信心と信仰の違いについての考察もできそうです。例えば信心は卑近な語感があり、信仰は「いと高きところにまします」と仰ぎ見る語感があるというように。
しかし両者は類似の概念として論理的問題にしぼって、
①卒業(完成)のある信仰
②信仰には卒業(完成)がある
のように単純化すると、
①では、「卒業のある信仰と卒業のない信仰があり、私達は卒業のある信仰を求めている。」となり、
②では、「卒業のない信仰はあり得ない。信仰とは必ず卒業があるものである。卒業のないのは信仰とは呼べないもので、間違い者である。」となります。
言い換えれば、①は色々な立場を認めた上で自分達の立場を打ち出している姿勢、②は自分達の立場以外は論外という姿勢であると思います。正確に言えば、卒業があるのは会の信仰だけという暗黙の了解が必要ですが。
また、「卒業のある信心」と「信仰には卒業がある」として信心と信仰を使い分けるなら、信心は世間一般のものも会のものも包括する概念、信仰は会のものだけを表す概念となりますね。これも、先の暗黙の了解の部分を差し引いて論理的正確さを追求すれば、「信心には卒業のあるものとないものがあり、信仰には卒業のあるものしかない。」というべきです。
どうもくどくなってしまってすみません。日本語の特性というより、正確に言おうとするとどこの国語でもくどくなるでは、と疑っています。
有難うございました。
私とはまた若干違った角度から素晴らしい分析をしてくださいました。
少し整理させていただくと、
記事にも書かせていただいたように、
親鸞会は①の意味でも②の意味でも用いていて、
①から入っていって②を強調する、②が結論となっている形だと思います。
世間でいう求道には完成がないという話から、
卒業(完成)がなければ救い(浄土真宗)じゃないという話まで
含んだ意味として使っているということです。
>卒業があるのは会の信仰だけという暗黙の了解が必要ですが
の「暗黙の了解」というのが、
私の述べたところの「前提」ということです。
>信心は世間一般のものも会のものも包括する概念、信仰は会のものだけを表す概念となりますね。
そうですね。親鸞会の言いたいことは、
「信心は皆が求めているものだけれども、
卒業のある信仰は親鸞会だけが説いている」
ということなのです。
>論理的正確さを追求すれば、「信心には卒業のあるものとないものがあり、信仰には卒業のあるものしかない。」というべきです。
そうです。しかしこう言ってしまうと、
「信仰には卒業のあるものしかない」
↑この部分が、本当にそうですか?となります。
そうでないないなら、論理破綻です。
>どうもくどくなってしまってすみません。日本語の特性というより、正確に言おうとするとどこの国語でもくどくなるでは、と疑っています。
これもそのとおりで、大事なことが含まれていると思います。
今回はこの点も絡めて考えてみたいと思います。
さて、このサイトで何度かご紹介した香西秀信氏は
著書『レトリックと詭弁』ちくま書房 の中で、
宇佐美寛氏の「問いの構造」という論文を紹介しています。
香西氏はこの宇佐美氏について、
宇佐美氏は、論争の達人として、
教育学界ではその名を知らない人はいないほど畏敬されている研究者です。
当該の論文は、公共の図書館にはたいてい備えられている雑誌に掲載されておりますので、
巻末の引用文献表を頼りにぜひ検索され、
一読のみならず、二読、三読をお勧めいたします。
何度も言うようですが、質の悪い問いを跳ね返す方法を学ぶのに、
これ以上役に立つ文献はありません。
と述べています。
この論文は、
論争相手の吉田氏の「引っ掛け」と言える“質の悪い問い”に対して、
これでもかこれでもかと
ひたすら理詰めで吉田氏の主張を破壊していくものです。
これ以上のないくどさです。
これについては宇佐美氏が自ら著書
(『「議論の力」をどう鍛えるか』 明治図書)
の中でさらに詳しく解説をしていました。
簡単なことほど詳しく説明するのは難しいので、
わかってもらおうとするとくどくなるということがあります。
宇佐美氏にとっては議論のルールとして当たり前のことが
吉田氏には理解されていない(共有されていない)ので、
とことん理詰めで説明しなければならないということなのでしょう。
わかるようにしかも正確に説明しようとすれば、
相手のわからないところにまで立ち戻って説明しなければならず、
その地点で言い換えた言葉にまた説明が必要であれば
またそこで説明しなければならないといった具合です。
しかし、筋の通った正しい話なら、
どんなにくどく説明しようとしても論理が破綻することはありません。
逆に、どこかで矛盾する話は詳細にしようとすると
自ら破綻します。崩壊してしまいます。
詳しく追求すると論理的にボロが出てきてしまうからもたないのです。
つまり、くどい説明をしようとしてもできないのです。
親鸞会は詳しく説明するということをしません。できません。
同じ話を何度も繰り返すだけです。
前にも述べたように、親鸞会が推奨する
「文章は簡潔に、余計なところはなるべく削って」というのは、
矛盾していたり論理破綻していたり
途中で話や言葉の意味が変わってしまっていたりする正確さに欠けた話を
誤魔化すのに好都合なのです。
以前の記事「接続詞のない文章②~隠す効果~」
で紹介した「4-36 隠す効果」とも関連する、
その続きに挙げられていた詭弁が以下のものです。
さらにその後のコラムも紹介します。
4-37 表現を過剰に単純化する
「詳しく述べたらどこが変かバレてしまうので、
詳しく述べない」のがこの方法です。
詳しい説明を聞きなれていて、
いつでも詳しい説明を求めている人には、
説得力がまったくありません。
文章の簡潔さ(コラム)
日本人は俳句や和歌に深くなじんでいて、
「簡素な表現がよい」という意識が強く、
理詰めの表現は、
多くの日本人には必要以上に長く感じられるものです。
理詰めに正確に書けば数ページかかる内容でも、
「要するに何か」の部分は1、2行で書けるので、
「数ページ費やすのはくどいだけで数行で終わらせるのがよい」
と考えていて、
説明を1、2行で済ませてしまう人がたくさんいます。
「それが簡潔でよい」という考えゆえなのです。
でも、それは実は「簡潔ではなく」、
単に「必要な説明が欠落しているだけ」です。
同じことを述べる場合に、
語数の多い版と少ない版がある場合、
少ないほうを簡潔と呼びます。
何かが欠落していて語数が少ないものを簡潔と呼ぶのは
間違いです。
不要なものは欠落していてよい
──不要なものがある文章は冗漫と呼ぶ──のですが、
必要な説明は欠落していてはいけません。
削って足りなかったりよく分からなかったりする部分は、
会員が勝手に都合のよいように補ってくれます。
「察してくれよ」「察してしまう」の関係で
お互いに都合の悪い部分は排除できるのです。
今改めて親鸞会の文章を読んでみると、
素直に読んでみようとすればするほど、
何が書かれてあるのか言いたいのか、本当によくわかりません。
何度も聞かされてきたセンテンスが淡々と接続詞もなく、
短い文章で区切られて繰り返されているだけです。
いかに自分が、繰り返し聞かされていた話で
その隙間(行間)を埋めて読んでいたのかを実感させられます。
いわば、記号や暗号に近いのです。
会員だけに通用するという意味でもそう言えるでしょう。
真に人に訴えよう、伝えようという心のこもった誠実な文章、
心に訴える力のある本物の文章ではないのです。
それでも会員には心地よいのです。
聞き慣れた言葉、単語、文章、
この「絶対に間違いのない真実」でいつも自分に暗示をかけて
「間違っているはずがない」のですから、
考えることも、判断することも要らない、
もう考えなくてよいから楽です。
ここはこう言うと覚える・人に説明する。
考えなくとも、与えられるものだけを暗記をしていけばいいのです。
丸写しの正確さで覚えることがいいことです。
カルトにとっていかに正確に話せるかという正確さとは、
教祖と一言一句違わないでという意味であって、
つまりコピーできているかという意味での正確さなのです。
こんなことを続けていると、
だんだん文章が読めなくなります。
読めても、考えることが苦手・苦痛になります。
ますます依存的になり、悪循環(カルトには好都合)に陥ります。
脱するのにも時間がかかります。
考える力を取り戻すには、一つには
自分の言葉で語ることを試みることです。
それも長くなってもできるだけ詳しく(理詰めで正確に)。
詳しく語ろうとすれば、筋の通らない話は破綻します。
日本語のおかしさも露呈します。
たいていのカルトの教祖は
自分で咀嚼した上での自分の言葉で語れない人でしょう。
そんな人物の下にいれば同じようになっていきますし、
自分の言葉で語らせない・考えさせないほうが、
従わせるにも好都合なのです。
最新コメント