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「信仰には卒業(完成)がある」という言い方について

2012年05月21日03:24

前回の続きです。非常に簡単な話ですが
できる限り詳しく(くどく)述べてみたいと思います。


 「〇〇のある~~」という言い方について

例えば、このような言い方をします。
「自覚症状のない歯周病」
これには二通りの使い方(意味合い・ニュアンス)があります。
1)「自覚症状のある歯周病」と「自覚症状のない歯周病」があって、
そのうちの一方である後者を示す場合。
2)歯周病には自覚症状がないのが普通であるが
「自覚症状がないことを強調して」歯周病のことを紹介したい場合。

1)は自覚症状があるものとないものがあるという意味になりますから、
2)の使い方をするとむしろ1)とは反対の意味合いになります。
日本語は難しいですね。
しかしそのどちらであるかは
その前後の説明なりを読めば自ずと判明することでしょう。
そのような曖昧さを排して2)の意味を示したいなら、
「歯周病には自覚症状がない」
と言えば正確になります。


 「信仰には卒業がある」という言い方に隠された前提

さて、本題の
「信仰には卒業がある」ですが、
ここで「信仰には卒業がある」と言えば、
・「すべての信仰には卒業がある」ことを改めて述べたもの
・「一般に考えられている信仰や他で説かれてきた信仰には卒業はないが、
 これから説こうとする信仰には卒業がある」ことを強調したいもの
の二通りが考えられます。

前者と後者では、その前提が異なります。
前者のように用いるのは、
「どんな信仰にも卒業がある」ことが前提で、
しかしそのことが一般に知られていなかったりする場合に、
そのことを改めて詳しく説明したい場合です。

しかし、ここでの親鸞会の話は、
「信仰に卒業があるなど知らなかった(説かれてなかった)」
「親鸞会で信仰に卒業があると知った」
という話ですから、これには当てはまりません。
「これから説こうとする親鸞会の信仰には卒業がある」
という内容ですから、後者になります。

後者は、「信仰に卒業なんてあるのか」「そんな話は聞いたことがない」
ということが前提になっているのです。
つまり、前者と後者では前提が逆、要するに
話の出発点が反対なのです。

そして、「これから説こうとする卒業のある親鸞会の信仰」、
「卒業のある信仰」が正しい救いなのだから聞き求めなさいという意味です。

ここでまた「卒業のある信仰が正しい」ということが前提になっているのですが、
これにも二つの意味合いがあって、
・世間一般の求道には卒業がないが親鸞会で説く救いには
信心決定という完成がある
という意味(卒業があるのが救いという問題)と、
・本願寺で説かれている信仰には卒業や完成がないが、親鸞会にはある
という意味(信仰とはどういうものかという問題)があるのです。
「本願寺で説かれている教えには信心決定という卒業がないが
親鸞会で説いている教えには信心決定という卒業がある(から正しいのだ)」
という主張です。

つまり、この話には隠された前提があるのです。
前提1)信仰には卒業のあるものとないものがある
前提2)そのうちの卒業のある信仰(を説いているの)が正しい

です。

前提が崩れればその主張の正しさは崩れるという話は
何度かしてきました。
さて、この主張は正しいのでしょうか。


 「信仰」の示す意味で違ってくる

まず、前提1)について考えてみます。
よく考えてみると、これも変なのです。
そもそもここで親鸞会はこの信仰という言葉を、
どういう意味で使っているのでしょうか。
親鸞会の説明を読めばわかるように*1)
「信仰を卒業したとき、それが信心決定(縦の線)」
なので、ここでいう親鸞会の信仰とは、
「信心決定するまで」のことを指しています。

親鸞会では世間一般の求道を指して卒業がないと言いますが、
それはいいとしても、
では浄土真宗の視点ではどうなのでしょう。
決勝点のその後(信後)は何なのでしょうか?
親鸞会では「御恩報謝」と言っています。それ自体は間違いではないです。
ではしかし、信後の御恩報謝の暮しは「信仰」に入らないのでしょうか。
もうお分かりだと思います。
「親鸞会では信後は信仰のうちに入らない・入れていない」のです。
親鸞会の「卒業のある信仰」とは、信前の「求道」のことを示すのです。
(前々回お話した「曖昧独自な言葉の定義」)

同じ意味で「親鸞会の求道には完成がある、卒業がある」
と言い換えることができることからも、
この主張の「信仰」が「求道」のことを示していることはお分かりになると思います。

ですから、このような言い方は、
「信仰」=「信前の求道」なら正しいのですが、
一般的に、特に浄土真宗で信仰とは信前の求道のことを示すものなのでしょうか。

信仰という言葉は浄土真宗ではあまり用いられないのですが、*2)
むしろ浄土真宗の信心の意味からすれば、
信後の御恩報謝のほうが信仰といえるのです。
だとすれば、親鸞会でも「御恩報謝に卒業はない」と言っているように、
信仰にも卒業はないということになります。

この信仰には卒業があるという話の中で、
信仰に卒業があると説いた後に寺の人が
「信仰に卒業があるなんてはずがない」と抗議にやって来て諭した後、
「卒業なんてあるはずがないというのは
御恩報謝のことと間違えておられるのではないですか?
確かに、御恩報謝には卒業はありませんよ」
といって助け船を出して、寺の人も「そうだったそうだった」と納得する
というくだりがありましたが、
・信後も信仰の中に含めるなら信仰に卒業はない
・信仰とは信前のことだけを指す(親鸞会独自の定義)なら卒業がある
これだけのことです。


 「卒業のある信仰と卒業のない信仰」

前提2)そのうちの卒業のある信仰(を説いているもの)のみが正しい
のか?についてです。
ここまでで、「信仰」という言葉の使い方(親鸞会独自の定義)に
問題があるということがわかりましたから、
これについては説明するまでもありません。

・信仰が信前の求道だけを指すなら卒業はある(信心決定ということがある)
・信仰に信後の御恩報謝も含めるなら卒業はない(御恩報謝に卒業はない)
どちらも正しいのです。

親鸞会の言い方はこのうち前者だけに意味を固定して、
勝手に独自性を作り出して
唯一の正当性を醸し出そうとしているに過ぎないのです。

繰り返しになりますが、親鸞会で
>弥陀の本願に一念で救い摂られ、報土往生が
>ハッキリと定まったことを、「業事成弁」略して「業成」と
>言われています。そのときが、信仰の卒業であり、決勝点であります。
といっているように*3)
親鸞会では「信仰」=「信心決定するまでの求道」であり、

そして、「信仰の卒業」とは
「一念で救い摂られること」「報土往生がハッキリと定まったこと」
を示しますから、
親鸞会で「信仰の卒業」とは
一念で救いとられる、報土往生がハッキリと定まる、つまり「信心決定」を示します。
要するによく読めば、親鸞会で言っていることは
「信心決定ということがある」ということであって、
これを独自に「『信仰の卒業点』と定義している」だけです。
ですから、「信仰に卒業があるとする親鸞会の教え」だけが
信心決定できる正しい教えということではないのです。
(信心決定する、できる、このような言い方を好んで
強調するのも親鸞会の特徴です。
このあたりのことも考察してみるとよいかも知れません)

「卒業・完成のある信仰」という言い方で、
あたかも、親鸞会だけが完成・卒業のある信心を説いている、もしくは
親鸞会だけが卒業・完成(信心決定)ができるという印象を与えたいのです。


まとめ
ここでの親鸞会のトリック

・「信仰」を「信心決定までの求道」という意味に限定して
求道に完成がある→信仰に完成がある
とした。

・はじめから「信仰」という言葉を「卒業のあるもの」としての意味で
定義し直して用いている。
(「信心決定するまでの求道」の意味で使っている)
 それなら当然信仰に卒業があるとなって当たり前だが、
浄土真宗で「信仰」とは「信心決定するまでの求道」に限られるのか?(違う)

・あたかも「卒業のある信仰」を説いているのは親鸞会だけだといいたいのだが、
確かに余所では「信仰の卒業」という言い方はしない。しかし、ここで
「信仰の卒業」とは「一念で救い摂られること」「一念で救い摂られること」「報土往生がハッキリと定まったこと」をいっているのに他ならない。
「一念の救い」「報土往生がはっきり定まること」が説かれているのが浄土真宗であるから
それは親鸞会だけで説かれていることではない。
むしろその内容になれば親鸞会では正しく説かれていないといっていい。

*1)http://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/kansei-sotsugyou-shinjin01.htm
*2)http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-380.html
*3)http://sinshu.blog.shinobi.jp/Entry/624/
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定義の中の前提~前提に誤りがあれば結論も誤る~

2011年06月06日00:16

簡単な頭の体操です。
香西秀信著『レトリックと詭弁』ちくま文庫 のあとがきに
次のような話が載っています。

 小学校の算術書には次のような問題がよく出ている。大工四人で三ヶ月かかって建てる家を、大工六人で建てたならば、何ヶ月かかるかという類であるが、計算の結果二ヶ月という答えを得て誰も満足している。同じ論法で進めば、一二人でならば1ヶ月に、三百六十人ならば一日に、八千六百四十人でならば一時間に、三千百十万四千人でならば一秒に一軒の家が建つ勘定になる。論法に誤りはないゆえ、初めの答えが正しければ、終わりの答えも同じく正しいはずであるに、一秒で家が建つという計算は誰も笑うて、真面目に取り上げぬ。…(略)…浅丘次郎「固形の論理」



この話を出して、著者は、一秒で建つという結論には誰もが笑うであろうが、
ならば大工四人で三ヶ月ならば大工六人で二ヶ月という結論にも
笑わなければならないと言います。なぜなら結論を導き出した論理は
両者とも全く同じものだからであると述べます。

確かにそのとおりです。では、この論法の誤りはどこにあるのか。
著者とは違った切り口で考えてみました。
ここにも「隠れた前提」があって、その前提に誤りがあるのです。

「この話には『人数が倍になれば、作業能率も二倍になる(二倍の早さになる)』
という前提があって、これがどの段階でも通用する訳ではないからだ。」

答えは一つではないと思います。

さて、前回、視点によって正しさは変わるということについて
考えてみましたが、これは言い換えれば、
「定義が変われば当然そこに含まれている前提も違う。
前提が変われば、結論(正誤)も変わってしまう。」

ということです。

数字の話の例で言えば、
今「偶数」について話をしているのなら、それは当然
・奇数であるものはない
・すべて整数である
という前提で話をしているということです。
この前提自体が、「奇数の【定義】に含まれているもの」だからです。

「整数」について話をしているのであるなら、
・奇数もあるが、全部が奇数ではない
とまた前提も変わってきます。

しかし、もし偶数や整数について正確に知らないでいると、
定義によって当然含まれる前提も知らない訳ですから、
2の倍数の中には3の倍数であるものが存在するように、
偶数の中に奇数であるものが存在すると間違えてしまう人も
あるかも知れません。
そのような時は正しい意味を教えてあげて
定義を踏まえた正しい前提で話をするようにしなければなりません。
また、そのような誤りをなくすために、正しい定義(意味)を
知るよう努力しなければなりません。

この例では
共通の要素の存在する関係と交わりのない関係では、
関係性が違うということなのですが、
そういった関係性も踏まえた正しい定義を知ることが大事なのです。
定義の中には、【関係性】というものも含まれているのです。

前回の話の繰り返しになりますが、浄土真宗ならば、
仏教の中の浄土門なのですから、
聖道門との関係性を正しく踏まえた上での話でなければ
訳がわからなくなるのは当然なのです。

そして、誤った定義(理解)による
誤った前提での話は、結論も誤るということです。
その誤った前提が隠れている場合、
以前にも考察した、「隠れた前提」による間違いになるのです。

親鸞会でよく使われている話には、
前提が誤りのものが非常に多いということです。
例を挙げれば、

・二河白道の「白道」とは「信前の求道」という前提
・弥陀の救済にあうには「信仰(の進み具合)」というものが関係あるという前提
・「信仰」が進むということがあるという前提
・「信仰」が進んだかどうかわかるという前提
・何かに励んだら信仰が進むという前提
・信仰が進むために勧められている行為があるという前提
・全ての人が「瀬戸物の茶碗を持てると自惚れている」という前提
・宿善薄い者が厚くなるという前提
・獲信のために善が勧められているという前提
・三願転入とはこれから私が19願の実践から入っていくことであるという前提
等々。
(この辺りの表現はもう少し工夫が必要かと思いますが、
必要があれば補足、修正します。)

よく見て考えてみればわかりますが、
これらの前提に共通してあるのは、つまり何が根底にあるかと言えば、
本来浄土真宗では嫌われ捨てるべき「自力」です。
何かしていったら、進んだら、あれをしたら進むのでは、
進んだら助かるのでは、何もせんとただで助かる訳なかろう、
だからそれが19願の善だと会員は思い込まされています。
以前の記事でも取り上げた会員の信心の沙汰の中での
「後生の一大事が問題にならねば、「雑行」は絶対に分からない (4/6)」
会員の発言の中にも、親鸞会の善の勧めに対する批判への反論として
「19願の善は勧めないのに、念仏を勧めるのはおかしい」
という頓珍漢な発言がありましたが、 注1)
浄土真宗で勧められている念仏は、
「念仏を称えた私の功で信心決定できる(あるいは死んだらお助け)
という自力念仏(雑行)の意味ではない」のは当然のことなのです。

ところが、そんな浄土真宗の基本を聞かず、知らず、
「信心決定するために何かしなければならないに決まっている」注2)
という【自力を前提にした】話を混ぜていつしかそこばかり強調され、
聞いているほうもそんな発想しかなくなるから
「じゃあ善をして助かるでないなら、念仏したら助かるというのか」
という発言が出るのです。

心情はわかります。
私には、どうしたらいいのか、ああしたらいいのか、こうなったらいいのか、
ああなればいいのかの自力の心しかないのです。離れ難いのです。捨て難いのです。
だからこそ、他力の謂われを聞かなければ救われないのです。
浄土真宗は、聞いて救われる教えなのです。
「自力から他力になる」「自力が他力になる」ではなく、
往生においては「初めから他力」「他力のみ」「自力捨てよ」を聞いたのが浄土真宗なのです。

親鸞会は、会員の自力の心を利用した・するのに都合のよい、
独自の浄土真宗の定義による前提に基づいた話なのです。
そしていつまでも自力(雑行)にしがみつかせるのです。
(「独自の浄土真宗の定義」となった時点で、それは浄土真宗ではないのですが。)

(付記)

改めてこの親鸞会HP
「後生の一大事が問題にならねば、「雑行」は絶対に分からない」
を読むと、至る所に「親鸞会教義による誤った前提(隠れているもの、隠れていないもの)」が
含まれていることが読み取れます。
出してみると誤りがよくわかっていいかも知れません。

注1)
講師:十九願から二十願へ導き、そして、真実の十八願へ転入させる。
阿弥陀仏が「十方衆生」と誓われたのは、この三願のみです。
この三願によって救う、という三願転入が、私たちを救うための阿弥陀如来の遠大なご計画なのです。すべては、阿弥陀さまのお計らいなのですよ。
学徒:親鸞会を非難する人たちは、それを勝手に計らって、「18願だけでいいんだ」と言うらしいですね。
学徒:「19願は、聖道門の人を浄土門に導くためのものだから、18願の救いを求める人には関係ない」と言っているそうですよ。
学徒:へー、19、20の方便願は、自分には不要とでも思っているのでしょうか?
学徒:方便は卒業したと思っているのかな?
学徒:とんでもないうぬぼれですねえ。
講師:18願だけで素直に聞ける自分だと思っているからでしょう。
学徒:ところがおかしなことに、念仏を称えることは勧めるそうですよ。
学徒:19願は不要だが、20願は必要ということ?
学徒:それじゃあ、二願転入だ。

注2)
ここで「何かする」のするというのは、「自分のすることを獲信の為に間に合わせようとして」という意味で、
親鸞会でいうところの「宿善を厚くするために」という意味です。

隠れた前提~「信仰が進むから、善をしなさい」①~

2011年05月09日19:19

隠れた前提があると論理飛躍が起きる



隠れた前提とは、
主張の中で明言されていないが、
真実として扱われている(真実でないと主張が成り立たなくなる)前提
のことを指します。


「論理的な主張の仕方」



隠れた前提を根拠として述べている主張は、
その隠れた前提が真でないならば
その結論は真とは言えなくなります。

以前の記事で、信じるということと根拠の関係について述べました。

同じく上の引用先には

「論じる文章を書くためには5W3Hの他にも、
『理由』・『根拠』・『視点』という三つの前提と、
理由と根拠を支える『事実』が必要なのです。」
「論理的な主張の仕方と文章の書き方」)

と述べられていますが、
主張(結論)を支えているものが、「理由」と「根拠」です。
理由と根拠のしっかりしたものが、説得力のある話です。

そしてその「理由」と「根拠」は、
ある「視点」が前提になっている
ということです。つまり、
前提としての「論点」に立ったものでなければならない
ということです。
今している話でいうなら、
「浄土真宗では」という前提で話をしているのですから、
「浄土真宗では」という視点・論点で話をしなければならない
ということです。

今回はその三つの前提の中の
「根拠」が「隠れた前提」になっている話についてです。
まず、同サイトから「隠れた前提」が含まれている例文を見てみます。

『ソクラテスは死ぬ。なぜなら、ソクラテスは人間だからだ。』

ここに隠れている前提は、「人間は死ぬ」です。
上の例文は言い換えれば、

『ソクラテスは人間だから、死ぬ』

です。これが正しいと言えるためには、
「人間が死ぬ」という前提がなければなりません。
この前提は正しいので、例文にも問題はありません。

簡単過ぎてかえって分かりにくいでしょうか。

では別の例文ではどうでしょう。

『彼はイライラしてる。疲れてるんだろうね。』

考えてみましょう。
『彼はニコニコしている。疲れているんだろうね』
とはあまり言いません。また、
『彼はイライラしている。急いでいるんだろうね』
と言える場面もあります。すると、上の例文は

「疲れるとイライラする」という前提で
話をしていることがわかります。
この前提は場合によっては正しいと言えるでしょう。
疲れていてもイライラしない人もいるでしょうから。

他にもにいくつか例が挙げられていましたので
隠れている前提を考えてみてください。答えは下です。
私はすべて即答できました。

『理香は髪を切った。だからきっと理香は失恋したのだろう』


→隠れた前提.(    ①     )

『テングタケは毒キノコだ。だからテングダケは食べられない。』


→隠れた前提.(     ②       )

「『キルビル』(映画の題名)にはメッセージ性がない。
ゆえに、『キルビル』は駄作だ。」


→隠れた前提.(       ③         )

『ポルノの出版を規制するべきだ。
なぜなら、有害なものは規制しなければならないからだ。』


→隠れた前提.(    ④     )

『今の若者は権利ばかり主張して、義務の履行はさっぱりだ。(言外の意:若者に権利を与える必要はない。)』


→隠れた前提.(          ⑤             )

『東国原宮崎県知事はタレント出身だ。
知事の仕事は、政治の知識と経験が豊富でないと務まらない。
だから、東国原氏は知事としてふさわしくない。』


→隠れた前提.(          ⑥             )

A氏 「さっき彼と碁を打ってたろ。勝った?」
B氏 「いや、勝てなかった。」
A氏 「なんだ。負けたのか。」


→隠れた前提.(         ⑦           )

このいくつかの例でもわかるように、
隠れた前提が正しい場合、
もしくは自分が正しいと思っている場合ほど、
隠れた前提には気付きにくいということがあります。


隠れた前提が正しい場合はそれでよいのですが、
真でない場合には、
その隠れた前提を根拠としているのですから
当然その話の「根拠はない」ということになって
正当性は崩れます。

くどいですが誤解のないように付け加えますが、
「隠れた前提がある」こと自体が間違いということではありません。
隠れた前提があるだけでその話が間違いになるということではなく、
話の中に隠れた前提があって、且つその前提が間違っていたら
根拠が崩れるということです。

隠れているが故に気付きにくいということです。

さて、実例です。
ここに、信心の沙汰ということで
親鸞会の講師と会員の話が公開されています。
親鸞会HP『後生の一大事が問題にならねば、「雑行」は絶対に分からない』

《非難》
蓮如上人も「雑行(ぞうぎょう)を捨てよ」とは、書かれているが「信仰が進むから、善をしなさい」とは、書いておられないのではないか。
だから、善を勧める親鸞会は間違いであり、善をすれば助かるという諸行往生だ。

「雑行雑修自力の心のある間は、絶対に阿弥陀仏の無上の救済には値えない」と説き続ける親鸞会に対し、「親鸞会が善を勧めるのは、善をすれば助かるという諸行往生だ」との非難である。

甚だしい事実誤認であり、無知である。あるいは、ためにする誹謗であろう。
そのことを、親鸞会の会員が集って行われた信心の沙汰から明らかにしたい。

親鸞会の講師:「蓮如上人も『雑行を捨てよ』とは書かれているが、『信仰が進むから善をしなさい』とどこに勧められているか」と言ってきたら、「では、『信仰が進むから悪をしなさい』と書かれていますか。
『善をするな、やめよ』とどこにおっしゃっていますか」と、ズバッと言えばいいでしょう。…(以下略)



ここで、一~二行目と親鸞会講師の言葉の中と二回、
非難の対象となっている親鸞会の善の勧めの言葉として
「信仰が進むから、善をしなさい」
が挙げられていますが、これに対して
「そのようなことは主張していない」とは反論していないことからも
わかるようにこれが親鸞会の主張です。まずこの

阿弥陀仏に救われるためには
「信仰が進むから、善をしなさい」



という親鸞会の主張には、隠れた前提があります。
その隠れた前提が間違いなら、この主張は根拠がなくなります。

それから、非難に対する親鸞会の反論として

親鸞会の講師:「蓮如上人も『雑行を捨てよ』とは書かれているが、
『信仰が進むから善をしなさい』とどこに勧められているか」と言ってきたら、

「では、『信仰が進むから悪をしなさい』と書かれていますか。
『善をするな、やめよ』とどこにおっしゃっていますか」


と、ズバッと言えばいいでしょう。



と親鸞会講師はおっしゃっていますが、
ここまでズバッと詭弁を言われてもこちらが恥ずかしくなります。
本気で言っているのだろうかと思いましたが、
おそらく上から言われたことを何も考えずに鵜呑みにして
受け売りで言っていれば間違いないと思っているのでしょう。
そうでなければ多少なりとも考えることをしたなら
こんな反論はできません。
しかしわかりやすい例なので、取り上げました。

「では、『信仰が進むから悪をしなさい』と書かれていますか。
『善をするな、やめよ』とどこにおっしゃっていますか」


の主張には、少なくとも二つの論理上の虚偽があります。
一つは上でも述べた、隠れた前提の間違い。
もう一つは、ダミー論証(藁人形攻撃)です。
説明は次回にします。

【隠れた前提 答え】
①失恋したら髪を切る。
②毒キノコは食べられない。
③メッセージ性のない映画は駄作だ。
④ポルノは有害である。
⑤義務を履行しない者には権利を与える必要はない。
⑥タレント出身者は政治の知識と経験が豊富でない。
⑦碁に引き分けはない(=勝てなかったら、負けになる)

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Author:lonli
元親鸞会会員。

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