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表現の単純化~「簡潔」と「必要な説明が欠落している」は異なる~

2012年05月29日02:45

前々回の記事についてコメントをいただきました。一部ご紹介します。

信心と信仰の違いについての考察もできそうです。例えば信心は卑近な語感があり、信仰は「いと高きところにまします」と仰ぎ見る語感があるというように。

しかし両者は類似の概念として論理的問題にしぼって、
①卒業(完成)のある信仰
②信仰には卒業(完成)がある
のように単純化すると、

①では、「卒業のある信仰と卒業のない信仰があり、私達は卒業のある信仰を求めている。」となり、
②では、「卒業のない信仰はあり得ない。信仰とは必ず卒業があるものである。卒業のないのは信仰とは呼べないもので、間違い者である。」となります。

言い換えれば、①は色々な立場を認めた上で自分達の立場を打ち出している姿勢、②は自分達の立場以外は論外という姿勢であると思います。正確に言えば、卒業があるのは会の信仰だけという暗黙の了解が必要ですが。

また、「卒業のある信心」と「信仰には卒業がある」として信心と信仰を使い分けるなら、信心は世間一般のものも会のものも包括する概念、信仰は会のものだけを表す概念となりますね。これも、先の暗黙の了解の部分を差し引いて論理的正確さを追求すれば、「信心には卒業のあるものとないものがあり、信仰には卒業のあるものしかない。」というべきです。

どうもくどくなってしまってすみません。日本語の特性というより、正確に言おうとするとどこの国語でもくどくなるでは、と疑っています。



有難うございました。
私とはまた若干違った角度から素晴らしい分析をしてくださいました。

少し整理させていただくと、
記事にも書かせていただいたように、
親鸞会は①の意味でも②の意味でも用いていて、
①から入っていって②を強調する、②が結論となっている形だと思います。

世間でいう求道には完成がないという話から、
卒業(完成)がなければ救い(浄土真宗)じゃないという話まで
含んだ意味として使っているということです。

>卒業があるのは会の信仰だけという暗黙の了解が必要ですが
の「暗黙の了解」というのが、
私の述べたところの「前提」ということです。

>信心は世間一般のものも会のものも包括する概念、信仰は会のものだけを表す概念となりますね。
そうですね。親鸞会の言いたいことは、
「信心は皆が求めているものだけれども、
卒業のある信仰は親鸞会だけが説いている」
ということなのです。

>論理的正確さを追求すれば、「信心には卒業のあるものとないものがあり、信仰には卒業のあるものしかない。」というべきです。
そうです。しかしこう言ってしまうと、
「信仰には卒業のあるものしかない」
↑この部分が、本当にそうですか?となります。
そうでないないなら、論理破綻です。

>どうもくどくなってしまってすみません。日本語の特性というより、正確に言おうとするとどこの国語でもくどくなるでは、と疑っています。
これもそのとおりで、大事なことが含まれていると思います。
今回はこの点も絡めて考えてみたいと思います。

さて、このサイトで何度かご紹介した香西秀信氏は
著書『レトリックと詭弁』ちくま書房 の中で、
宇佐美寛氏の「問いの構造」という論文を紹介しています。

香西氏はこの宇佐美氏について、

 宇佐美氏は、論争の達人として、
教育学界ではその名を知らない人はいないほど畏敬されている研究者です。
当該の論文は、公共の図書館にはたいてい備えられている雑誌に掲載されておりますので、
巻末の引用文献表を頼りにぜひ検索され、
一読のみならず、二読、三読をお勧めいたします。
 何度も言うようですが、質の悪い問いを跳ね返す方法を学ぶのに、
これ以上役に立つ文献はありません。


と述べています。

この論文は、
論争相手の吉田氏の「引っ掛け」と言える“質の悪い問い”に対して、
これでもかこれでもかと
ひたすら理詰めで吉田氏の主張を破壊していくものです。
これ以上のないくどさです。

これについては宇佐美氏が自ら著書
(『「議論の力」をどう鍛えるか』 明治図書)
の中でさらに詳しく解説をしていました。

簡単なことほど詳しく説明するのは難しいので、
わかってもらおうとするとくどくなるということがあります。
宇佐美氏にとっては議論のルールとして当たり前のことが
吉田氏には理解されていない(共有されていない)ので、
とことん理詰めで説明しなければならないということなのでしょう。

わかるようにしかも正確に説明しようとすれば、
相手のわからないところにまで立ち戻って説明しなければならず、
その地点で言い換えた言葉にまた説明が必要であれば
またそこで説明しなければならないといった具合です。

しかし、筋の通った正しい話なら、
どんなにくどく説明しようとしても論理が破綻することはありません。

逆に、どこかで矛盾する話は詳細にしようとすると
自ら破綻します。崩壊してしまいます。
詳しく追求すると論理的にボロが出てきてしまうからもたないのです。
つまり、くどい説明をしようとしてもできないのです。

親鸞会は詳しく説明するということをしません。できません。
同じ話を何度も繰り返すだけです。
前にも述べたように、親鸞会が推奨する
「文章は簡潔に、余計なところはなるべく削って」というのは、
矛盾していたり論理破綻していたり
途中で話や言葉の意味が変わってしまっていたりする正確さに欠けた話を
誤魔化すのに好都合なのです。

以前の記事「接続詞のない文章②~隠す効果~」
で紹介した「4-36 隠す効果」とも関連する、
その続きに挙げられていた詭弁が以下のものです。
さらにその後のコラムも紹介します。

4-37 表現を過剰に単純化する

 「詳しく述べたらどこが変かバレてしまうので、
詳しく述べない」のがこの方法です。
 詳しい説明を聞きなれていて、
いつでも詳しい説明を求めている人には、
説得力がまったくありません。

 文章の簡潔さ(コラム)

 日本人は俳句や和歌に深くなじんでいて、
「簡素な表現がよい」という意識が強く、
理詰めの表現は、
多くの日本人には必要以上に長く感じられるものです。

理詰めに正確に書けば数ページかかる内容でも、
「要するに何か」の部分は1、2行で書けるので、
「数ページ費やすのはくどいだけで数行で終わらせるのがよい」
と考えていて、
説明を1、2行で済ませてしまう人がたくさんいます。
「それが簡潔でよい」という考えゆえなのです。

 でも、それは実は「簡潔ではなく」、
単に「必要な説明が欠落しているだけ」です。
同じことを述べる場合に、
語数の多い版と少ない版がある場合、
少ないほうを簡潔と呼びます。

何かが欠落していて語数が少ないものを簡潔と呼ぶのは
間違いです。

不要なものは欠落していてよい
──不要なものがある文章は冗漫と呼ぶ──のですが、
必要な説明は欠落していてはいけません。



削って足りなかったりよく分からなかったりする部分は、
会員が勝手に都合のよいように補ってくれます。
「察してくれよ」「察してしまう」の関係で
お互いに都合の悪い部分は排除できるのです。

今改めて親鸞会の文章を読んでみると、
素直に読んでみようとすればするほど、
何が書かれてあるのか言いたいのか、本当によくわかりません。

何度も聞かされてきたセンテンスが淡々と接続詞もなく、
短い文章で区切られて繰り返されているだけです。
いかに自分が、繰り返し聞かされていた話で
その隙間(行間)を埋めて読んでいたのかを実感させられます。

いわば、記号や暗号に近いのです。
会員だけに通用するという意味でもそう言えるでしょう。
真に人に訴えよう、伝えようという心のこもった誠実な文章、
心に訴える力のある本物の文章ではないのです。

それでも会員には心地よいのです。
聞き慣れた言葉、単語、文章、
この「絶対に間違いのない真実」でいつも自分に暗示をかけて
「間違っているはずがない」のですから、
考えることも、判断することも要らない、
もう考えなくてよいから楽です。

ここはこう言うと覚える・人に説明する。
考えなくとも、与えられるものだけを暗記をしていけばいいのです。
丸写しの正確さで覚えることがいいことです。
カルトにとっていかに正確に話せるかという正確さとは、
教祖と一言一句違わないでという意味であって、
つまりコピーできているかという意味での正確さなのです。

こんなことを続けていると、
だんだん文章が読めなくなります。
読めても、考えることが苦手・苦痛になります。
ますます依存的になり、悪循環(カルトには好都合)に陥ります。
脱するのにも時間がかかります。

考える力を取り戻すには、一つには
自分の言葉で語ることを試みることです。
それも長くなってもできるだけ詳しく(理詰めで正確に)。
詳しく語ろうとすれば、筋の通らない話は破綻します。
日本語のおかしさも露呈します。

たいていのカルトの教祖は
自分で咀嚼した上での自分の言葉で語れない人でしょう。
そんな人物の下にいれば同じようになっていきますし、
自分の言葉で語らせない・考えさせないほうが、
従わせるにも好都合なのです。
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「信仰には卒業(完成)がある」という言い方について

2012年05月21日03:24

前回の続きです。非常に簡単な話ですが
できる限り詳しく(くどく)述べてみたいと思います。


 「〇〇のある~~」という言い方について

例えば、このような言い方をします。
「自覚症状のない歯周病」
これには二通りの使い方(意味合い・ニュアンス)があります。
1)「自覚症状のある歯周病」と「自覚症状のない歯周病」があって、
そのうちの一方である後者を示す場合。
2)歯周病には自覚症状がないのが普通であるが
「自覚症状がないことを強調して」歯周病のことを紹介したい場合。

1)は自覚症状があるものとないものがあるという意味になりますから、
2)の使い方をするとむしろ1)とは反対の意味合いになります。
日本語は難しいですね。
しかしそのどちらであるかは
その前後の説明なりを読めば自ずと判明することでしょう。
そのような曖昧さを排して2)の意味を示したいなら、
「歯周病には自覚症状がない」
と言えば正確になります。


 「信仰には卒業がある」という言い方に隠された前提

さて、本題の
「信仰には卒業がある」ですが、
ここで「信仰には卒業がある」と言えば、
・「すべての信仰には卒業がある」ことを改めて述べたもの
・「一般に考えられている信仰や他で説かれてきた信仰には卒業はないが、
 これから説こうとする信仰には卒業がある」ことを強調したいもの
の二通りが考えられます。

前者と後者では、その前提が異なります。
前者のように用いるのは、
「どんな信仰にも卒業がある」ことが前提で、
しかしそのことが一般に知られていなかったりする場合に、
そのことを改めて詳しく説明したい場合です。

しかし、ここでの親鸞会の話は、
「信仰に卒業があるなど知らなかった(説かれてなかった)」
「親鸞会で信仰に卒業があると知った」
という話ですから、これには当てはまりません。
「これから説こうとする親鸞会の信仰には卒業がある」
という内容ですから、後者になります。

後者は、「信仰に卒業なんてあるのか」「そんな話は聞いたことがない」
ということが前提になっているのです。
つまり、前者と後者では前提が逆、要するに
話の出発点が反対なのです。

そして、「これから説こうとする卒業のある親鸞会の信仰」、
「卒業のある信仰」が正しい救いなのだから聞き求めなさいという意味です。

ここでまた「卒業のある信仰が正しい」ということが前提になっているのですが、
これにも二つの意味合いがあって、
・世間一般の求道には卒業がないが親鸞会で説く救いには
信心決定という完成がある
という意味(卒業があるのが救いという問題)と、
・本願寺で説かれている信仰には卒業や完成がないが、親鸞会にはある
という意味(信仰とはどういうものかという問題)があるのです。
「本願寺で説かれている教えには信心決定という卒業がないが
親鸞会で説いている教えには信心決定という卒業がある(から正しいのだ)」
という主張です。

つまり、この話には隠された前提があるのです。
前提1)信仰には卒業のあるものとないものがある
前提2)そのうちの卒業のある信仰(を説いているの)が正しい

です。

前提が崩れればその主張の正しさは崩れるという話は
何度かしてきました。
さて、この主張は正しいのでしょうか。


 「信仰」の示す意味で違ってくる

まず、前提1)について考えてみます。
よく考えてみると、これも変なのです。
そもそもここで親鸞会はこの信仰という言葉を、
どういう意味で使っているのでしょうか。
親鸞会の説明を読めばわかるように*1)
「信仰を卒業したとき、それが信心決定(縦の線)」
なので、ここでいう親鸞会の信仰とは、
「信心決定するまで」のことを指しています。

親鸞会では世間一般の求道を指して卒業がないと言いますが、
それはいいとしても、
では浄土真宗の視点ではどうなのでしょう。
決勝点のその後(信後)は何なのでしょうか?
親鸞会では「御恩報謝」と言っています。それ自体は間違いではないです。
ではしかし、信後の御恩報謝の暮しは「信仰」に入らないのでしょうか。
もうお分かりだと思います。
「親鸞会では信後は信仰のうちに入らない・入れていない」のです。
親鸞会の「卒業のある信仰」とは、信前の「求道」のことを示すのです。
(前々回お話した「曖昧独自な言葉の定義」)

同じ意味で「親鸞会の求道には完成がある、卒業がある」
と言い換えることができることからも、
この主張の「信仰」が「求道」のことを示していることはお分かりになると思います。

ですから、このような言い方は、
「信仰」=「信前の求道」なら正しいのですが、
一般的に、特に浄土真宗で信仰とは信前の求道のことを示すものなのでしょうか。

信仰という言葉は浄土真宗ではあまり用いられないのですが、*2)
むしろ浄土真宗の信心の意味からすれば、
信後の御恩報謝のほうが信仰といえるのです。
だとすれば、親鸞会でも「御恩報謝に卒業はない」と言っているように、
信仰にも卒業はないということになります。

この信仰には卒業があるという話の中で、
信仰に卒業があると説いた後に寺の人が
「信仰に卒業があるなんてはずがない」と抗議にやって来て諭した後、
「卒業なんてあるはずがないというのは
御恩報謝のことと間違えておられるのではないですか?
確かに、御恩報謝には卒業はありませんよ」
といって助け船を出して、寺の人も「そうだったそうだった」と納得する
というくだりがありましたが、
・信後も信仰の中に含めるなら信仰に卒業はない
・信仰とは信前のことだけを指す(親鸞会独自の定義)なら卒業がある
これだけのことです。


 「卒業のある信仰と卒業のない信仰」

前提2)そのうちの卒業のある信仰(を説いているもの)のみが正しい
のか?についてです。
ここまでで、「信仰」という言葉の使い方(親鸞会独自の定義)に
問題があるということがわかりましたから、
これについては説明するまでもありません。

・信仰が信前の求道だけを指すなら卒業はある(信心決定ということがある)
・信仰に信後の御恩報謝も含めるなら卒業はない(御恩報謝に卒業はない)
どちらも正しいのです。

親鸞会の言い方はこのうち前者だけに意味を固定して、
勝手に独自性を作り出して
唯一の正当性を醸し出そうとしているに過ぎないのです。

繰り返しになりますが、親鸞会で
>弥陀の本願に一念で救い摂られ、報土往生が
>ハッキリと定まったことを、「業事成弁」略して「業成」と
>言われています。そのときが、信仰の卒業であり、決勝点であります。
といっているように*3)
親鸞会では「信仰」=「信心決定するまでの求道」であり、

そして、「信仰の卒業」とは
「一念で救い摂られること」「報土往生がハッキリと定まったこと」
を示しますから、
親鸞会で「信仰の卒業」とは
一念で救いとられる、報土往生がハッキリと定まる、つまり「信心決定」を示します。
要するによく読めば、親鸞会で言っていることは
「信心決定ということがある」ということであって、
これを独自に「『信仰の卒業点』と定義している」だけです。
ですから、「信仰に卒業があるとする親鸞会の教え」だけが
信心決定できる正しい教えということではないのです。
(信心決定する、できる、このような言い方を好んで
強調するのも親鸞会の特徴です。
このあたりのことも考察してみるとよいかも知れません)

「卒業・完成のある信仰」という言い方で、
あたかも、親鸞会だけが完成・卒業のある信心を説いている、もしくは
親鸞会だけが卒業・完成(信心決定)ができるという印象を与えたいのです。


まとめ
ここでの親鸞会のトリック

・「信仰」を「信心決定までの求道」という意味に限定して
求道に完成がある→信仰に完成がある
とした。

・はじめから「信仰」という言葉を「卒業のあるもの」としての意味で
定義し直して用いている。
(「信心決定するまでの求道」の意味で使っている)
 それなら当然信仰に卒業があるとなって当たり前だが、
浄土真宗で「信仰」とは「信心決定するまでの求道」に限られるのか?(違う)

・あたかも「卒業のある信仰」を説いているのは親鸞会だけだといいたいのだが、
確かに余所では「信仰の卒業」という言い方はしない。しかし、ここで
「信仰の卒業」とは「一念で救い摂られること」「一念で救い摂られること」「報土往生がハッキリと定まったこと」をいっているのに他ならない。
「一念の救い」「報土往生がはっきり定まること」が説かれているのが浄土真宗であるから
それは親鸞会だけで説かれていることではない。
むしろその内容になれば親鸞会では正しく説かれていないといっていい。

*1)http://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/kansei-sotsugyou-shinjin01.htm
*2)http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-380.html
*3)http://sinshu.blog.shinobi.jp/Entry/624/

断言しないことの効果~内部でしか通用しない話~

2011年08月15日09:40

 論理的に書かれていない文章が同意を得るのは、
もともと同じ意見を持つ者だけで、
意見の異なる人を説得できるのは、
論理的な文章だけです。


 論理的な文章がこの力を持つのは、
主に、「詳しい具体的な根拠」の量の力によります。

また、論理自身にも大きな力があります。
論理の力は、
論理の悪用(?)である詭弁を例に挙げるとよくわかるでしょう。
詭弁を議論で打ち負かすのはかなり難しいことに、
あなたは反対しないでしょう。
詭弁は論理を土台にしています。
だから打ち負かしにくいのです。

 人間は理性で動く動物です
(ここで言う理性の中には、
感情の土台となっている理屈も含みます)。
だから、理性に直接働きかける
「論理的な文章」が力を持つことになるのです。

(小野田博一著『論理的に書く方法』日本実業出版社 p16)



●断定しないことの効果

・断言するにたる根拠がある場合は(十分支えられる場合は)
断言するほうが説得力がある

・断言するにたる根拠がない場合は(十分支えられない場合は)
断言しないほうが説得力がある

(同著『正論なのに説得力のない人ムチャクチャでも絶対に議論に勝つ人』日本実業出版社 p47)



このサイトで繰返し述べているように、
根拠のない話には説得力がありません。
根拠の無い主張が同意を得られるのはもともと同じ意見を持つ者からだけで、
意見の異なる人を説得することはできません。

しかし、根拠がなかったり、結論を十分に支えていなかったりする場合でも、
説得力があるように見せかける方法があります。
それが「断言をしない」という手法です。

さて、親鸞会の文章でよく目にする表現があります。
「であろう」です。

以前に取り上げた『顕真』6月号「疑難と答え3」でも、
最後の肝心の結論に当たる段落の中で

 その「雑行」が分からぬのは、十九の願の門戸にも立っていない証しであろう。
 この弥陀・釈迦の「方便の善」が分からねば、「雑行を捨てよ」を「諸善を捨てよ」「諸善は必要ない」と、誤解するのも無理からぬことといえよう。

 七高僧が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」ではなく、何とかすれば、何とか助かると思って、諸善万行をやっている「自力の心」のことである。

 弥陀に帰命する一念に「雑行・雑修・自力の心」が廃るとは、決して諸善万行や称名念仏をしなくなるということではない。
 廃るのは、あくまでも「自力の心」なのである。

 それは、親鸞聖人や蓮如上人の、弥陀に救われてからの言動を見れば明らかだろう。
 日野左衛門の門前で、石を枕に雪を褥の聖人のご苦労や、身命を賭しての弁円済度など、諸善や念仏は量り知れない。
 だか、それらを決して、雑行とも雑修をも言わないのは、「自力の心」の浄尽した仏恩報謝の行だからである。

 「雑行を捨てよ」とは断じて「善をするな」「諸善を捨てよ」ということではないことは明白であろう。


と、「だろう」「であろう」といった推量形が多用されています。
最後の結論の文章まで「であろう」となっています。
「明白」と言いながら「であろう」とはちぐはぐな感じです。
つまり、ここで「明白でしょう?」と読む人に同意を求めているのですが、
明白でないどころか、明白な誤りであることを知っている人には
かえって何の説得力もないのです。

『顕真』7月号の疑いと答え6宿善とは過去を喜ぶもの

(疑難)
「宿善とは、宿世(過去世)の善根という意味であり、振り返って喜ぶ過去の善だから、”宿善を求める”などと未来に向って言うべきことではない。今からやる善とは無関係だ」

(答え)
 要するに「過去をあらわす言葉を未来に使うのが間違い。過去の善根と未来の善根とは無関係」というのである。

 果たして、そう言えるだろうか。
「想い出をつくろう」というのは間違いだろうか。「想い出」は過去をあらわす言葉であり、「つくろう」は未来のことだからである。
「悔いを残さぬように」というもの間違いだろうか。「悔い」は過去をあらわす言葉であり、「残さぬように」は未来のことであるからだ。

「宿善」は過去をあらわす言葉であり、「求める」は未来のことである。
「宿善を求める」だけが、なぜ間違いと言えるのだろうか。悪いはずがなかろう。


を見ても、自問自答というより、
根拠がなくて自信がないような文章にしか見えません。
途中の日本語の繋がりもおかしくなっています。
一応文章と例え話のおかしなところを述べておきますと、

 要するに「過去をあらわす言葉を未来に使うのが間違い。過去の善根と未来の善根とは無関係」というのである。

→違います。
過去の善根と未来の善根とは無関係などということを言っているのではなく、
「宿善」を「未来に向かって善を求める」ことのように
使うことを間違いと言っているのです。

 果たして、そう言えるだろうか。

→ですからこの疑問は意味が違います。

「想い出をつくろう」というのは間違いだろうか。「想い出」は過去をあらわす言葉であり、「つくろう」は未来のことだからである。
「悔いを残さぬように」というもの間違いだろうか。「悔い」は過去をあらわす言葉であり、「残さぬように」は未来のことであるからだ。


→「というのは間違いだろうか。…だからである。」
は文章の繋がりとしておかしいです。
「だからである。」は理由の文であって、説明の元の
結論部分がありません。
疑問に対して、理由を述べたいなら、
「というのは間違いだろうか。いや間違いではない。…だからである。」
としなければなりません。

ここでそういった略された言外の意があるとしても、
これらはもちろん間違いではありません。
想い出をつくろうとすることも、悔いを残さぬようにすることもありえます。
しかし、次の部分は間違いです。

「宿善」は過去をあらわす言葉であり、「求める」は未来のことである。
「宿善を求める」だけが、なぜ間違いと言えるのだろうか。悪いはずがなかろう。


→いいえ、「宿善を求める」だけが間違いと言えます。
だから悪いはずに決まっています。

「宿善を求める」だけが、なぜ間違いと言えるのだろうか。
とありますが、この文章の執筆者はこんな浄土真宗の基本も知らないのです。
責任者である会長は説明できないのです。
「自力だから」です。

もう一つ参考になる文章を紹介させていただきます。

主張した気になっているだけではだめ

 主張するためには、実際に主張しなければなりません。
これに関して日本人が犯す間違いのタイプは次の二つです。

A 主張していないのに、主張した気分になっている
B「主張は文脈から明らか」などの理由で主張を省略する


 AもBも、基本的には「主張とは何か」を
単に知らないことからくる間違いです。
が、「単に」とはいえ、
知らないうちは繰り返し間違えることになります。

 Bの場合はまた、「故意の省略」の場合もあります。
 故意に主張を省略するのは、
中傷しようという意図が働いている場合や、
相手を暗示にかけようとしている場合などで、
楽しい場合ではあまりなさそうです。

▼主張を書くべき部分を疑問文にしてはいけない▼

 主張を書くべき部分を疑問文にしてはいけません。
疑問文は主張ではないからです。
「主張とは何か」を知らない場合のもっともよくある例がこれ
──「主張を書くべきところを疑問文にする」です。

 疑問文は主張逃れの独り言であって、主張ではありません。
 日本人が大好きな表現「~ではないだろうか」が、主張逃れの疑問文の代表格です。
これは読み手に判断をまかせる表現なので、主張ではありません。

小野田博一著『論理的に書く方法』日本実業出版社 p41~42



日本語で、「だろう」のような推量形には、
「話し手の判断を伝える」「話し手の意志を表す」
「婉曲な命令・勧誘を表す」「聞き手の同意を求める」
「不審・懐疑を表す」と言った意味がありますが、

当然のこととして相手に同意を求めるという意味での使い方なら
正しさの強調として説得力を強める効果もありますが、
上の場合のように、
根拠がないにもかかわらず「であろう」を多用しているものは、
詭弁の通用しない相手には
自信がないか、
自信がないが為に内部の人に向けて同意を要求しているだけに
しか見えないのです。
逆に言えば、批判力を失っている内部の人にだけは通用するといえるでしょう。
会に留まっている人には、
何かのきっかけで疑問をもつことができればと願わずにはいられません。

【付記】
「宿善を求める」だけがなぜ間違いと言えるのか。
「自力だから」です。
と書きましたが、信前は自力だから
自力で求めるのが正しいのだという反論があるかも知れません。
殊に親鸞会会員に植えつけられた求道信心には強固なものがあります。
しかし、親鸞会でも
「自力一杯求めます」「自力一杯聞きます」
という言い方は間違いだからしてはならないという指導があったように、
自力は捨てるべきものでしかなく、
自力で求めたものが功を奏して他力になるというものではないのです。

高森会長もかつて
「自力はどれだけ一杯でも、どれだけ真剣でも自力で他力にはならない。
自力の行き着くところは他力でない。
自力はあくまでも自力、他力とは無縁です。
縁がない。だから自力一杯求めて、得られるのは自力しかない。
他力の世界ではもうとうない。」
「自力一杯で求めていかないと自力は廃らない、
これは論理的には成り立たないことなんです。
自力が自力で廃るはずがない。
他力によってのみ、自力が廃るのです。」(平成3年1月)

と言っています。
その後の話が間違いでまた混乱するのですが、
一応自力と他力は無縁、自力一杯求めて自力が廃るのではないと言っています。
当時と比べても、現在は益々
自力を勧める教えになっているのです。

暗示にかけようとする質問~多重尋問の誤謬~

2011年07月28日03:22

4-33 多重尋問(complex question)

これは、思い込みをもとにした質問です。

「あなたは最近はもう女の子にいやがらせしてない?」
(以前はしていたと決め込んでいる)

 これは修辞的トリックであり、議論ではありません。
これはあることが真実であると思い込んでする質問なので、
その点ではcircular reasoningと似ています。

・議論に近い質問

「あなたはもう中学生なんだから、
女の子のスカートめくりはしなくなったわよね」

(返事「小学校のときだってしてないよ」

「あなたはどうしてあんな変な決定を下したんですか?」

これはcomplex questionです。
complex questionを議論中の文に書き換えると
次のようなタイプの文になります。

「なぜ彼はあのような愚かな決定をしたのであろうか。
それは△△だからである」


 こういう議論はよく見られますね。
注意すべき点は、
「その決定がなぜ愚かなのか」の理由が述べられずに
話が進んでいる
ことです。

このように書いてあると、
読み手が批判的に考えることができない人の場合、
なぜその決定をしたのかの部分にのみ関心が向いてしまい、
「それが愚かな決定であること」を
無意識かつ無批判に受け入れてしまうことになりがちです。

あることを前提としていて、
それが明言されていない場合、
批判的に考えられない人は、
その「低級テクニック」にうまくだまされてしまうので、
注意が必要です。


 このタイプの議論は、
議論上手な人にはバカバカしいだけの議論に見えるので、
あなたは使わないように気をつけましょう。

「なぜ彼はあのような愚かな決定を下したのであろうか。
それは△△だからである」のように
自分で答えるために問う質問が書かれている場合、
その質問中に当然とこと(正しいこと)と書き手がみなしている前提が
隠れていることがよくあります。
そのタイプの質問には注意しましょう。

(小野田博一著『正論なのに説得力のない人 ムチャクチャでも絶対に議論に勝つ人』日本実業出版社 第4章 説得力に乏しい「下手な詭弁」p124~125)



色々考えたいことはありますが、
タイムリーで分かりやすいところから取り上げていきたいと思います。
今回も非常に単純で分かりやすい例です。

以前に、「暗示にかけようとする表現」というトリックを
ご紹介しましたが、覚えていらっしゃると思います。

繰り返しになりますが、一部抜粋すると、

・論じたい点として主張を述べず、主張を前提とした別の論を書く
──これが第一の方法です。

このタイプの文章は、
批判精神の乏しい読み手には強い影響力があるので、
読み手には危険な書き方です。

たとえば、「女性が依存症を克服するにはどうしたらよいか」
という論があったとしましょう。
これには「女性には依存症がある」という前提が隠れています。


というものです。しかも、

批判精神の乏しい読み手がこれを読むと、
「女性には依存症がある」という考えを無意識のうちに持つことになります。
論理で納得して自分の考えとするのではなく、
無意識のうちに無批判に自分の考えとしてしまうことになるので、
これは読み手にとって非常に危険な方法です。


というものなので、知らず知らずに話し手の考えを刷り込むには
非常に有効な方法なのです。

この後に例示されていた三つの論、

a『なぜ私はこれほど聡明なのか』
b『**政策のどこが悪かったのか』
c『あなたはなぜ勉強の仕方が下手なのか』


で言えば、これを議論することは、

aなら「私は聡明だ」ということが前提にある議論となり、
bなら「**政策は悪かったのだ」ということが前提にある議論となり、
cなら「あなたの勉強の仕方は下手だ」ということが前提にある議論となる

ということです。
そこに気付かすに議論が始まってしまえば、
その前提が事実かどうかという検証はありません。
つまり、「私は聡明だ」「**政策は悪かった」
「あなたの勉強の仕方は下手だ」ということが
刷り込まれることになるのです。

これを応用して質問の形にしたものが、
冒頭の多重尋問(暗示にかけようとする質問)です。

さて、今回の本題の実例です。
飛雲 『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り28
にありました『顕真』7月号の「疑難と答え5」は、
答えを読まなくてもこの「疑難」の部分

弥陀の本願は矛盾か

(疑難)
「弥陀が十方衆生を煩悩具足・造悪不善の者と見抜いて十八願を建てられているのに、十九願で諸善を勧めていられるのは矛盾ではないか」



を一読するだけでこの多重尋問の誤謬だとわかります。

飛雲では答えの部分の間違いをわかりやすく解説されていますので、
私は論理の観点からもこの問い自体の誤りについて述べます。
といってもここまでのところを読まれて理解されていれば、
もう既にこの誤謬についてお気付きで、
私の説明も要らないのかも知れません。
しかし、自分の言葉で説明をするというのも、
考えたり理解の整理をするという上では大事なことなので、
やっていきます。
(自分の考えを書けば、間違っていれば教えてもらうこともできます。)

この疑難には、例に漏れずいくつかの「隠れた前提」があります。
まず一つには、
・「十九願で諸善を勧めていられるのは矛盾ではないか」という疑難がある
という前提です。

これはどのような意味で言っているのでしょうか。
「十九願は矛盾する」という疑難なら、ありません。
後から飛雲さんも
「18願と19願とが矛盾するとしきりに言っていますが、何も矛盾しません。
私が矛盾すると言っているのは、
悪人に19願を勧める高森理論が矛盾だと言っているのです。」
と書かれているように、
誰も“諸善について説かれた”十九願が矛盾するとは言っていません。
「親鸞会の『十九願に“諸善の勧め”がある』とする主張が矛盾する」と言っているのです。


ですから、ここからもう一つの前提と、
親鸞会の思惑が見えてきます。
ここに含まれている二つ目の隠れた前提は、
・「十九願に“諸善の勧め”がある」
ということです。
ここでいう諸善の勧めがあるとは、「諸善を説かれた」ということではなく、
(お釈迦様が定善散善について説かれたのは事実です)
親鸞会が言っている、
「実行させるために」諸善を説かれたという意味です。

これは、親鸞会独自の主張であって、
批判者は「十九願は諸善の勧めではない」と言っているのですから、
親鸞会だけに通用する前提です。

つまり、この疑難は「諸善の勧めがある」とする親鸞会自身が抱える、
自己矛盾に対する疑難なのです。
いわば自問自答です。
最初の引用の記事の中でいえば、
隠れた前提を正しいこととして暗示にかけようとする、
「自分で答えるために問う質問」なのです。
このような「低級テクニック」にだまされてはいけません。

言い換えれば、親鸞会の教えは
「十九願に“諸善の勧めがある”」とするから矛盾するのです。
ここで「諸善の勧めがあるとすると、矛盾するのではないか?」
と言っていますが、そのとおりなのです。
矛盾してしまう、お聖教にも説かれていない教えだから、
「諸善の勧めはない」と言っているのです。
ですから、親鸞会は「答え」の部分でも、
その自問自答にまともに答えることができていないのです。
元々答え(根拠)がないのですから当然です。

例えて言うなら、
「なぜ兎に角があるのか」
という問いに答えようとしているようなものです。
設問自体が誤りなのですから、
何を答えても誤りにしかなりませんし、
答えようとすれば支離滅裂になるのは当たり前なのです。

逆に言えば、
「十九願に諸善の勧めがある」を前提としている親鸞会員にとっては、
「十八願だけで救われる」という本来の浄土真宗の教えは、
矛盾に聞こえてしまうのでしょう。
だからこそこのような想定疑難が浮かんだとも言えます。

まとめますと、この疑難5の中には、
1、「十九願で諸善を勧めていられるのは矛盾ではないか」という疑難がある
という隠れた前提がありこれが間違いで、
さらにこの前提1の中には、
2、「十九願で諸善を勧められている」
という前提が含まれており、
これが間違いの根本だということです。
間違った前提から出発しているので、
本来の教えとは辻褄が合わなくなるのです。

この疑難と答え5を無批判に読むことができる人には、
・親鸞会を批判している者には「十九願が矛盾する」と言っている者がある
・十九願では諸善が“勧められている”
ということが刷り込まれる
ことになるのです。

正しくは、
・十九願が矛盾するのではなく、浄土真宗で
十九願に諸善の勧めがあるとする親鸞会が矛盾すると言っている
・十九願で諸善をやりなさいと勧められていると見るのは誤り
なのです。

【付記】
ついでなので、述べておきますと、
この多重尋問の誤謬は、親鸞会の『教学聖典』と言われるものの中で
多く使われ、効果を発揮していると考えられるものです。

つまり、「問い」自体に前提として作者(高森会長)の考えが含まれており、
その「誤った問い」に対して「答えがある形を示す」ことで、
その問題にあらかじめ含まれている根拠のない前提が
読む人に刷り込まれていくというものです。

こちらのサイト『TS会 教学○典の研究』
を参考にいくつか例を拾ってみました。
→の先で示したのが、その設問の中に含まれる作者の考えで、刷り込まれていく間違いです。(正しくはそのような内容ではない。)

『教学聖典』(1) 
問(12)
親鸞聖人の仰せは釈尊の直説である根拠をお聖教のご文で示せ。
答(12)
○更に親鸞珍らしき法をも弘めず、如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり。(御文章)

→親鸞聖人が「私の言っていることは釈尊の直説であるぞ」と言っている。

問(39)
「地獄へ堕ちてから、善知識の教えに従わなかったことを後悔する」と仰せられた善導大師のお言葉を書け。
答(39)
○一たび地獄に入りて長苦を受くる時、始めて人中の善知識を億う。

→「地獄へ堕ちてから、善知識の教えに従わなかったことを後悔する」と善導大師が仰っている。

問(43)
「善知識の教えに従わないから、永遠に苦しみ続けなければならぬのだ」と教えられた、釈尊のお言葉と、その根拠を示せ。
答(43)
○教語開示すれども信用する者は少し。生死休まず悪道絶えず。(大無量寿経)

→「善知識の教えに従わないから、永遠に苦しみ続けなければならぬのだ」と釈尊が教えられている。

問(50)
「人間に生まれてきたのは、仏法を聞き絶対の幸福になることだ」と教えられた、釈尊のお言葉を示せ。
答(50)
○人身受け難し、今已に受く。
 仏法聞き難し、今已に聞く。
 この身今生に向って度せずんば、さらにいずれの生に向ってか、この身を度せん。

→「人間に生まれてきたのは、仏法を聞き絶対の幸福になることだ」と釈尊が教えられている。

『教学聖典』(2)
問(27)
三業の善を勧められた善導大師のお言葉を書け。親鸞聖人はそれをどのように読み変えられたかも示せ。
答(27)
不得外現 賢善精進之相 内懐虚仮
○外に賢善精進の相を現じて、
 内に虚仮を懐くことを得ざれ。(善導大師)
○外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、
 内に虚仮を懐けばなり。(親鸞聖人)

→善導大師は三業の善を勧められている。

問(28)
「十方衆生に善人は一人もいない」と言われた親鸞聖人のお言葉と、その根拠を示せ。
答(28)
○一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し。(教行信証信巻)

→親鸞聖人は「十方衆生に善人は一人もいない」と言われている。

問(43)
苦しみの人生を、明るく楽しく渡すものが阿弥陀如来の本願であることを明言されている親鸞聖人のお言葉と、その根拠を書け。
答(43)
○難思の弘誓は難度の海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり。
 (教行信証総序)

→「難度の海を度する大船」とは、苦しみの人生を、明るく楽しく渡すものという意味である。

問(47)
「阿弥陀如来に救い摂られた人は絶対の幸福になれる」と明言されている『歎異抄』のお言葉を示せ。
答(47)
○念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし、罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなき故に無碍の一道なりと、云々。

→阿弥陀如来に救われるということは、絶対の幸福になれるということである。

『教学聖典』(3)
問(2)
自分の信心を謗る者のあることを、かえって喜ばれた親鸞聖人のお言葉と、その根拠を示せ。
答(2)
○「この法をば信ずる衆生もあり、謗る衆生もあるべし」と仏説きおかせ給いたることなれば、我はすでに信じたてまつる、また人ありて謗るにて「仏説まことなりけり」と知られ候。(歎異抄)

→親鸞聖人は自分の信心を謗られてかえって喜ばれている。

問(30)
阿弥陀如来に救い摂られると、ハッキリする、と教えられた釈尊のお言葉と、その根拠を示せ。
答(30)
○明信仏智(大無量寿経)

→釈尊が教えられた「明信仏智」とは、「阿弥陀如来に救い摂られるとハッキリする」ということである。

問(32)
阿弥陀如来の本願(お約束)の本意を、釈尊が明らかになされたものを『本願成就文』と言われるが、その『本願成就文』を記せ。
答(32)
諸有衆生聞其名号 諸有の衆生、其の名号を聞きて、
信心歓喜乃至一念 信心歓喜せんこと乃至一念せん。
至心廻向願生彼国 至心に廻向せしめたまえり。
         彼の国に生れんと願ずれば
即得往生住不退転 即ち往生を得、不退転に住す。
唯除五逆誹謗正法 唯五逆と正法を誹謗せんとをば除かん。

→『本願成就文』とは、阿弥陀如来の本願(お約束)の本意を釈尊が明らかになされたものである。

問(48)
阿弥陀如来の名号を聞く一念で、無上の功徳と一体になれると教えられた、釈尊のお言葉を『大無量寿経』で示せ。
答(48)
○仏、弥勒に語りたまわく「それ彼の仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍し、乃至一念すること有らん。当に知るべし。この人は大利を得と為す。すなわちこれ無上の功徳を具足するなり」。

→釈尊は、阿弥陀如来の名号を聞く一念で、無上の功徳と一体になれると教えられている。

『教学聖典』(5)
問(24)
「無宿善は絶対に助からぬ」と明言されている蓮如上人のお言葉と根拠を示せ。
答(24)
○いずれの経釈によるとも既に宿善に限れりと見えたり。(御文章)
○無宿善の機に至りては力及ばず。(御文章)

→蓮如上人は「無宿善は絶対に助からぬ」と明言されている。

問(26)
「宿善に厚薄あり」と言われた蓮如上人のお言葉と、その根拠を示せ。
答(26)
○宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり、弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く開くる人もあり。(御一代記聞書)

→蓮如上人が「宿善に厚薄あり」と言われた。

問(28)
「宿善」とはどんなことか。二通りの読み方を示せ。また宿善が厚くなる順から三つあげよ。
答(28)
○「宿世の善根」とか、「善が宿る」とも読む。
(1)熱心な聞法
(2)五正行の実践
(3)六度万行の実践

→宿善が厚くなる。

ここまで写して疲れました。
あとはご自身で確認してみてください。

接続詞のない文章②~隠す効果~

2011年07月09日10:21

4-36 隠す効果

 詩には行間(での表現)が必須です
(字面だけの意味しかなかったら、詩ではありません)。
しかし、論理的な表現に行間があってはなりません
(すべて述べつくすことが
──読み手に解釈をゆだねないことが──
少なくとも述べつくそうとしている姿勢が必要です)。

 では、詭弁に行間は?

 下手な詭弁には必要で、上手な詭弁には不要です。
 下手な詭弁の場合、理屈をすべて明言してしまうと
「間違い・欠陥」が歴然としていまうので、
議論の一部が行間に隠れていたほうが説得力があります。

この場合、読み手が説得力を感じるなら、それは
ごまかされたがゆえの説得力です。
ごまかされない人には効果はありません。


 上手な詭弁は、すべて語って、
その説得力でフェアに勝負するものです。
したがって、隠す部分は不要です。

☆すべて明言しないことの効果(知性の低い人にしか効かない)

 ソクラテス「みんなは食わんがために生きているが、
私は生きんがために食う、という点で違っているのだ」

 これを読んで多くの人は
──少なくとも読者のうちの数割くらいの人々は、
「なかなかうまいことを言うなあ」と思うでしょう。
ところで、「みんなは食わんがために生きている」の
暗示しているものが何かと言えば、
「低俗な生き方としての食べ方をしている」ということです。
一方、「私は生きんがために食う」の部分が暗示しているのは
「高尚な生き方としての食べ方をしている」ということです。

つまり、これらを明言してしまうと、

「みんなは食わんがために生きていて、
低俗な生き方としての食べ方をしているが、
私は生きんがために食う高尚な生き方としての食べ方をしている。
その点でみんなと私は違っているのだ」

となります。
こちらの明言版を呼んだ人のほとんどは「はー?」と思い、
「なかなかうまいことを言うなあ」と思う人は
だれもいないでしょう。

 暗示版を読んで、「なかなかうまいことを言うなあ」と思う人は
「高尚さの暗示」にごまかされているのです。

 暗示版を読んで名言版が見える人には、
暗示の効果は何もありません。
したがって、すべてを述べつくさないことで
(述べてしまうとキズが露見してしまう内容を隠すことで)
議論に説得力を加えようとする試みは
詭弁の低級テクニックです。

☆「したがって」や「ゆえに」がない

 「したがって」や「ゆえに」のない書き方は論文や論説文では、
致命的です(英語の小論文esseyでは大減点をまねきます)。
でも、雑談調の文章(「何かを論じている」という感じなしの文章)では、
有効であることは多いものです。

 

「株価が上がり始めてから買おうとすると高値で買って儲け損なう。
上がる前に買おうとすると、買ってから値段が下がって損をする。
株は儲からないものだ」

 この例文中の「株は儲からないものだ」の前に
「したがって」があると、論理が変なことが露見してしまいます。
「したがって」を使わないと、論理が変なことはわかりにくくなります。

 論理が変なことを承知の上で述べざるを得ないなら
(ほかのもっと有効な述べ方を思いつけないなら)、
「したがって」や「ゆえに」を省略するほうがよいのです
(でも、繰り返しますが、省略で議論に説得力を加えようとする試みは、
詭弁の低級テクニックです。上級者はこのようなことをしてはいけません)。

(小野田博一著『正論なのに説得力のない人ムチャクチャでも絶対に議論に勝つ人』日本実業出版社 2004年 
第4章 説得力に乏しい「下手な詭弁」p127~129)



前回(『顕真』6月号「疑難と答え」2)についての続きです。
文章がつながるように接続詞を入れて足りない語を赤字で補ってみます。

① 真宗の人びとに、疑難のような誤解が多い。
しかし、疑難のとおりなら、聖人の教えは怠け者を作る教えになる。なぜなら、雑行と言っても「仏法で説く諸善」だからだ。
② これは「雑行」というものを知らない人の発言であり、このような聞き誤りが多いのが現状である。
その元はどこにあるのか解明しよう。
③ まず、雑行とは弥陀の往生浄土の救いを求めてするもろもろの善をいう。
ではなぜ、仏教で説かれる「諸善」を「雑行」と嫌い捨てよと言われるのか。
④ それは自力の心で行うからである。「自力の心」さえ廃れば「雑行」ではなく「御恩報謝の行」である。
したがって、「自力の心で行うその雑行そのものを捨てよ」ということなのである。
⑤ 例えば、(結婚と離婚の例)
⑥ では、「自力の心」とは何か。弥陀の本願を疑う心である。
⑦ それは善ができると自惚れて、弥陀の本願に反している心である。
⑧ ではなぜ、「自力の心」が恐ろしいのか。
⑨ (5歳の男の子の例え話)
⑩ それは、弥陀は「どうかそのまま受け取ってくれ」と今現在叫び続けているのに反する心であるからである。
⑪ すなわち、その弥陀を疑う「自力の心」こそ、阿弥陀仏を殺す凶刃である。
⑫ したがって「雑行を捨てよ」とは、この「自力の心」を捨てよであって、もろもろの善を捨てよということではない。
⑬ (本願疑惑を戒めるご和讃)

いかがでしょうか。
青字の部分が論理的に変であることが露見してしまいます。

つまり、「雑行を捨てよとはいかなることであるか」の説明としては④の
したがって、「自力の心で行うその雑行そのものを捨てよ」ということなのである。
で終わっており、以下⑤は「自力の心」と「雑行」の関係の説明
(実際は適切な例えになっていない)
⑥~⑪は「自力の心」の恐ろしさの説明であって、
そこからは⑫のような親鸞会の結論は導き出されないのです。

その証拠に、親鸞会の主張に接続詞を加えてみると、
・「雑行」と言っても仏教で説く諸善である。
したがって、「雑行(諸善)を捨てよということではなく、自力の心を捨てよ」なのである。
(①~⑤の主張)
・「自力の心」とは阿弥陀仏を殺す凶刃の恐ろしい心である。
したがって、「諸善(雑行)を捨てよということではなく、自力の心を捨てよ」ということである。
(⑥~⑫の主張)

となって、親鸞会の「雑行=諸善」という前提が間違っていることが
わかりますね。

すなわち、親鸞会の説明の言葉をそのまま使えば、
仏教で説く諸善の、弥陀の救いに己の善を役立たせようという心で行う諸善のことを「雑行」という
のですから、訳のわからない理屈をつけずに、
浄土真宗の教えのとおり「雑行という諸善を捨てよ」でいいのです。
雑行を捨てようとしたら善いことができなくなるはずもなく、むしろ逆なのです。
それなのに親鸞会が浄土真宗の教えに従って正しい説明をしない、
できないのは、
自分の勧めている諸善が雑行になることが明らかになるからです。
それで、根拠もなく独自の定義で誤魔化そうとして無茶な論理になるのです。

繰り返しますがだからといって「雑行をすてよ」が親鸞会の反論のように
「善いことをしてはならない」とか「悪いことをしなさい」ということになってしまう
はずがありません。そのように言うのは浄土真宗を知らないのですから
きちんと浄土真宗を学んでくださいということです。

ついでに「疑難と答え」の1と3についても見てみましたが、
詭弁の特徴が表れていますから、次回に考えてみたいと思います。

参考までに、「接続詞」について詳細に解説された本から
その役割と意味について一部抜粋します。
親鸞会が本当に読み手のことを考えているのかどうか
それ以前に自分がわかって書いているのか
少し考えたほうがいいと思います。

 接続詞で問われているのは、
命題どうしの関係に内在する論理ではありません。
命題どうしの関係を書き手がどう意識し、
読み手がそれをどう理解するのかという解釈の論理です。

 もちろん、言語は、人に通じるものである以上、
固有の論理を備えています。
接続詞もまた言語の一部であり、「そして」には「そして」の、
「しかし」には「しかし」の固有の論理があります。
しかし、その論理は、論理学のような客観的な論理ではなく、
二者関係の背後にある論理をどう読み解くかを示唆する解釈の論理なのです。

 じつは、人間が言語を理解するときには、
文字から得られる情報だけを機械的に処理しているのではありません。
文字から得られる情報を手がかりに、文脈というものを駆使して
さまざまな推論をおこないながら理解しています。
わかりやすくいうと、文字情報の中に理解の答えはありません。
文字情報は理解のヒントにすぎず、
答えは常に人間が考えて、頭の中で出すものだということです。


(略)そして、接続詞は、文のなかの情報を伝えるのではなく、
文脈を使った推論の仕方を指示する役割を備えています。
 接続詞の論理は、論理のための論理ではなく、人のための論理なのです。

(石黒圭『文章は接続詞で決まる』光文社新書2008年
第一章 接続詞とは何かp31~32)


 接続詞は「書き手」のもの
 前章の終わりで、接続詞は人のための論理を担うものであることを確認しました。
だとしたら、接続詞は書き手のためのものなのでしょうか。
読み手のためのものなのでしょうか。

 結論からいうと、書き手のためのものでもあり、
読み手のためのものでもあります。
(略)このように接続詞は、複雑な内容を整理し、
書き手があらかじめ立てた計画に沿って確実に文章を展開させたいときに
力を発揮します。

 接続詞は「読み手」のもの
 一方、接続詞には「読み手のためのもの」としての側面もあります。
「側面がある」というよりも、接続詞は原則として
読み手のためにあると考えておいたほうがよいでしょう。


 本書の冒頭で井伏鱒二の言葉を引用しました。
その引用の中で、「尊敬する某作家」が推敲の段階で、
繰り返し接続詞に手をいれていたという事実がとくに重要です。

 文章というのは社会的な存在です。
読み手が読んで理解できるように書かなければなりません。
しかし、私たちが文章を書くと、どうしても自分の論理で書いてしまい、
その結果、その情報に初めて接する読み手が理解できなくなる
ということがしばしば起きます。
文章を書くということの難しさは、まさにそこにあります。

 書き手の論理で書いた文章は、しばらく寝かせて、
自分と切り離す必要があります。
そして、自分と切り離せた段階で、他者の眼でその文章を読みなおし、
他者の論理で推敲をする必要があるのです。

 自分の書いた文章を他者の眼できびしくチェックすることは
「言うは易く、行なうは難し」ですが、
優れた書き手は優れた読み手でもあり、
自分の書いた文章を読み手の視点からモニターすることに長けています。
……

(同著 第二章 接続詞の役割 p36~39)


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