4-36 隠す効果
詩には行間(での表現)が必須です
(字面だけの意味しかなかったら、詩ではありません)。
しかし、論理的な表現に行間があってはなりません
(すべて述べつくすことが
──読み手に解釈をゆだねないことが──
少なくとも述べつくそうとしている姿勢が必要です)。
では、詭弁に行間は?
下手な詭弁には必要で、上手な詭弁には不要です。
下手な詭弁の場合、理屈をすべて明言してしまうと
「間違い・欠陥」が歴然としていまうので、
議論の一部が行間に隠れていたほうが説得力があります。
この場合、読み手が説得力を感じるなら、それは
ごまかされたがゆえの説得力です。
ごまかされない人には効果はありません。
上手な詭弁は、すべて語って、
その説得力でフェアに勝負するものです。
したがって、隠す部分は不要です。
☆すべて明言しないことの効果(知性の低い人にしか効かない)これを読んで多くの人はソクラテス「みんなは食わんがために生きているが、
私は生きんがために食う、という点で違っているのだ」
──少なくとも読者のうちの数割くらいの人々は、
「なかなかうまいことを言うなあ」と思うでしょう。
ところで、「みんなは食わんがために生きている」の
暗示しているものが何かと言えば、
「低俗な生き方としての食べ方をしている」ということです。
一方、「私は生きんがために食う」の部分が暗示しているのは
「高尚な生き方としての食べ方をしている」ということです。
つまり、これらを明言してしまうと、となります。「みんなは食わんがために生きていて、
低俗な生き方としての食べ方をしているが、
私は生きんがために食う高尚な生き方としての食べ方をしている。
その点でみんなと私は違っているのだ」
こちらの明言版を呼んだ人のほとんどは「はー?」と思い、
「なかなかうまいことを言うなあ」と思う人は
だれもいないでしょう。
暗示版を読んで、「なかなかうまいことを言うなあ」と思う人は
「高尚さの暗示」にごまかされているのです。
暗示版を読んで名言版が見える人には、
暗示の効果は何もありません。
したがって、すべてを述べつくさないことで
(述べてしまうとキズが露見してしまう内容を隠すことで)
議論に説得力を加えようとする試みは
詭弁の低級テクニックです。
☆「したがって」や「ゆえに」がない
「したがって」や「ゆえに」のない書き方は論文や論説文では、
致命的です(英語の小論文esseyでは大減点をまねきます)。
でも、雑談調の文章(「何かを論じている」という感じなしの文章)では、
有効であることは多いものです。
この例文中の「株は儲からないものだ」の前に「株価が上がり始めてから買おうとすると高値で買って儲け損なう。
上がる前に買おうとすると、買ってから値段が下がって損をする。
株は儲からないものだ」
「したがって」があると、論理が変なことが露見してしまいます。
「したがって」を使わないと、論理が変なことはわかりにくくなります。
論理が変なことを承知の上で述べざるを得ないなら
(ほかのもっと有効な述べ方を思いつけないなら)、
「したがって」や「ゆえに」を省略するほうがよいのです
(でも、繰り返しますが、省略で議論に説得力を加えようとする試みは、
詭弁の低級テクニックです。上級者はこのようなことをしてはいけません)。
(小野田博一著『正論なのに説得力のない人ムチャクチャでも絶対に議論に勝つ人』日本実業出版社 2004年
第4章 説得力に乏しい「下手な詭弁」p127~129)
前回(『顕真』6月号「疑難と答え」2)についての続きです。
文章がつながるように接続詞を入れて足りない語を赤字で補ってみます。
① 真宗の人びとに、疑難のような誤解が多い。
しかし、疑難のとおりなら、聖人の教えは怠け者を作る教えになる。なぜなら、雑行と言っても「仏法で説く諸善」だからだ。
② これは「雑行」というものを知らない人の発言であり、このような聞き誤りが多いのが現状である。
その元はどこにあるのか解明しよう。
③ まず、雑行とは弥陀の往生浄土の救いを求めてするもろもろの善をいう。
ではなぜ、仏教で説かれる「諸善」を「雑行」と嫌い捨てよと言われるのか。
④ それは自力の心で行うからである。「自力の心」さえ廃れば「雑行」ではなく「御恩報謝の行」である。
したがって、「自力の心で行うその雑行そのものを捨てよ」ということなのである。
⑤ 例えば、(結婚と離婚の例)
⑥ では、「自力の心」とは何か。弥陀の本願を疑う心である。
⑦ それは善ができると自惚れて、弥陀の本願に反している心である。
⑧ ではなぜ、「自力の心」が恐ろしいのか。
⑨ (5歳の男の子の例え話)
⑩ それは、弥陀は「どうかそのまま受け取ってくれ」と今現在叫び続けているのに反する心であるからである。
⑪ すなわち、その弥陀を疑う「自力の心」こそ、阿弥陀仏を殺す凶刃である。
⑫ したがって、「雑行を捨てよ」とは、この「自力の心」を捨てよであって、もろもろの善を捨てよということではない。
⑬ (本願疑惑を戒めるご和讃)
いかがでしょうか。
青字の部分が論理的に変であることが露見してしまいます。
つまり、「雑行を捨てよとはいかなることであるか」の説明としては④の
したがって、「自力の心で行うその雑行そのものを捨てよ」ということなのである。
で終わっており、以下⑤は「自力の心」と「雑行」の関係の説明
(実際は適切な例えになっていない)
⑥~⑪は「自力の心」の恐ろしさの説明であって、
そこからは⑫のような親鸞会の結論は導き出されないのです。
その証拠に、親鸞会の主張に接続詞を加えてみると、
・「雑行」と言っても仏教で説く諸善である。
したがって、「雑行(諸善)を捨てよということではなく、自力の心を捨てよ」なのである。
(①~⑤の主張)
・「自力の心」とは阿弥陀仏を殺す凶刃の恐ろしい心である。
したがって、「諸善(雑行)を捨てよということではなく、自力の心を捨てよ」ということである。
(⑥~⑫の主張)
となって、親鸞会の「雑行=諸善」という前提が間違っていることが
わかりますね。
すなわち、親鸞会の説明の言葉をそのまま使えば、
仏教で説く諸善の、弥陀の救いに己の善を役立たせようという心で行う諸善のことを「雑行」という
のですから、訳のわからない理屈をつけずに、
浄土真宗の教えのとおり「雑行という諸善を捨てよ」でいいのです。
雑行を捨てようとしたら善いことができなくなるはずもなく、むしろ逆なのです。
それなのに親鸞会が浄土真宗の教えに従って正しい説明をしない、
できないのは、
自分の勧めている諸善が雑行になることが明らかになるからです。
それで、根拠もなく独自の定義で誤魔化そうとして無茶な論理になるのです。
繰り返しますがだからといって「雑行をすてよ」が親鸞会の反論のように
「善いことをしてはならない」とか「悪いことをしなさい」ということになってしまう
はずがありません。そのように言うのは浄土真宗を知らないのですから
きちんと浄土真宗を学んでくださいということです。
ついでに「疑難と答え」の1と3についても見てみましたが、
詭弁の特徴が表れていますから、次回に考えてみたいと思います。
参考までに、「接続詞」について詳細に解説された本から
その役割と意味について一部抜粋します。
親鸞会が本当に読み手のことを考えているのかどうか
それ以前に自分がわかって書いているのか
少し考えたほうがいいと思います。
接続詞で問われているのは、
命題どうしの関係に内在する論理ではありません。
命題どうしの関係を書き手がどう意識し、
読み手がそれをどう理解するのかという解釈の論理です。
もちろん、言語は、人に通じるものである以上、
固有の論理を備えています。
接続詞もまた言語の一部であり、「そして」には「そして」の、
「しかし」には「しかし」の固有の論理があります。
しかし、その論理は、論理学のような客観的な論理ではなく、
二者関係の背後にある論理をどう読み解くかを示唆する解釈の論理なのです。
じつは、人間が言語を理解するときには、
文字から得られる情報だけを機械的に処理しているのではありません。
文字から得られる情報を手がかりに、文脈というものを駆使して
さまざまな推論をおこないながら理解しています。
わかりやすくいうと、文字情報の中に理解の答えはありません。
文字情報は理解のヒントにすぎず、
答えは常に人間が考えて、頭の中で出すものだということです。
(略)そして、接続詞は、文のなかの情報を伝えるのではなく、
文脈を使った推論の仕方を指示する役割を備えています。
接続詞の論理は、論理のための論理ではなく、人のための論理なのです。
(石黒圭『文章は接続詞で決まる』光文社新書2008年
第一章 接続詞とは何かp31~32)
接続詞は「書き手」のもの
前章の終わりで、接続詞は人のための論理を担うものであることを確認しました。
だとしたら、接続詞は書き手のためのものなのでしょうか。
読み手のためのものなのでしょうか。
結論からいうと、書き手のためのものでもあり、
読み手のためのものでもあります。
(略)このように接続詞は、複雑な内容を整理し、
書き手があらかじめ立てた計画に沿って確実に文章を展開させたいときに
力を発揮します。
接続詞は「読み手」のもの
一方、接続詞には「読み手のためのもの」としての側面もあります。
「側面がある」というよりも、接続詞は原則として
読み手のためにあると考えておいたほうがよいでしょう。
本書の冒頭で井伏鱒二の言葉を引用しました。
その引用の中で、「尊敬する某作家」が推敲の段階で、
繰り返し接続詞に手をいれていたという事実がとくに重要です。
文章というのは社会的な存在です。
読み手が読んで理解できるように書かなければなりません。
しかし、私たちが文章を書くと、どうしても自分の論理で書いてしまい、
その結果、その情報に初めて接する読み手が理解できなくなる
ということがしばしば起きます。
文章を書くということの難しさは、まさにそこにあります。
書き手の論理で書いた文章は、しばらく寝かせて、
自分と切り離す必要があります。
そして、自分と切り離せた段階で、他者の眼でその文章を読みなおし、
他者の論理で推敲をする必要があるのです。
自分の書いた文章を他者の眼できびしくチェックすることは
「言うは易く、行なうは難し」ですが、
優れた書き手は優れた読み手でもあり、
自分の書いた文章を読み手の視点からモニターすることに長けています。
……
(同著 第二章 接続詞の役割 p36~39)
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