日09:48

他人の悪を批判するなら自分の悪をしっかり見つめ認識しなさい。

それが悪を批判するという事です。



上の言葉はテレビドラマ『金八先生』最終回の中で、
金八先生がクラスの生徒に語っていたものです。
前後も含めると以下のような言葉でした。

悪はどこにありますか?

警察にありますか?
学校にありますか?
路地裏のゲームセンターにありますか?
悪はそんなところにはない!

悪は皆さん方の心の中にあります。

他人の悪を批判するなら自分の悪をしっかり見つめ認識しなさい。
それが悪を批判するという事です。



”騙されていた”ということは
決して恥ずかしいことではないと思います。

なぜなら、騙されていたという自覚があるということは、
それは即ちもう既に今は騙されてはいないことを意味するからです。

「騙された」というのは、常に過去形です。
騙されていたと気付いたときにはもう騙されてはいない。
そしてそこに気付いたからこそ考えることができることもある。

騙されたのにも、
私の中に"騙されたい心”があったからなのではないでしょうか。

騙されている間、
お金を出すことや苦労をすることと引き替えに
安心したり満足したりしていた部分もありました。
刹那のものとはいえ、
「こうしていれば地獄行きを免れる」といういくらかの安心を
教団から得ていたのです。

おかしいな…と思う心を
抑えたのは何故だったのか。

結果として、
間違ったものを信じ、
間違った教えを広めることに加担してしまった。

思考を停止していたことへの反省から
考えてみようと思いました。
それが動機です。

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