絶対に議論に勝つ人

2011年07月16日21:42

前回の続きについては次回にします。

今回は参考になる本の中から紹介したいと思います。
小野田博一著『正論なのに説得力のない人 ムチャクチャでも絶対に議論に勝つ人』日本実業団出版社 2004年 です。

“詭弁術”とありますが、実際の内容は詭弁を見抜いて
上手な議論ができるようになりましょうという内容です。
以前に挙げた香西秀信氏の言葉にもあった、
「自分を詭弁を使えなくなるほどに、詭弁を学ぶべきである」
(詭弁を本当に学んだなら、詭弁は使えなくなる)
ということだと思います。

印象に残る部分について簡単に紹介したいと思います。
内容の如何に問わず“説得力があるように見せかける”には、
次のようにすればよいということがわかります。
(これまでに取り上げた詭弁と重なるところもありますが
ご了承ください)
以下引用と本文から要約して説明します。

間違った解釈、歪んだ解釈

5-16 歪めてアタック(ダミー論証)
 アタックする対象の意見を歪め、
その加工された意見をアタックするものです。

 選挙運動のときに政治家がよく使うけれど、
政治家のみではなく、ほとんどだれも使う手法です。
英語ではstraw manと呼ばれています。

straw manは、中世で、フェンシングの練習の相手として
ワラ人形を使っていたことに由来している呼び名です。(p146~147)


これは、ある意見(A)に不賛成であり、
なぜ不賛成なのか述べようとするとき、
その意見Aがどのような意見であるかをまず
簡単に述べ、それから反論するときに用いられるものです。

つまり、Aを簡単に述べる際、
その意見を克明に紹介したりはせず、
攻撃したい部分を中心に述べるのです。

ところがそのAの紹介に際して、
歪み(解釈の歪み、圧縮の歪み、不適切な語の使用など)が
加わるのです。
そして、反論をなるべく簡単に済ませたいという
気持ちが強ければ強いほど、歪みはすさまじくなり、
同時に説得力を失うことになるというものです。

資料の歪み

 Aと主張したい人は、
その主張を支える資料を積極的に探すもので、
また、それに反する資料は無視したり、
見落としたり、例外扱いしやすいものです。

誠実な人であっても、
自分の主張を支える資料を挙げるときは、
多少の歪みは入ります。

概して、資料の歪みについては、
聞き手よりも述べ手のほうが盲目になりがちです。
というのは、述べ手には
「自分の主張を支えたい」という強い思いがあるので、
その思いで自分の目がくらまされてしまいがちだからです。

 歪んだ資料から間違った結論が導かれている場合、
そしてその結論が正しく見える場合、
それが間違っていることがわかるまでには長い時間がかかります。
「資料の歪みがもとになっている間違った議論」は
非常に説得力があるのです。

5-23 一般化(間違った資料による)
 わずかな資料、歪んだ資料などをもとに一般化を行う
(背後にある一般的な法則を導き出す)ことを
「性急な一般化(hasty generalization)」と言います。

 一般化によって議論を述べる場合、
「それに使っている資料が一般化を行うのに妥当であること」が、
その議論の説得力に直接つながります。

つまり、「この資料で(そんなことが結論できるの)?」
と読み手・聞き手に思わせてはならないのです。
(p153~154)


通常、例数は多ければ多いほど、
一般化の説得力は強まります。

そして、「資料が歪んでいたり偏っていたりする可能性がある」
と聞き手、読み手に思えるとき、
議論の説得力はほとんどなくなります。

たとえば、
・自分に都合のいい資料にのみ言及する
・偶然と思える一例や特殊な一例から一般化を行う
(偶然の虚偽)
・古い資料が使われている
(聞き手・読み手には、古い資料をわざわざ使う
なんてことはするはずがないという思い込みがある)
・典型的でないサンプルが選ばれている
(これも、聞き手・読み手の側に、典型的でないサンプルが
わざわざ選ばれているはずがないという思い込みがある)
等の場合です。

資料の歪み方には、
歪めるのが故意であろうとなかろうといろいろなタイプがあり、
見落としやすいので注意が必要だということです。

ポイントはずれの話題

5-1 そらす、避ける(幻惑論証)
 そらす方法はいろいろあります。
「別の話題や枝葉の問題(a side issue)を持ち出してそらす」
のは、その一つです。

この手法は英語ではred herringと呼ばれています。
red herringはニオイが強く、
猟犬の嗅覚を狂わせてしまう燻製ニシンのことで、
猟犬のトレーニング用に使われています。(p133)


これは「燻製ニシンの虚偽」といわれるものですね。
論点のすり替えともいわれます。

悪口

5-9 人身攻撃(ad hominem abusive)
形式:「A氏はBと主張している。
A氏はCである。したがってBは正しくない」
 
Cの部分はA氏の性格、行動のほか、性別、民族、社会的地位、
ほかさまざまです。

さらに、Cは必ずしも真実であるとはかぎらず、
誹謗、中傷であることもあります。

対人(ad hominem)論証の一種で、
議論そのものではなく人を攻撃するものです。(p140)


このタイプの議論はまったくの論点はずれで、
読むにたえない・聞くにたえない極めて不快なものが多いものです。

5-12 連座の誤謬(guilt by association)
形式:「A氏はBと主張している。
A氏の仲間(あるいは、Bの支持者)はCである。
したがってBは正しくない」

 対人(ad hominem)論証の一種。


例「ニーチェの超人思想はナチスに支持された。
だから超人思想は正しくない」
(これは説得力がない例)

露骨な悪口が説得力をもつことはあまりありませんが、
注意しなければならないのは、
悪口らしく見えない悪口だということです。

本からは以上です。
いかがですか。
詭弁とその使い方を知ると、
それまで説得力があるように感じていたものに
全く説得力がなくなったりします。
つまり、それだけ惑わされていたということです。

詭弁と言っても、詭弁だから間違いだとは言えません。
詭弁ですよと言っても、ただ、
もう一つ別の見方を示しているだけに過ぎないのです。
ある一方的な見方への誘導に対して、
「そうは言っても、こういう見方もある、
本当にそれは正しいのか(説得力があるのか)」と
別の見方をすることによって考えるということです。
それだけ、私達の思考の仕方や思い込みには共通した癖があり、
正しく判断しているつもりでもいい加減なものだということです。

それにつけても、最後の「対人論証」についても思うのは、
人の意見(広く捉えて話)には当然
その人の人格が表れるに違いないのですが、
意見(話)と人格は別物だということです。

これが、
絶対的な人間の存在を認め、
しかもその人一人が絶対的であり、
その人の話を絶対的なものとして聞くことをよしとし、
人そのものに依存することにむしろ自ら疑問をはさまないようにする
などといったことをしてきていると、
人格と話に区別をつけることが難しくなるのでしょう。
人が違えば意見が違って当たり前なのです。
(今は、“人間”の話をしています。真実の法とは別の話です。)

ところが、ある一人の話が絶対的(間違いのないもの)であるとすると、
その人の話にすべての人が同化することを他人や自らが要求します。
誰しも、“間違いのないもの”“真実”を信じたいという願望があるからです。
その願望を叶えてくれる“人間”がいるという勘違いを始めると、
つまり、「その“人”を疑わないようにして信じっていったら救われる」
という宗教が生まれると、
あたかもその人間が真実あるいは真実の付与者であるかのように、
その人間が信仰の対象になっていくのです。(いわゆる神格化です。)

そしてその一人の人間の境地を理想として、
その人が説くその人と同じ境地になることを目指すので、
すべてが正しいその人と同じことを言わなければならないとなって、
違ったことが言えないという思いや集団を生み出します。
ついには自分が主体性をもって考えることを忘れ、
人(の話)に“全面的に”依存をしようとするという
過ちを犯す(させる)ことにもなるのです。
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