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断言しないことの効果~内部でしか通用しない話~

2011年08月15日09:40

 論理的に書かれていない文章が同意を得るのは、
もともと同じ意見を持つ者だけで、
意見の異なる人を説得できるのは、
論理的な文章だけです。


 論理的な文章がこの力を持つのは、
主に、「詳しい具体的な根拠」の量の力によります。

また、論理自身にも大きな力があります。
論理の力は、
論理の悪用(?)である詭弁を例に挙げるとよくわかるでしょう。
詭弁を議論で打ち負かすのはかなり難しいことに、
あなたは反対しないでしょう。
詭弁は論理を土台にしています。
だから打ち負かしにくいのです。

 人間は理性で動く動物です
(ここで言う理性の中には、
感情の土台となっている理屈も含みます)。
だから、理性に直接働きかける
「論理的な文章」が力を持つことになるのです。

(小野田博一著『論理的に書く方法』日本実業出版社 p16)



●断定しないことの効果

・断言するにたる根拠がある場合は(十分支えられる場合は)
断言するほうが説得力がある

・断言するにたる根拠がない場合は(十分支えられない場合は)
断言しないほうが説得力がある

(同著『正論なのに説得力のない人ムチャクチャでも絶対に議論に勝つ人』日本実業出版社 p47)



このサイトで繰返し述べているように、
根拠のない話には説得力がありません。
根拠の無い主張が同意を得られるのはもともと同じ意見を持つ者からだけで、
意見の異なる人を説得することはできません。

しかし、根拠がなかったり、結論を十分に支えていなかったりする場合でも、
説得力があるように見せかける方法があります。
それが「断言をしない」という手法です。

さて、親鸞会の文章でよく目にする表現があります。
「であろう」です。

以前に取り上げた『顕真』6月号「疑難と答え3」でも、
最後の肝心の結論に当たる段落の中で

 その「雑行」が分からぬのは、十九の願の門戸にも立っていない証しであろう。
 この弥陀・釈迦の「方便の善」が分からねば、「雑行を捨てよ」を「諸善を捨てよ」「諸善は必要ない」と、誤解するのも無理からぬことといえよう。

 七高僧が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」ではなく、何とかすれば、何とか助かると思って、諸善万行をやっている「自力の心」のことである。

 弥陀に帰命する一念に「雑行・雑修・自力の心」が廃るとは、決して諸善万行や称名念仏をしなくなるということではない。
 廃るのは、あくまでも「自力の心」なのである。

 それは、親鸞聖人や蓮如上人の、弥陀に救われてからの言動を見れば明らかだろう。
 日野左衛門の門前で、石を枕に雪を褥の聖人のご苦労や、身命を賭しての弁円済度など、諸善や念仏は量り知れない。
 だか、それらを決して、雑行とも雑修をも言わないのは、「自力の心」の浄尽した仏恩報謝の行だからである。

 「雑行を捨てよ」とは断じて「善をするな」「諸善を捨てよ」ということではないことは明白であろう。


と、「だろう」「であろう」といった推量形が多用されています。
最後の結論の文章まで「であろう」となっています。
「明白」と言いながら「であろう」とはちぐはぐな感じです。
つまり、ここで「明白でしょう?」と読む人に同意を求めているのですが、
明白でないどころか、明白な誤りであることを知っている人には
かえって何の説得力もないのです。

『顕真』7月号の疑いと答え6宿善とは過去を喜ぶもの

(疑難)
「宿善とは、宿世(過去世)の善根という意味であり、振り返って喜ぶ過去の善だから、”宿善を求める”などと未来に向って言うべきことではない。今からやる善とは無関係だ」

(答え)
 要するに「過去をあらわす言葉を未来に使うのが間違い。過去の善根と未来の善根とは無関係」というのである。

 果たして、そう言えるだろうか。
「想い出をつくろう」というのは間違いだろうか。「想い出」は過去をあらわす言葉であり、「つくろう」は未来のことだからである。
「悔いを残さぬように」というもの間違いだろうか。「悔い」は過去をあらわす言葉であり、「残さぬように」は未来のことであるからだ。

「宿善」は過去をあらわす言葉であり、「求める」は未来のことである。
「宿善を求める」だけが、なぜ間違いと言えるのだろうか。悪いはずがなかろう。


を見ても、自問自答というより、
根拠がなくて自信がないような文章にしか見えません。
途中の日本語の繋がりもおかしくなっています。
一応文章と例え話のおかしなところを述べておきますと、

 要するに「過去をあらわす言葉を未来に使うのが間違い。過去の善根と未来の善根とは無関係」というのである。

→違います。
過去の善根と未来の善根とは無関係などということを言っているのではなく、
「宿善」を「未来に向かって善を求める」ことのように
使うことを間違いと言っているのです。

 果たして、そう言えるだろうか。

→ですからこの疑問は意味が違います。

「想い出をつくろう」というのは間違いだろうか。「想い出」は過去をあらわす言葉であり、「つくろう」は未来のことだからである。
「悔いを残さぬように」というもの間違いだろうか。「悔い」は過去をあらわす言葉であり、「残さぬように」は未来のことであるからだ。


→「というのは間違いだろうか。…だからである。」
は文章の繋がりとしておかしいです。
「だからである。」は理由の文であって、説明の元の
結論部分がありません。
疑問に対して、理由を述べたいなら、
「というのは間違いだろうか。いや間違いではない。…だからである。」
としなければなりません。

ここでそういった略された言外の意があるとしても、
これらはもちろん間違いではありません。
想い出をつくろうとすることも、悔いを残さぬようにすることもありえます。
しかし、次の部分は間違いです。

「宿善」は過去をあらわす言葉であり、「求める」は未来のことである。
「宿善を求める」だけが、なぜ間違いと言えるのだろうか。悪いはずがなかろう。


→いいえ、「宿善を求める」だけが間違いと言えます。
だから悪いはずに決まっています。

「宿善を求める」だけが、なぜ間違いと言えるのだろうか。
とありますが、この文章の執筆者はこんな浄土真宗の基本も知らないのです。
責任者である会長は説明できないのです。
「自力だから」です。

もう一つ参考になる文章を紹介させていただきます。

主張した気になっているだけではだめ

 主張するためには、実際に主張しなければなりません。
これに関して日本人が犯す間違いのタイプは次の二つです。

A 主張していないのに、主張した気分になっている
B「主張は文脈から明らか」などの理由で主張を省略する


 AもBも、基本的には「主張とは何か」を
単に知らないことからくる間違いです。
が、「単に」とはいえ、
知らないうちは繰り返し間違えることになります。

 Bの場合はまた、「故意の省略」の場合もあります。
 故意に主張を省略するのは、
中傷しようという意図が働いている場合や、
相手を暗示にかけようとしている場合などで、
楽しい場合ではあまりなさそうです。

▼主張を書くべき部分を疑問文にしてはいけない▼

 主張を書くべき部分を疑問文にしてはいけません。
疑問文は主張ではないからです。
「主張とは何か」を知らない場合のもっともよくある例がこれ
──「主張を書くべきところを疑問文にする」です。

 疑問文は主張逃れの独り言であって、主張ではありません。
 日本人が大好きな表現「~ではないだろうか」が、主張逃れの疑問文の代表格です。
これは読み手に判断をまかせる表現なので、主張ではありません。

小野田博一著『論理的に書く方法』日本実業出版社 p41~42



日本語で、「だろう」のような推量形には、
「話し手の判断を伝える」「話し手の意志を表す」
「婉曲な命令・勧誘を表す」「聞き手の同意を求める」
「不審・懐疑を表す」と言った意味がありますが、

当然のこととして相手に同意を求めるという意味での使い方なら
正しさの強調として説得力を強める効果もありますが、
上の場合のように、
根拠がないにもかかわらず「であろう」を多用しているものは、
詭弁の通用しない相手には
自信がないか、
自信がないが為に内部の人に向けて同意を要求しているだけに
しか見えないのです。
逆に言えば、批判力を失っている内部の人にだけは通用するといえるでしょう。
会に留まっている人には、
何かのきっかけで疑問をもつことができればと願わずにはいられません。

【付記】
「宿善を求める」だけがなぜ間違いと言えるのか。
「自力だから」です。
と書きましたが、信前は自力だから
自力で求めるのが正しいのだという反論があるかも知れません。
殊に親鸞会会員に植えつけられた求道信心には強固なものがあります。
しかし、親鸞会でも
「自力一杯求めます」「自力一杯聞きます」
という言い方は間違いだからしてはならないという指導があったように、
自力は捨てるべきものでしかなく、
自力で求めたものが功を奏して他力になるというものではないのです。

高森会長もかつて
「自力はどれだけ一杯でも、どれだけ真剣でも自力で他力にはならない。
自力の行き着くところは他力でない。
自力はあくまでも自力、他力とは無縁です。
縁がない。だから自力一杯求めて、得られるのは自力しかない。
他力の世界ではもうとうない。」
「自力一杯で求めていかないと自力は廃らない、
これは論理的には成り立たないことなんです。
自力が自力で廃るはずがない。
他力によってのみ、自力が廃るのです。」(平成3年1月)

と言っています。
その後の話が間違いでまた混乱するのですが、
一応自力と他力は無縁、自力一杯求めて自力が廃るのではないと言っています。
当時と比べても、現在は益々
自力を勧める教えになっているのです。
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暗示にかけようとする表現~『顕真』6月号から~

2011年06月24日21:07

暗示にかけようとしている文章

「主張」とは少し話がそれますが、
暗示にかけようとしている文を使った、
フェアでない書き方の最たる例をここに書いておきましょう。

 暗示にかけようとしている文を使った、
フェアでない書き方の代表的なっものは、
形式面での操作と表現面での操作の次の二つがあります。

・論じたい点として主張を述べず、主張を前提とした別の論を書く
──これが第一の方法です。

このタイプの文章は、
批判精神の乏しい読み手には強い影響力があるので
読み手には危険な書き方です。

たとえば、「女性が依存症を克服するにはどうしたらよいか」
という論があったとしましょう。
これには「女性には依存症がある」という前提が隠れています

批判精神の乏しい読み手がこれを読むと、
「女性には依存症がある」という考えを無意識のうちに持つことになります。
論理で納得して自分の考えとするのではなく、
無意識のうちに無批判に自分の考えとしてしまうことになるので、
これは読み手にとって非常に危険な方法です。

・形容する部分に論じたいものをまぎれこませる。
──これが第二の方法です。

 たとえば、「押しつけられた性役割」というように書くのがこの例です。
これは読み手に「押しつけは悪い、ゆえに性役割は悪い」と
考えさせようとしている表現です。

 読み手を自分と同じ意見にしたいと強く望む者は、
無意識のうちにこの手法をとる傾向があり、
ことに大衆の意見を操作しようとする者がよく使います。


考えて──『暗示の手法』

次の三つの論があなたの目の前にあったとしましょう。

a『なぜ私はこれほど聡明なのか』
b『**政策のどこが悪かったのか』
c『あなたはなぜ勉強の仕方が下手なのか』

 これらにはどんなことが書いてあるか、あなたは想像できますね。
 さて、これらは、その論を書く事自体が目的の場合はもちろんありますが、
そうでない場合もあります。
では、そうでない場合とはどんな場合でしょう?

小野田博一『論理的に書く方法』日本実業出版社p44~46


詭弁や心理的作用を利用した影響力の行使等について調べていると
思い当たる節が多すぎて考えさせられることばかりです。
いろいろ書きたいことがあり過ぎて整理が追いつきませんが、
ここまででもある程度詭弁というものがどういうものかわかっていただけたと思います。

詭弁とは決して難しいものではなく、故意にも限りません。
日常ではむしろ詭弁的な言い方を便利に利用しているのです。
”遠まわしの言い方”や”濁した言い方”、”煙にまく”
こういったことは人間関係上の会話においてはむしろ必要で誰しもしていることです。
ですからそこまでも用いてはならないとは思っていませんが、
少なくとも”論じる文”や”相手に正確に伝えなければならない話”において
誤魔化しは必要ありませんし、あっては害になるだけです。

さて今回は、飛雲様『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り24
でも取り上げられていた『顕真』6月号の雑行についての記事について
リクエストをいただきましたので、実習も兼ねて考えてみたいと思います。
教義の上からの誤りについては飛雲様で詳しく説明されていますので、
それでよくわかります。
論理上の観点から言えば、「根拠がない」ということに尽きます。
全体としてもそれだけです。
以下、引用から考えてみます。

「親鸞聖人は、雑行を捨てよと教えられているのだから、諸善をする必要はない。善を勧めるのは間違いだ」

(答え)
 真宗の人々に、こんな誤解が多い。
もし、これが浄土真宗の教えならば、布施(親切)や精進(努力)、父母の孝養などは、必要ないからするなという、放逸無慚な怠け者を作るのが親鸞聖人の教えになるだろう。

←なりません。「諸善をする必要がない」と「諸善をするな」とは違います。
勝手な決め付け、すり替えに加えて、
「暗示にかけようとする文章」という詭弁が加わっています。
「疑難の主張では放逸無慚な怠け者を作る教えになる」
という暗示にかけようとしているのです。

これらはみな、仏法で説く諸善であるからだ。

←先の主張の根拠であるかのように述べているところが最大の間違いです。
上で述べていることの根拠になっていませんし、なりません。
この親鸞会の文章は、
「雑行とは仏法で説く諸善のことであるから、やるよう勧められているのだ」
と言っているのですが、全く逆です。
「諸善」を往生の為の行として用いようと行う
「仏法で説かれている善い行為」のことを「雑行」というのですから、
雑行という諸善を捨てよ」なのに、
親鸞会の「諸善だからやれ」ではそれこそ全く「雑行」というものを知らないのです。
仏法を読んでいないから、
「仏法で説かれている善」と「雑行」の関係がわからないのです。

 これは全く、「雑行」というものを知らない人の発言であることは明らかだが、こんな聞き誤りが、結構多いのが現状である。

←「~~であることは明らかだが」と決め付けていますが、
このような文言が「感情の充填された語」です。少しも明らかではないのです。
「聞き誤りだ」という印象さえ与えられればいいという表現です。
「多いのが現状である」にも根拠がなく、「暗示にかけようとする表現」です。
 

その元は、どこにあるのか解明しよう。
「雑行」とは、「弥陀の往生浄土の救いを求めてする、もろもろの善」をいうのである。
 仏教で説かれる「諸善」が、悪いはずがないのだが、なぜその「諸善」を、「雑行」と嫌い、捨てよと言われるのか。
 それは「自力の心」で行うからでである。「自力の心」さえ廃れば、「諸善」は「雑行」とも言われず、捨て物でもなく、「御恩報謝の行」となり、身を粉に骨砕きてもの、恩徳讃の活動になるのだ。

←『こんなことが知りたい』や
チューリップ企画の冊子『雑行・雑修自力の心』と変らない、
何十年前からと同じ「説明になっていない説明」の繰り返しです。

「解明しよう」とある割には、何も解明されていないのですが、
この記事には続きもあるということで、
実際の『顕真』の記事を見せていただきました。
この後は例え話で説明されていますが、
やはり文証での根拠が挙げられないからなのです。
雑行については、お聖教に基づいた根拠で話がなされていないのです。
それをしたら、親鸞会の「善の勧め」が「雑行の勧め」であり
助からない教えであることが知られてしまうからです。

参考までに、例えの話も見てみます。
例えというものは、全部が合う訳ではないので注意が必要です。
その話と言わんとしている肝心なところが合っていなければ、
(論理の言葉で言えば、観点が違えば正誤も変わってくるように)
つまり適切に例えられていなければ
例えも話をわかりやすくする為ではなく、
誤魔化しの道具としての詭弁となってしまいます。
例えを聞くときは、何が例えられていて、
適切に例えられているの考えることが必要です。
以下、『顕真』の続きです。

 例えば、「一緒にいたい」と思う心の高揚が結婚となり、「一緒にいたくない」と思う心の高揚が離婚となるようなものである。
「結婚」と「離婚」は反対だが、「一緒にいたいか、いたくないか」の心で分かれる。
「もろもろの善」が「雑行」となるか、「報謝の行」となるかは、「自力の心」が廃ったか、どうか、の一点によって分かれるのだ。

←何なのでしょうか。この例えは。
「となるようなものである。」と言っていますが、違います。

前の説明や、後半部分の説明では、
「善をしている」という外面に表れている行為が同じ「善」という行為であっても、
まったく同じ行為をして外見上にも全く同じ行為に見えるけれども、
その「心がけ」の違いによって「雑行」と「報謝」という別の行為になってしまうのだ、
という説明でした。
行為は同じでも、心が違うから、行為としての名前も違ってくるというものです。

ところがこの結婚の例えでは
「結婚」→婚姻して一緒に暮し生計を共にする行為
「離婚」→分かれて別の世帯になる行為
というものですから、心も違えば外見上の行為も全く違うものです。
「雑行」の何を例えているのかわかりませんし、
何も例えられていません。

心の高揚があろうがなかろうが、
・「一緒にいたいという心」で「一緒に暮し生計を共にするという行為」→結婚
・「一緒にいたくないという心」で「別れるという行為」→離婚
なのですから、「心」も「行為」も異なっているものです。
何も「雑行」と「報謝」の関係性と重なるところが無く、例えになっていません。
「心の高揚」という訳のわからない言葉を挟んでいますが、
心の高揚が何だというのでしょう。
心という単語を無理矢理入れることによって、
自力の心の有る無しと関連づけさせたいのかもしれませんが、
自力の心は「心の高揚」といったものとはむしろ正反対の関係のないものですから
ここでは意味がありません。

その意味では、以前によく聞いた
「菓子箱(賄賂とお礼)の例え」のほうが
まだ例えとしては合っている部分があるのですが、
この例えで善を勧めることの破綻を以前に記事にしたので
(http://lonli.blog60.fc2.com/blog-entry-17.html)
変えたのでしょうか。それにしても以前より悪くなっています。

この後は、文証に基づかない親鸞会独自のいつもの「自力の心」の説明が続き、
また例え話が出てきます。
しかし、「聞き誤りの元を解明する」と言った内容ではなく、
「自力の心の恐ろしさ」を例えも使って説明する内容です。
大雑把に見て「自力の心の罪」(18願を疑う罪)ということなら
これはこれでいいでしょう。

しかし、その結論として最後に唐突に

「雑行を捨てよ」とは、この「自力の心」を捨てよということであって、「もろもろの善をするな」「諸善を捨てよ」ということでは断じてないことを牢記しなければならない。


といつもの説明で結論づけていますが、
この前に述べられていたことは「自力の心の恐ろしさ」であって、
「諸善を捨てよではないということの根拠」ではありませんでした。

根拠のないことを印象づけなければならない為に、
「断じてない」とか「牢記しなければ」といった
”大げさな言い回し”で表現しなければならないのです。
苦しい主張なのです。

結局、この『顕真』の説明は最初に言ったように、
最初から最後まで、「善の勧め」について”根拠のない”記事でした。
「後生の解決の為に善の勧めがある」とする親鸞会の主張には根拠がないことを
ここでも示す形になってしまいました。


【付記】
親鸞会の話では、上にあるように、実際は雑行であるものを実行させたいが為に、
「雑行は捨てずに自力の心だけを捨てなさい」というような話を聞いて信じているから
自力の心が廃ることがないのです。
雑行には自力の心がつきものなのですから。

例え話をするなら、前述のようによく考えましょう。
ゴミの話で恐縮ですが、私の地区では指定のごみ袋にゴミを入れて出すことになっています。
ごみ袋はきれいなものです。捨てたいのは、中身のゴミです。
嫌われて捨てたいのはゴミですが、一旦ゴミをごみ袋に入れたら、
ごみ袋ごとゴミです。ゴミを入れるからごみ袋と言います
ゴミを入れていなければ、単なる綺麗なビニール袋です。その状態で捨てる人はありません。

今、ゴミが入っているから袋も一緒に捨てられるべきごみ(袋)となりました
これを、「汚いゴミを入れたから、ゴミ袋も捨てられるのだ。捨てるべきゴミが入っているから袋も捨てられる」
と言うのはいいとして、
「だから、ゴミ捨て場に行ったら中身のゴミだけを捨てなさい」と言う人がありますか?
捨てるためにごみ袋に入れたのです。ゴミを入れる為にあるからごみ袋というのです。
(自力の心があるから善い行為であっても雑行と言うのです。)

「ゴミ袋は捨てるなよ、中身だけ捨てよ」と言われたら、
捨てられませんから、いつまでもゴミの入ったゴミ袋をぶら下げて
ゴミ集積所でどうしたらいいのだろう?と考え続けたところで
捨てられないだけで答えはありません。

捨てられないごみ袋をいくつ積み重ねたら、
捨てられないことに気付くというのでしょうか?
親鸞会では「まだまだ、積み重ねようが足りないのだ」と言われ続けるだけで、
その親鸞会の教えを信じて「もっと積んだらきっと」と信じ続けて積み重ねようとしている限りは
このままでは捨てることができないと気付くこともないから
救われないのです。

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Author:lonli
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