情報や考え方を一方に限定し、操作する~「教育」と「操作」の違い~

2012年06月05日08:43

ここまで考えてきて、
カルトのトリックというものもずいぶん見えてきました。

このサイトの最初のほうでも述べたように、
批判的思考(=論理的思考:クリティカル・シンキング)
というのは、
別の見方(視点)の存在も疑ってその方向からも考える
ということです。

どうして別の視点からの見方を示すことに
意味があるのかといえば、
これこそがカルトに欠けているもの、
カルトの信者がカルトによって奪われるものだからです。

このサイトの上部にある絵は、
ルビンの壺といわれる
有名な「盃と顔図形」という絵ですが、
黒を背景とすると盃の絵に、
白を背景にすると向き合った女性の顔の絵に
見えるというものです。

これは盃の絵なのか?それとも顔の絵なのか?といえば、
「どちらにも見える」
「場合によっては盃、あるいは人の顔」
なのですが、これを
「盃(あるいは人の顔)である」
と断言固定して、
他の見方や個々の判断を許さないのがカルトです。

この絵の場合は、
最初からどちらにも見えるトリック画として描かれているので
そうではありませんが、
もし作者が意図して盃の図を書いたのに、
たまたま背景の部分が
人の顔に見えるような形であったからといって、
見た人が勝手に
「これは黒い部分が人の形にしか見えないのだから
人の顔の絵なのだ」
と断言して言いふらしては、
作者の意図を正しく汲んでいないことになります。

文章なら、
好き勝手に読めばどのように解釈することもできるのです。
では一体何が正しいのか(どう解釈すべきか)となったとき、
できるだけ多くの考え方や見方、視点からの考えを知った上で、
自分で判断しなければならないのです。

「正しい」というのは、
いつでも「自分にとっての正解」なのですから、
自分が、正しいものとして何を選ぶか、にかかっているのです。

ですから判断力というのは、
批判的思考(論理的思考)の上に成り立つ力
ということができますし、
批判的思考(多くの考え方・
視点の中から正しいものを選びとる力)がなければ
正誤の判断もできないということになります。

こういう見方(事実)もある
いやしかし一方ではこうも言える(こういう事実もある)
となったとき、
どちらを採るかということです。
それで初めて、判断(自分で選ぶ)ということがある訳です。
ならば事実(選択肢)はなるべく多くあったほうがいいのです。

「あれこれいろいろ出されても何が正しいのかわからない」
というのは、
選択肢はあっても
自分の側に選び採る力だけの培われていないということです。
いわば材料はあっても調理ができない状態と言えるでしょうか。
カルトはそこにもつけ込みます。
じゃあこれでと実は粗雑な一種類の材料だけを提示して、
これが最高唯一のものだからと
高額な料金で買い取るよう勧めてきます。
だからたとえ苦しくても、
自ら学んで色々な人の意見を聞いて、
迷っても批判的思考をもって
自分で確かめていくことが大事だといえます。

色々な人の意見を聞くというのも、
人が違えば見方や視点が異なるからです。
視点の異なる考え方というのも一つの事実です。
できるだけ多くの事実から判断すれば
それだけ正しさに近づくということになります。

ですから、真の教育者(指導者)なら、
色々な知識や考え方があるという判断の為の材料を与え、
その中から自分で選び採る(判断する)力を養わせるものです。
自分に従えとは言わないはずです。

多角的な視野(多彩な判断材料)を得た上で
その中から自分で選び採る力
これこそが本当の教育で養うべきことであり、
少なからず教育で養われてきたはずのことです。

ところが、カルトはこれをさせません。
逆のことをするのです。
いわば、今までの教育を台無しにしていって、
人生を奪うのです。
台無しにさせるからこそ
人生を奪うことができるとも言えるでしょう。
自己を否定し、奪われていく過程なのです。

まず、カルトは、
「こういう事実しかありません」としか示しません。
歪曲された、あるいは断片的な、
自分達にとって都合のよい一方の情報しか伝えません。

多角的な見方というものも許しません。
〇〇会は正しい、それ以外の△△は間違い
という二元論しかありませんから、
〇〇会の主張することだけ、
つまり〇〇会にとって都合のいい
〇〇会視点の思考・言い分しか存在しないのです。

その中で一方的な情報ではなく外部の情報を知ろうとしても、
様々な方法で遮断されます。
上に書いたようにまず
・伝えない
のに加えて、
・知ろうとすることも妨げられる
からです。

例えば
「嘘ばかりだから聞いてはならない」
「悪縁だから近づいたら地獄行きの罪になる」
「〇〇だから見てはならない」等々の
脅しがそうです。

「嘘ばかり」というのは
「そう言っている上の人(あるいは一部の人)」
の一方的な判断に過ぎません。
本当に「嘘ばかり」かどうかは、
実際本人に確かめさせて本人に判断させればいいのです。
誰だって嘘ばかりだと思えば自分から見るのは辞めるか、
見ても信じないだけです。

「嘘つきからは聞いてはいけない」
というのと、
「あいつは嘘つきだから聞いてはいけない」
というのは違うのです。

しかしカルトな人は
自分で判断する(考える)ことはしないのです。
判断をするのは何でも他の人物で、
自分では判断してはいけないできないとも思っているから
判断は常に他人に委ねようとして
自分は従うことだけを考えるのです。
カルトの中では、個人の判断力というものは
存在しない・存在してはならない悪として、
自分から奪われてしまうのです。

【おまけ】
ある人がこんなのがあると教えてくれました。
「間違いピラミッド」というコピーだそうです。
使い古されたものなのかどうか知りませんが
ある面言えてますね。

自己愛と思われる人と不毛な議論をしていて気付いたことがある。
彼らの考えは普通の間違え方じゃなくて多重的な間違え方になってる。

「君の考えは間違いだ」と指摘すると、
「ではどこが間違いなのか論理的に説明しろ」と要求してくるのだが、
じゃあ説明するにはどうすればいいかとリアルに考えると。途方もない労力が必要。

       大間違い
     間違い間違い間違い
   間違い間違い間違い間違い
 間違い間違い間違い間違い間違い
間違い間違い間違い間違い間違い間違い

図解すると、こんな感じで、一番上の大間違いの下に、
それを支えてる各論があって、それを全部間違えてたりする。
知識の間違いもあれば、論理のすり替えもあれば、すぐ前の議論を勘違いしてるようなものまである。
いうなれば間違いピラミッド。

こんなもんどこから手をつけていいのかわからない。
普通の人なら、どれひとつ陥らない間違いなんだけど、それを10も20も重ねてたら、めまいがしてくる。
そしてギブアップすると、こうなる。

やはり答えられないな。(俺が正しいからだ)
この「やはり」というのも意地の悪い算段ではなく、天然なんだろうなあ。
ああやっかいだ。



天然でなくても、
善いことをしているのだから(何をしても)悪くない
というのはもっとやっかいです。
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Author:lonli
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