暗示にかけようとする質問~多重尋問の誤謬~

2011年07月28日03:22

4-33 多重尋問(complex question)

これは、思い込みをもとにした質問です。

「あなたは最近はもう女の子にいやがらせしてない?」
(以前はしていたと決め込んでいる)

 これは修辞的トリックであり、議論ではありません。
これはあることが真実であると思い込んでする質問なので、
その点ではcircular reasoningと似ています。

・議論に近い質問

「あなたはもう中学生なんだから、
女の子のスカートめくりはしなくなったわよね」

(返事「小学校のときだってしてないよ」

「あなたはどうしてあんな変な決定を下したんですか?」

これはcomplex questionです。
complex questionを議論中の文に書き換えると
次のようなタイプの文になります。

「なぜ彼はあのような愚かな決定をしたのであろうか。
それは△△だからである」


 こういう議論はよく見られますね。
注意すべき点は、
「その決定がなぜ愚かなのか」の理由が述べられずに
話が進んでいる
ことです。

このように書いてあると、
読み手が批判的に考えることができない人の場合、
なぜその決定をしたのかの部分にのみ関心が向いてしまい、
「それが愚かな決定であること」を
無意識かつ無批判に受け入れてしまうことになりがちです。

あることを前提としていて、
それが明言されていない場合、
批判的に考えられない人は、
その「低級テクニック」にうまくだまされてしまうので、
注意が必要です。


 このタイプの議論は、
議論上手な人にはバカバカしいだけの議論に見えるので、
あなたは使わないように気をつけましょう。

「なぜ彼はあのような愚かな決定を下したのであろうか。
それは△△だからである」のように
自分で答えるために問う質問が書かれている場合、
その質問中に当然とこと(正しいこと)と書き手がみなしている前提が
隠れていることがよくあります。
そのタイプの質問には注意しましょう。

(小野田博一著『正論なのに説得力のない人 ムチャクチャでも絶対に議論に勝つ人』日本実業出版社 第4章 説得力に乏しい「下手な詭弁」p124~125)



色々考えたいことはありますが、
タイムリーで分かりやすいところから取り上げていきたいと思います。
今回も非常に単純で分かりやすい例です。

以前に、「暗示にかけようとする表現」というトリックを
ご紹介しましたが、覚えていらっしゃると思います。

繰り返しになりますが、一部抜粋すると、

・論じたい点として主張を述べず、主張を前提とした別の論を書く
──これが第一の方法です。

このタイプの文章は、
批判精神の乏しい読み手には強い影響力があるので、
読み手には危険な書き方です。

たとえば、「女性が依存症を克服するにはどうしたらよいか」
という論があったとしましょう。
これには「女性には依存症がある」という前提が隠れています。


というものです。しかも、

批判精神の乏しい読み手がこれを読むと、
「女性には依存症がある」という考えを無意識のうちに持つことになります。
論理で納得して自分の考えとするのではなく、
無意識のうちに無批判に自分の考えとしてしまうことになるので、
これは読み手にとって非常に危険な方法です。


というものなので、知らず知らずに話し手の考えを刷り込むには
非常に有効な方法なのです。

この後に例示されていた三つの論、

a『なぜ私はこれほど聡明なのか』
b『**政策のどこが悪かったのか』
c『あなたはなぜ勉強の仕方が下手なのか』


で言えば、これを議論することは、

aなら「私は聡明だ」ということが前提にある議論となり、
bなら「**政策は悪かったのだ」ということが前提にある議論となり、
cなら「あなたの勉強の仕方は下手だ」ということが前提にある議論となる

ということです。
そこに気付かすに議論が始まってしまえば、
その前提が事実かどうかという検証はありません。
つまり、「私は聡明だ」「**政策は悪かった」
「あなたの勉強の仕方は下手だ」ということが
刷り込まれることになるのです。

これを応用して質問の形にしたものが、
冒頭の多重尋問(暗示にかけようとする質問)です。

さて、今回の本題の実例です。
飛雲 『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り28
にありました『顕真』7月号の「疑難と答え5」は、
答えを読まなくてもこの「疑難」の部分

弥陀の本願は矛盾か

(疑難)
「弥陀が十方衆生を煩悩具足・造悪不善の者と見抜いて十八願を建てられているのに、十九願で諸善を勧めていられるのは矛盾ではないか」



を一読するだけでこの多重尋問の誤謬だとわかります。

飛雲では答えの部分の間違いをわかりやすく解説されていますので、
私は論理の観点からもこの問い自体の誤りについて述べます。
といってもここまでのところを読まれて理解されていれば、
もう既にこの誤謬についてお気付きで、
私の説明も要らないのかも知れません。
しかし、自分の言葉で説明をするというのも、
考えたり理解の整理をするという上では大事なことなので、
やっていきます。
(自分の考えを書けば、間違っていれば教えてもらうこともできます。)

この疑難には、例に漏れずいくつかの「隠れた前提」があります。
まず一つには、
・「十九願で諸善を勧めていられるのは矛盾ではないか」という疑難がある
という前提です。

これはどのような意味で言っているのでしょうか。
「十九願は矛盾する」という疑難なら、ありません。
後から飛雲さんも
「18願と19願とが矛盾するとしきりに言っていますが、何も矛盾しません。
私が矛盾すると言っているのは、
悪人に19願を勧める高森理論が矛盾だと言っているのです。」
と書かれているように、
誰も“諸善について説かれた”十九願が矛盾するとは言っていません。
「親鸞会の『十九願に“諸善の勧め”がある』とする主張が矛盾する」と言っているのです。


ですから、ここからもう一つの前提と、
親鸞会の思惑が見えてきます。
ここに含まれている二つ目の隠れた前提は、
・「十九願に“諸善の勧め”がある」
ということです。
ここでいう諸善の勧めがあるとは、「諸善を説かれた」ということではなく、
(お釈迦様が定善散善について説かれたのは事実です)
親鸞会が言っている、
「実行させるために」諸善を説かれたという意味です。

これは、親鸞会独自の主張であって、
批判者は「十九願は諸善の勧めではない」と言っているのですから、
親鸞会だけに通用する前提です。

つまり、この疑難は「諸善の勧めがある」とする親鸞会自身が抱える、
自己矛盾に対する疑難なのです。
いわば自問自答です。
最初の引用の記事の中でいえば、
隠れた前提を正しいこととして暗示にかけようとする、
「自分で答えるために問う質問」なのです。
このような「低級テクニック」にだまされてはいけません。

言い換えれば、親鸞会の教えは
「十九願に“諸善の勧めがある”」とするから矛盾するのです。
ここで「諸善の勧めがあるとすると、矛盾するのではないか?」
と言っていますが、そのとおりなのです。
矛盾してしまう、お聖教にも説かれていない教えだから、
「諸善の勧めはない」と言っているのです。
ですから、親鸞会は「答え」の部分でも、
その自問自答にまともに答えることができていないのです。
元々答え(根拠)がないのですから当然です。

例えて言うなら、
「なぜ兎に角があるのか」
という問いに答えようとしているようなものです。
設問自体が誤りなのですから、
何を答えても誤りにしかなりませんし、
答えようとすれば支離滅裂になるのは当たり前なのです。

逆に言えば、
「十九願に諸善の勧めがある」を前提としている親鸞会員にとっては、
「十八願だけで救われる」という本来の浄土真宗の教えは、
矛盾に聞こえてしまうのでしょう。
だからこそこのような想定疑難が浮かんだとも言えます。

まとめますと、この疑難5の中には、
1、「十九願で諸善を勧めていられるのは矛盾ではないか」という疑難がある
という隠れた前提がありこれが間違いで、
さらにこの前提1の中には、
2、「十九願で諸善を勧められている」
という前提が含まれており、
これが間違いの根本だということです。
間違った前提から出発しているので、
本来の教えとは辻褄が合わなくなるのです。

この疑難と答え5を無批判に読むことができる人には、
・親鸞会を批判している者には「十九願が矛盾する」と言っている者がある
・十九願では諸善が“勧められている”
ということが刷り込まれる
ことになるのです。

正しくは、
・十九願が矛盾するのではなく、浄土真宗で
十九願に諸善の勧めがあるとする親鸞会が矛盾すると言っている
・十九願で諸善をやりなさいと勧められていると見るのは誤り
なのです。

【付記】
ついでなので、述べておきますと、
この多重尋問の誤謬は、親鸞会の『教学聖典』と言われるものの中で
多く使われ、効果を発揮していると考えられるものです。

つまり、「問い」自体に前提として作者(高森会長)の考えが含まれており、
その「誤った問い」に対して「答えがある形を示す」ことで、
その問題にあらかじめ含まれている根拠のない前提が
読む人に刷り込まれていくというものです。

こちらのサイト『TS会 教学○典の研究』
を参考にいくつか例を拾ってみました。
→の先で示したのが、その設問の中に含まれる作者の考えで、刷り込まれていく間違いです。(正しくはそのような内容ではない。)

『教学聖典』(1) 
問(12)
親鸞聖人の仰せは釈尊の直説である根拠をお聖教のご文で示せ。
答(12)
○更に親鸞珍らしき法をも弘めず、如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり。(御文章)

→親鸞聖人が「私の言っていることは釈尊の直説であるぞ」と言っている。

問(39)
「地獄へ堕ちてから、善知識の教えに従わなかったことを後悔する」と仰せられた善導大師のお言葉を書け。
答(39)
○一たび地獄に入りて長苦を受くる時、始めて人中の善知識を億う。

→「地獄へ堕ちてから、善知識の教えに従わなかったことを後悔する」と善導大師が仰っている。

問(43)
「善知識の教えに従わないから、永遠に苦しみ続けなければならぬのだ」と教えられた、釈尊のお言葉と、その根拠を示せ。
答(43)
○教語開示すれども信用する者は少し。生死休まず悪道絶えず。(大無量寿経)

→「善知識の教えに従わないから、永遠に苦しみ続けなければならぬのだ」と釈尊が教えられている。

問(50)
「人間に生まれてきたのは、仏法を聞き絶対の幸福になることだ」と教えられた、釈尊のお言葉を示せ。
答(50)
○人身受け難し、今已に受く。
 仏法聞き難し、今已に聞く。
 この身今生に向って度せずんば、さらにいずれの生に向ってか、この身を度せん。

→「人間に生まれてきたのは、仏法を聞き絶対の幸福になることだ」と釈尊が教えられている。

『教学聖典』(2)
問(27)
三業の善を勧められた善導大師のお言葉を書け。親鸞聖人はそれをどのように読み変えられたかも示せ。
答(27)
不得外現 賢善精進之相 内懐虚仮
○外に賢善精進の相を現じて、
 内に虚仮を懐くことを得ざれ。(善導大師)
○外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、
 内に虚仮を懐けばなり。(親鸞聖人)

→善導大師は三業の善を勧められている。

問(28)
「十方衆生に善人は一人もいない」と言われた親鸞聖人のお言葉と、その根拠を示せ。
答(28)
○一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し。(教行信証信巻)

→親鸞聖人は「十方衆生に善人は一人もいない」と言われている。

問(43)
苦しみの人生を、明るく楽しく渡すものが阿弥陀如来の本願であることを明言されている親鸞聖人のお言葉と、その根拠を書け。
答(43)
○難思の弘誓は難度の海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり。
 (教行信証総序)

→「難度の海を度する大船」とは、苦しみの人生を、明るく楽しく渡すものという意味である。

問(47)
「阿弥陀如来に救い摂られた人は絶対の幸福になれる」と明言されている『歎異抄』のお言葉を示せ。
答(47)
○念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし、罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなき故に無碍の一道なりと、云々。

→阿弥陀如来に救われるということは、絶対の幸福になれるということである。

『教学聖典』(3)
問(2)
自分の信心を謗る者のあることを、かえって喜ばれた親鸞聖人のお言葉と、その根拠を示せ。
答(2)
○「この法をば信ずる衆生もあり、謗る衆生もあるべし」と仏説きおかせ給いたることなれば、我はすでに信じたてまつる、また人ありて謗るにて「仏説まことなりけり」と知られ候。(歎異抄)

→親鸞聖人は自分の信心を謗られてかえって喜ばれている。

問(30)
阿弥陀如来に救い摂られると、ハッキリする、と教えられた釈尊のお言葉と、その根拠を示せ。
答(30)
○明信仏智(大無量寿経)

→釈尊が教えられた「明信仏智」とは、「阿弥陀如来に救い摂られるとハッキリする」ということである。

問(32)
阿弥陀如来の本願(お約束)の本意を、釈尊が明らかになされたものを『本願成就文』と言われるが、その『本願成就文』を記せ。
答(32)
諸有衆生聞其名号 諸有の衆生、其の名号を聞きて、
信心歓喜乃至一念 信心歓喜せんこと乃至一念せん。
至心廻向願生彼国 至心に廻向せしめたまえり。
         彼の国に生れんと願ずれば
即得往生住不退転 即ち往生を得、不退転に住す。
唯除五逆誹謗正法 唯五逆と正法を誹謗せんとをば除かん。

→『本願成就文』とは、阿弥陀如来の本願(お約束)の本意を釈尊が明らかになされたものである。

問(48)
阿弥陀如来の名号を聞く一念で、無上の功徳と一体になれると教えられた、釈尊のお言葉を『大無量寿経』で示せ。
答(48)
○仏、弥勒に語りたまわく「それ彼の仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍し、乃至一念すること有らん。当に知るべし。この人は大利を得と為す。すなわちこれ無上の功徳を具足するなり」。

→釈尊は、阿弥陀如来の名号を聞く一念で、無上の功徳と一体になれると教えられている。

『教学聖典』(5)
問(24)
「無宿善は絶対に助からぬ」と明言されている蓮如上人のお言葉と根拠を示せ。
答(24)
○いずれの経釈によるとも既に宿善に限れりと見えたり。(御文章)
○無宿善の機に至りては力及ばず。(御文章)

→蓮如上人は「無宿善は絶対に助からぬ」と明言されている。

問(26)
「宿善に厚薄あり」と言われた蓮如上人のお言葉と、その根拠を示せ。
答(26)
○宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり、弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く開くる人もあり。(御一代記聞書)

→蓮如上人が「宿善に厚薄あり」と言われた。

問(28)
「宿善」とはどんなことか。二通りの読み方を示せ。また宿善が厚くなる順から三つあげよ。
答(28)
○「宿世の善根」とか、「善が宿る」とも読む。
(1)熱心な聞法
(2)五正行の実践
(3)六度万行の実践

→宿善が厚くなる。

ここまで写して疲れました。
あとはご自身で確認してみてください。
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