接続詞のない文章②~隠す効果~

2011年07月09日10:21

4-36 隠す効果

 詩には行間(での表現)が必須です
(字面だけの意味しかなかったら、詩ではありません)。
しかし、論理的な表現に行間があってはなりません
(すべて述べつくすことが
──読み手に解釈をゆだねないことが──
少なくとも述べつくそうとしている姿勢が必要です)。

 では、詭弁に行間は?

 下手な詭弁には必要で、上手な詭弁には不要です。
 下手な詭弁の場合、理屈をすべて明言してしまうと
「間違い・欠陥」が歴然としていまうので、
議論の一部が行間に隠れていたほうが説得力があります。

この場合、読み手が説得力を感じるなら、それは
ごまかされたがゆえの説得力です。
ごまかされない人には効果はありません。


 上手な詭弁は、すべて語って、
その説得力でフェアに勝負するものです。
したがって、隠す部分は不要です。

☆すべて明言しないことの効果(知性の低い人にしか効かない)

 ソクラテス「みんなは食わんがために生きているが、
私は生きんがために食う、という点で違っているのだ」

 これを読んで多くの人は
──少なくとも読者のうちの数割くらいの人々は、
「なかなかうまいことを言うなあ」と思うでしょう。
ところで、「みんなは食わんがために生きている」の
暗示しているものが何かと言えば、
「低俗な生き方としての食べ方をしている」ということです。
一方、「私は生きんがために食う」の部分が暗示しているのは
「高尚な生き方としての食べ方をしている」ということです。

つまり、これらを明言してしまうと、

「みんなは食わんがために生きていて、
低俗な生き方としての食べ方をしているが、
私は生きんがために食う高尚な生き方としての食べ方をしている。
その点でみんなと私は違っているのだ」

となります。
こちらの明言版を呼んだ人のほとんどは「はー?」と思い、
「なかなかうまいことを言うなあ」と思う人は
だれもいないでしょう。

 暗示版を読んで、「なかなかうまいことを言うなあ」と思う人は
「高尚さの暗示」にごまかされているのです。

 暗示版を読んで名言版が見える人には、
暗示の効果は何もありません。
したがって、すべてを述べつくさないことで
(述べてしまうとキズが露見してしまう内容を隠すことで)
議論に説得力を加えようとする試みは
詭弁の低級テクニックです。

☆「したがって」や「ゆえに」がない

 「したがって」や「ゆえに」のない書き方は論文や論説文では、
致命的です(英語の小論文esseyでは大減点をまねきます)。
でも、雑談調の文章(「何かを論じている」という感じなしの文章)では、
有効であることは多いものです。

 

「株価が上がり始めてから買おうとすると高値で買って儲け損なう。
上がる前に買おうとすると、買ってから値段が下がって損をする。
株は儲からないものだ」

 この例文中の「株は儲からないものだ」の前に
「したがって」があると、論理が変なことが露見してしまいます。
「したがって」を使わないと、論理が変なことはわかりにくくなります。

 論理が変なことを承知の上で述べざるを得ないなら
(ほかのもっと有効な述べ方を思いつけないなら)、
「したがって」や「ゆえに」を省略するほうがよいのです
(でも、繰り返しますが、省略で議論に説得力を加えようとする試みは、
詭弁の低級テクニックです。上級者はこのようなことをしてはいけません)。

(小野田博一著『正論なのに説得力のない人ムチャクチャでも絶対に議論に勝つ人』日本実業出版社 2004年 
第4章 説得力に乏しい「下手な詭弁」p127~129)



前回(『顕真』6月号「疑難と答え」2)についての続きです。
文章がつながるように接続詞を入れて足りない語を赤字で補ってみます。

① 真宗の人びとに、疑難のような誤解が多い。
しかし、疑難のとおりなら、聖人の教えは怠け者を作る教えになる。なぜなら、雑行と言っても「仏法で説く諸善」だからだ。
② これは「雑行」というものを知らない人の発言であり、このような聞き誤りが多いのが現状である。
その元はどこにあるのか解明しよう。
③ まず、雑行とは弥陀の往生浄土の救いを求めてするもろもろの善をいう。
ではなぜ、仏教で説かれる「諸善」を「雑行」と嫌い捨てよと言われるのか。
④ それは自力の心で行うからである。「自力の心」さえ廃れば「雑行」ではなく「御恩報謝の行」である。
したがって、「自力の心で行うその雑行そのものを捨てよ」ということなのである。
⑤ 例えば、(結婚と離婚の例)
⑥ では、「自力の心」とは何か。弥陀の本願を疑う心である。
⑦ それは善ができると自惚れて、弥陀の本願に反している心である。
⑧ ではなぜ、「自力の心」が恐ろしいのか。
⑨ (5歳の男の子の例え話)
⑩ それは、弥陀は「どうかそのまま受け取ってくれ」と今現在叫び続けているのに反する心であるからである。
⑪ すなわち、その弥陀を疑う「自力の心」こそ、阿弥陀仏を殺す凶刃である。
⑫ したがって「雑行を捨てよ」とは、この「自力の心」を捨てよであって、もろもろの善を捨てよということではない。
⑬ (本願疑惑を戒めるご和讃)

いかがでしょうか。
青字の部分が論理的に変であることが露見してしまいます。

つまり、「雑行を捨てよとはいかなることであるか」の説明としては④の
したがって、「自力の心で行うその雑行そのものを捨てよ」ということなのである。
で終わっており、以下⑤は「自力の心」と「雑行」の関係の説明
(実際は適切な例えになっていない)
⑥~⑪は「自力の心」の恐ろしさの説明であって、
そこからは⑫のような親鸞会の結論は導き出されないのです。

その証拠に、親鸞会の主張に接続詞を加えてみると、
・「雑行」と言っても仏教で説く諸善である。
したがって、「雑行(諸善)を捨てよということではなく、自力の心を捨てよ」なのである。
(①~⑤の主張)
・「自力の心」とは阿弥陀仏を殺す凶刃の恐ろしい心である。
したがって、「諸善(雑行)を捨てよということではなく、自力の心を捨てよ」ということである。
(⑥~⑫の主張)

となって、親鸞会の「雑行=諸善」という前提が間違っていることが
わかりますね。

すなわち、親鸞会の説明の言葉をそのまま使えば、
仏教で説く諸善の、弥陀の救いに己の善を役立たせようという心で行う諸善のことを「雑行」という
のですから、訳のわからない理屈をつけずに、
浄土真宗の教えのとおり「雑行という諸善を捨てよ」でいいのです。
雑行を捨てようとしたら善いことができなくなるはずもなく、むしろ逆なのです。
それなのに親鸞会が浄土真宗の教えに従って正しい説明をしない、
できないのは、
自分の勧めている諸善が雑行になることが明らかになるからです。
それで、根拠もなく独自の定義で誤魔化そうとして無茶な論理になるのです。

繰り返しますがだからといって「雑行をすてよ」が親鸞会の反論のように
「善いことをしてはならない」とか「悪いことをしなさい」ということになってしまう
はずがありません。そのように言うのは浄土真宗を知らないのですから
きちんと浄土真宗を学んでくださいということです。

ついでに「疑難と答え」の1と3についても見てみましたが、
詭弁の特徴が表れていますから、次回に考えてみたいと思います。

参考までに、「接続詞」について詳細に解説された本から
その役割と意味について一部抜粋します。
親鸞会が本当に読み手のことを考えているのかどうか
それ以前に自分がわかって書いているのか
少し考えたほうがいいと思います。

 接続詞で問われているのは、
命題どうしの関係に内在する論理ではありません。
命題どうしの関係を書き手がどう意識し、
読み手がそれをどう理解するのかという解釈の論理です。

 もちろん、言語は、人に通じるものである以上、
固有の論理を備えています。
接続詞もまた言語の一部であり、「そして」には「そして」の、
「しかし」には「しかし」の固有の論理があります。
しかし、その論理は、論理学のような客観的な論理ではなく、
二者関係の背後にある論理をどう読み解くかを示唆する解釈の論理なのです。

 じつは、人間が言語を理解するときには、
文字から得られる情報だけを機械的に処理しているのではありません。
文字から得られる情報を手がかりに、文脈というものを駆使して
さまざまな推論をおこないながら理解しています。
わかりやすくいうと、文字情報の中に理解の答えはありません。
文字情報は理解のヒントにすぎず、
答えは常に人間が考えて、頭の中で出すものだということです。


(略)そして、接続詞は、文のなかの情報を伝えるのではなく、
文脈を使った推論の仕方を指示する役割を備えています。
 接続詞の論理は、論理のための論理ではなく、人のための論理なのです。

(石黒圭『文章は接続詞で決まる』光文社新書2008年
第一章 接続詞とは何かp31~32)


 接続詞は「書き手」のもの
 前章の終わりで、接続詞は人のための論理を担うものであることを確認しました。
だとしたら、接続詞は書き手のためのものなのでしょうか。
読み手のためのものなのでしょうか。

 結論からいうと、書き手のためのものでもあり、
読み手のためのものでもあります。
(略)このように接続詞は、複雑な内容を整理し、
書き手があらかじめ立てた計画に沿って確実に文章を展開させたいときに
力を発揮します。

 接続詞は「読み手」のもの
 一方、接続詞には「読み手のためのもの」としての側面もあります。
「側面がある」というよりも、接続詞は原則として
読み手のためにあると考えておいたほうがよいでしょう。


 本書の冒頭で井伏鱒二の言葉を引用しました。
その引用の中で、「尊敬する某作家」が推敲の段階で、
繰り返し接続詞に手をいれていたという事実がとくに重要です。

 文章というのは社会的な存在です。
読み手が読んで理解できるように書かなければなりません。
しかし、私たちが文章を書くと、どうしても自分の論理で書いてしまい、
その結果、その情報に初めて接する読み手が理解できなくなる
ということがしばしば起きます。
文章を書くということの難しさは、まさにそこにあります。

 書き手の論理で書いた文章は、しばらく寝かせて、
自分と切り離す必要があります。
そして、自分と切り離せた段階で、他者の眼でその文章を読みなおし、
他者の論理で推敲をする必要があるのです。

 自分の書いた文章を他者の眼できびしくチェックすることは
「言うは易く、行なうは難し」ですが、
優れた書き手は優れた読み手でもあり、
自分の書いた文章を読み手の視点からモニターすることに長けています。
……

(同著 第二章 接続詞の役割 p36~39)

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『接続詞』のない文章~根拠がないことを見えにくくする~

2011年07月03日10:24

 文章の流れは接続詞によって決まります。なぜなら,接続詞は文章の方向性を決めるからです。読み手は接続詞の登場によって,文章がどの方向へ向かうかを知ります。例えば,下の二つの文を読んでみて下さい。

1.「今日は雨です。しかし私は○○(な)気持ちです」
2.「今日は雨です。だから私は○○(な)気持ちです」

 この文を読んで,皆さんは「○○」の部分にどのような言葉を思い浮かべたでしょうか。おそらく1の文章には「さわやかな」や「晴れ晴れとした」といった言葉を思い浮かべたのではないでしょうか。一方の2の文章には,「うっとうしい」や「どんよりした」などを思い浮かべたかもしれません。

 このように,後に続く文章の内容についておおよその予想がつくのは,「しかし」や「だから」といった接続詞があるからです。

 それにもかかわらず,私たちが普段文章を書くときに接続詞を意識することはあまりありません。感覚的に接続詞を選んでしまうことが多いのです。その理由は,日本語の特性によります。日本語は,英語などと比べて文の方向性をそれほど明確にしないで,文をただ続けていくだけで文章ができるという特性があります。このため,接続詞を意識しなくても「それなりの」文章が書けてしまいます。

 このことについては説明を始めると長くなってしまうので今回はここまでにしておきますが,この日本語の特性はビジネスにおいて大きな取り違えを起こす原因になります。特に,ITの世界のように正確さや明快さを重視する世界では,注意しなければならなでしょう。

 では,実際の例文を使って接続詞を効果的に使うためのトレーニングをしてみましょう。まず,以下の文章を読んで,何が問題かを考えてみてください。

どこが問題?

R社の会員システムを先週納品し,順調に稼働しているとの報告を受けていました。今朝R社からクレームの連絡が入りました。ログインエラーが多発しており会員からの問い合わせが殺到しているとのことです。調査したところ予想以上の同時ログインがあったためサーバーに負荷がかかっていることがわかり,ログインエラーを引き起こしているようです。先方にはまず謝罪し,システム改良,サーバーの増強を提案するつもりです。


ここが問題! 文章の方向性がわかりにくい

 この文章は,出来事が順番に語られています。一読すると内容はつかめそうです。ただ,何かしっくりこない印象を受けると思います。
 というのも,文章中に接続詞(またはつながりを示す副詞)がないために,一つひとつの文の内容のつながりが分かりにくくなっているからです。そのため読み手は,文章全体で何が言いたいのかが理解しにくい文章になっています。

これで解決! 接続詞を正しく使う

 このような場合,文の前後の意味を考えながら接続詞(またはつながりを示す副詞)を入れていくと,文章全体の流れがはっきりして読みやすくなります。

改善後

R社の会員システムを先週納品し,順調に稼働しているとの報告を受けていました。ところが今朝R社からクレームの連絡が入りました。それによるとログインエラーが多発しており会員からの問い合わせが殺到しているとのことです。そこで,調査したところ予想以上の同時ログインがあったためサーバーに負荷がかかっていることがわかりました。これによってログインエラーを引き起こしているようです。ですから先方にはまず謝罪し,システム改良またはサーバーの増強を提案するつもりです。


 文と文の間に接続詞を置き,文の流れを示す言葉を補ったことで,後に続く文の内容の方向性を予測でき,文章全体が読みやすくなりました。このように,文章を書くときに接続詞を意識すると,文章の分かりやすさが飛躍的にアップします。
「悪文と良文から学ぶロジカル・ライティング」接続詞を効果的に使う


前回は『顕真』平成23年6月号の「疑難と答え」の記事について取り上げましたが、
ここにも親鸞会の文章・話の特徴が如実に表れていますので、
ついでに考えてみたいと思います。

以前にも指摘されていたことですが、親鸞会の文章には
「接続詞がない」
という特徴があります。
なぜそうなるのかということと、それが読む方にもたらす効果について考えてみると
そこからまた親鸞会のトリックが見えてきます。

普通、何かを説明する文章なら、
「しかし」「つまり」「それは」「ところで」「さて」
等の接続詞が使われているのが普通です。
ところが、親鸞会の文章には極端に少ないのです。

わずかにあるにはあっても、
それはその文章の中の例え話の中での接続詞であったりして、
全体の論旨に対しての接続詞ではないのです。

接続詞には何の役割があるのかと言えば、
それ自体には意味はないけれども、その後に続く内容の方向性を示すものです。
つまり、”テーマ”に対してどのような位置づけ(視点)の内容の
文章が続くのかを示してくれるから、よりわかりやすく、
論旨がはっきりするものなのです。

例えば、
「しかし」とあれば、逆説だなとわかる訳ですし、
「例えば」とあれば例示、
「なぜならば」とあれば根拠、
「よって・ゆえに」とあれば根拠から導かれるとされた結論
と見えるのです。

ところがこれらがないとなれば、その論旨の中での
位置づけがわかりにくい訳ですから、
全体としてもやっぱりよくわからない文章になります。

仮に、一つ一つの段落で言っていることが正しくても、
それが全体の主張の根拠になっていなければ、
全体としての説得力はない訳です。

例えば
「梅雨に入った。今日は晴れだ。傘を持っていこう。梅雨時は雨が多い。」
という文章があるとします。
これは、事実を時系列で述べただけのものです。
それぞれは事実ですから間違いではなく、
言いたいことはわからないでもないですが、やはりわかりにくいのです。

接続詞を入れて足りない言葉を補ってみます。
「梅雨に入った。ところが今日は晴れだ。けれども傘を持っていこう。なぜなら梅雨時は雨が多いからだ。」
これでよくわかって言いたいこともはっきりします。
事実とそれに対する行動、その根拠、という形で示されているからです。

接続詞があれば、文章の順番を変えても同じ意味を伝えることができます。
「今日は晴れだ。しかし傘を持っていこう。なぜなら梅雨に入ったからだ。梅雨時は雨が多い。」
となりますが、ではこの接続詞を抜いてしまったらどうでしょうか。
「今日は晴れだ。傘をもっていこう。梅雨に入った。梅雨時は雨が多い。」
全体として何が言いたいのかわかりますか?
傘をもって行ったということが言いたいのか、
梅雨時は雨が多いということがいいたいのか、よく分からない文章になることが
分かるでしょう。「それで何がいいたいの?」という文章です。

しかし、上の引用にもありますが、日本語はこのような接続詞のない文章でも
成り立ってしまうという特徴があります。
また、接続詞がないような文章の世界もありますね。
『詩』です。
高森会長の文章について「詩のようだ」と言われた方がありましたが、
それも一理あるのです。
自由に思いついたことを、自分の感性の世界で表現して、
読む方も想像を交えながら、書き手と読み手の感性で
お互いの世界を共有する言葉の世界とも言えるのが詩なのですから、
接続詞はなくてもいいのです。

しかし、いつも述べているように、
「間違って伝えてはならない」とか「わかりやすく伝える」
と言っているものが、実際は接続詞も付けられないような
非論理的なものであっては伝わらないということです。

前置きが長くなりましたが、実例です。
『顕真』平成23年6月号P7~P11

疑難と答え2

「雑行を捨てよ」の意味(その1)
(疑難)
「親鸞聖人は、雑行を捨てよと教えられているのだから、諸善をする必要はない。善を勧めるのは間違いだ」

(答え)
 真宗の人々に、こんな誤解が多い。もし、これが浄土真宗の教えならば、布施(親切)や精進(努力)、父母の孝養などは、必要ないからするなという、放逸無慚な怠け者を作るのが親鸞聖人の教えになるだろう。
 これらはみな、仏法で説く諸善であるからだ。

 これは全く、「雑行」というものを知らない人の発言であることは明らかだが、こんな聞き誤りが、結構多いのが現状である。
 その元は、どこにあるのか解明しよう。

「雑行」とは、「弥陀の往生浄土の救いを求めてする、もろもろの善」をいうのである。
 仏教で説かれる「諸善」が、悪いはずがないのだが、なぜその「諸善」を、「雑行」と嫌い、捨てよと言われるのか。

 それは「自力の心」で行うからである。「自力の心」さえ廃れば、「諸善」は「雑行」とも言われず、捨て物でもなく、「御恩報謝の行」となり、身を粉に骨砕きてもの、恩徳讃の活動になるのだ。

 例えば、「一緒にいたい」と思う心の高揚が結婚となり、「一緒にいたくない」と思う心の高揚が離婚となるようなものである。
「結婚」と「離婚」は反対だが、「一緒にいたいか、いたくないか」の心で分かれる。
「もろもろの善」が「雑行」となるか、「報謝の行」となるかは、「自力の心」が廃ったか、どうか、の一点によって分かれるのだ。

 では、「自力の心」とは何か。それは弥陀の本願を疑っている心である。
「弥陀の救いに、己の善を役立たせようとする心」であり、「役立つと、思っている心」だ。
 例えば、”これだけ善いことをしているから””善いこと言っているから””善いこと思っているから””悪を慎み、善に努めているから””朝晩、お勤め欠かさないから””真剣に聞いているから””本願を疑っていないから””阿弥陀さまを深く信じているから””後生、助けてくださるだろうなどと、自分の、身・口・意の三業を善くして、弥陀の救いに値おうとしている心である。

”悪しかできない十方衆生だから、われを たのめ、そのまま救う”と弥陀は誓われているのに、その本願を疑って、悪しかできない己とは毛頭、思えず、善ができると自惚れているのだから、弥陀の本願に反発している心だ。
 ゆえに、親鸞聖人は「仏智疑う罪深し」と、この”自力の心ほど恐ろしい罪はないのだよ”と教戒されているのである。

 ではなぜ、弥陀の本願を疑う心(自力の心)がそんなに恐ろしいと仰るのか。
 常識では分からぬことだから、一つの喩えを挙げてみよう。
…(略)… 

  微塵の善もできず、十方諸仏に見捨てられた極悪人と知り抜いた弥陀が、「われ一人助けん」と立ち上がり、「われを たのめ、必ず救う」と誓われて、幾億兆年の修行の末、十方世界の善根を南無阿弥陀仏の中に結実し、「どうか、そのまま受け取ってくれ、お前一人のために創ったのだ」と、今現在、叫び続けられているのである。

 その弥陀の本願を疑い、悪しかできぬ者とは微塵も思えず、何とかすれば、何とかなれると自惚れている心を「自力の心」というのである。
 古より、「弥陀を殺すに刃は要らぬ、腐った頭で考える」といわれる。
「弥陀の救いに、己の善を役立たせよう」とする「自力の心」こそが、阿弥陀仏を殺す凶刃なのである。

「雑行を捨てよ」とは、この「自力の心」を捨てよということであって、「もろもろの善をするな」「諸善を捨てよ」ということでは断じてないことを牢記しなければならない。

(原文)
 【仏智うたがう罪ふかし
  この心おもいしるならば
  くゆる心をむねとして
  仏智の不思議をたのむべし】
         (正像末和讃)
(意訳)
 「弥陀の本願を疑うほど
  恐ろしい大罪はなし
  その罪をふかく懺悔して
  本願の不思議を信ずべし」


赤字で示した部分が接続詞ですが、
いずれも、表題の「疑難」に対する主張の方向性を示したものではありません。

ここでは文章全体の論理構造を見るために
細かい部分の間違いは置いておくとして、
わかりやすくするために段落ごとの主張を要約してみます。

① 真宗の人びとに、疑難のような誤解が多い。
疑難のとおりなら、聖人の教えは怠け者を作る教えになる。「仏法で説く諸善」だからだ。
② これは「雑行」というものを知らない人の発言であり、このような聞き誤りが多いのが現状である。
その元はどこにあるのか解明しよう。
③ 雑行とは弥陀の往生浄土の救いを求めてするもろもろの善をいう。
仏教で説かれる「諸善」を「雑行」と嫌い捨てよと言われるのか。
④ それは自力の心で行うからである。「自力の心」さえ廃れば「雑行」ではなく「御恩報謝の行」である。
⑤ 例えば、(結婚と離婚の例)
⑥ では、「自力の心」とは何か。弥陀の本願を疑う心である。
⑦ それは善ができると自惚れて、弥陀の本願に反している心である。
⑧ ではなぜ、「自力の心」が恐ろしいのか。
⑨ (5歳の男の子の例え話)
⑩ 弥陀は「どうかそのまま受け取ってくれ」と今現在叫び続けている。
⑪ その弥陀を疑う「自力の心」こそ、阿弥陀仏を殺す凶刃である。
⑫ 「雑行を捨てよ」とは、この「自力の心」を捨てよであって、もろもろの善を捨てよということではない。
⑬ (本願疑惑を戒めるご和讃)


この文章全体で言うべきことは何だったのでしょう。
接続詞でなくても、はっきりと文章の方向性や論旨を言えばいいのですが、
それが第2段落目の「その元はどこにあるのか解明しよう」です。
「疑難のような主張は聞き誤りだから、その原因は何か解明しよう」
ということで、表題も『「雑行を捨てよ」の意味』と題して
疑難に答えるものなのですから、親鸞会としてはそのテーマに沿って
「雑行を捨てよであって、善を捨てよではない」ということの主張でなければなりません。
つまり、聞き誤りの元を示しながら、結論として言いたいことの
根拠を示していかなければならないはずなのです。
結論は示されていますが、根拠はどこにあるのでしょうか。
よく読めば、どこにも結論の根拠がないことが分かるのです。
それを感じにくくするトリックが、接続詞のない文章なのです。

論点の外れない説明をした上で、
さらに例示の説明をするのであれば「例えば」であり、
順接の内容ならば、「すると」「そして」と続くのであったり、
逆説の内容を出すのならば「しかし」と加え、
補足するならば「ただし」「つまり」等と繋がっていくものなのです。

前後の文章に繋がりがあるか、論点は何かということに注意しながら
段落ごとに何が書かれてあるか見てみると、

①…疑難が間違いであるという理由。
②…①のような現状であるということとこれから書くこと。(聞き誤りの元を解明するということ。)
③…雑行の説明。「諸善」は「雑行」であり、嫌い捨てよと言われる。
④…③の理由。
⑤…③の例えのつもり。(実際は例えになっていない)
⑥…自力の心の説明。
⑦…⑥の補足説明。
⑧…⑥のさらに補足説明。
⑨…⑧の例え話。
⑩…⑥の続き、補足。
⑪…⑥の結論。
⑫…全体の結論。
⑬…⑥の補足(本願疑惑を戒めるご和讃)

となっているのです。
①で、疑難の主張が間違いであるのは
「雑行と言っても仏教で説く諸善だからである」という”理由”を述べていながら、
以降でその”根拠”は何も示されていないことがわかります。

②は現状とこれから書くことを述べたに過ぎません。
③はいつもの親鸞会の、お聖教に基づかない独自の「雑行」の定義です。
④⑤は③の説明であって、②の説明になっていません。
⑥~⑪は自力の心(の恐ろしさ)の説明であって、
やはり「諸善を捨てよではないという主張の根拠」ではありません。
それで根拠のないまま⑫で唐突に結論として断定をしているという”強弁”です。
いわば関係のない話、論点とは違った話が
延々とポンポンと差し込まれているだけで、
文章に繋がりがないのです。だから接続詞で繋げられないのです。

無理矢理にでも①から⑬を接続詞でつなぐとしたらどうなるか
考えてみてください。
長くなりましたので続きは次回にします。

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