できる限り詳しく(くどく)述べてみたいと思います。
「〇〇のある~~」という言い方について
例えば、このような言い方をします。
「自覚症状のない歯周病」
これには二通りの使い方(意味合い・ニュアンス)があります。
1)「自覚症状のある歯周病」と「自覚症状のない歯周病」があって、
そのうちの一方である後者を示す場合。
2)歯周病には自覚症状がないのが普通であるが
「自覚症状がないことを強調して」歯周病のことを紹介したい場合。
1)は自覚症状があるものとないものがあるという意味になりますから、
2)の使い方をするとむしろ1)とは反対の意味合いになります。
日本語は難しいですね。
しかしそのどちらであるかは
その前後の説明なりを読めば自ずと判明することでしょう。
そのような曖昧さを排して2)の意味を示したいなら、
「歯周病には自覚症状がない」
と言えば正確になります。
「信仰には卒業がある」という言い方に隠された前提
さて、本題の
「信仰には卒業がある」ですが、
ここで「信仰には卒業がある」と言えば、
・「すべての信仰には卒業がある」ことを改めて述べたもの
・「一般に考えられている信仰や他で説かれてきた信仰には卒業はないが、
これから説こうとする信仰には卒業がある」ことを強調したいもの
の二通りが考えられます。
前者と後者では、その前提が異なります。
前者のように用いるのは、
「どんな信仰にも卒業がある」ことが前提で、
しかしそのことが一般に知られていなかったりする場合に、
そのことを改めて詳しく説明したい場合です。
しかし、ここでの親鸞会の話は、
「信仰に卒業があるなど知らなかった(説かれてなかった)」
「親鸞会で信仰に卒業があると知った」
という話ですから、これには当てはまりません。
「これから説こうとする親鸞会の信仰には卒業がある」
という内容ですから、後者になります。
後者は、「信仰に卒業なんてあるのか」「そんな話は聞いたことがない」
ということが前提になっているのです。
つまり、前者と後者では前提が逆、要するに
話の出発点が反対なのです。
そして、「これから説こうとする卒業のある親鸞会の信仰」、
「卒業のある信仰」が正しい救いなのだから聞き求めなさいという意味です。
ここでまた「卒業のある信仰が正しい」ということが前提になっているのですが、
これにも二つの意味合いがあって、
・世間一般の求道には卒業がないが親鸞会で説く救いには
信心決定という完成がある
という意味(卒業があるのが救いという問題)と、
・本願寺で説かれている信仰には卒業や完成がないが、親鸞会にはある
という意味(信仰とはどういうものかという問題)があるのです。
「本願寺で説かれている教えには信心決定という卒業がないが
親鸞会で説いている教えには信心決定という卒業がある(から正しいのだ)」
という主張です。
つまり、この話には隠された前提があるのです。
前提1)信仰には卒業のあるものとないものがある
前提2)そのうちの卒業のある信仰(を説いているの)が正しい
です。
前提が崩れればその主張の正しさは崩れるという話は
何度かしてきました。
さて、この主張は正しいのでしょうか。
「信仰」の示す意味で違ってくる
まず、前提1)について考えてみます。
よく考えてみると、これも変なのです。
そもそもここで親鸞会はこの信仰という言葉を、
どういう意味で使っているのでしょうか。
親鸞会の説明を読めばわかるように*1)
「信仰を卒業したとき、それが信心決定(縦の線)」
なので、ここでいう親鸞会の信仰とは、
「信心決定するまで」のことを指しています。
親鸞会では世間一般の求道を指して卒業がないと言いますが、
それはいいとしても、
では浄土真宗の視点ではどうなのでしょう。
決勝点のその後(信後)は何なのでしょうか?
親鸞会では「御恩報謝」と言っています。それ自体は間違いではないです。
ではしかし、信後の御恩報謝の暮しは「信仰」に入らないのでしょうか。
もうお分かりだと思います。
「親鸞会では信後は信仰のうちに入らない・入れていない」のです。
親鸞会の「卒業のある信仰」とは、信前の「求道」のことを示すのです。
(前々回お話した「曖昧独自な言葉の定義」)
同じ意味で「親鸞会の求道には完成がある、卒業がある」
と言い換えることができることからも、
この主張の「信仰」が「求道」のことを示していることはお分かりになると思います。
ですから、このような言い方は、
「信仰」=「信前の求道」なら正しいのですが、
一般的に、特に浄土真宗で信仰とは信前の求道のことを示すものなのでしょうか。
信仰という言葉は浄土真宗ではあまり用いられないのですが、*2)
むしろ浄土真宗の信心の意味からすれば、
信後の御恩報謝のほうが信仰といえるのです。
だとすれば、親鸞会でも「御恩報謝に卒業はない」と言っているように、
信仰にも卒業はないということになります。
この信仰には卒業があるという話の中で、
信仰に卒業があると説いた後に寺の人が
「信仰に卒業があるなんてはずがない」と抗議にやって来て諭した後、
「卒業なんてあるはずがないというのは
御恩報謝のことと間違えておられるのではないですか?
確かに、御恩報謝には卒業はありませんよ」
といって助け船を出して、寺の人も「そうだったそうだった」と納得する
というくだりがありましたが、
・信後も信仰の中に含めるなら信仰に卒業はない
・信仰とは信前のことだけを指す(親鸞会独自の定義)なら卒業がある
これだけのことです。
「卒業のある信仰と卒業のない信仰」
前提2)そのうちの卒業のある信仰(を説いているもの)のみが正しい
のか?についてです。
ここまでで、「信仰」という言葉の使い方(親鸞会独自の定義)に
問題があるということがわかりましたから、
これについては説明するまでもありません。
・信仰が信前の求道だけを指すなら卒業はある(信心決定ということがある)
・信仰に信後の御恩報謝も含めるなら卒業はない(御恩報謝に卒業はない)
どちらも正しいのです。
親鸞会の言い方はこのうち前者だけに意味を固定して、
勝手に独自性を作り出して
唯一の正当性を醸し出そうとしているに過ぎないのです。
繰り返しになりますが、親鸞会で
>弥陀の本願に一念で救い摂られ、報土往生が
>ハッキリと定まったことを、「業事成弁」略して「業成」と
>言われています。そのときが、信仰の卒業であり、決勝点であります。
といっているように*3)
親鸞会では「信仰」=「信心決定するまでの求道」であり、
そして、「信仰の卒業」とは
「一念で救い摂られること」「報土往生がハッキリと定まったこと」
を示しますから、
親鸞会で「信仰の卒業」とは
一念で救いとられる、報土往生がハッキリと定まる、つまり「信心決定」を示します。
要するによく読めば、親鸞会で言っていることは
「信心決定ということがある」ということであって、
これを独自に「『信仰の卒業点』と定義している」だけです。
ですから、「信仰に卒業があるとする親鸞会の教え」だけが
信心決定できる正しい教えということではないのです。
(信心決定する、できる、このような言い方を好んで
強調するのも親鸞会の特徴です。
このあたりのことも考察してみるとよいかも知れません)
「卒業・完成のある信仰」という言い方で、
あたかも、親鸞会だけが完成・卒業のある信心を説いている、もしくは
親鸞会だけが卒業・完成(信心決定)ができるという印象を与えたいのです。
まとめ
ここでの親鸞会のトリック
・「信仰」を「信心決定までの求道」という意味に限定して
求道に完成がある→信仰に完成がある
とした。
・はじめから「信仰」という言葉を「卒業のあるもの」としての意味で
定義し直して用いている。
(「信心決定するまでの求道」の意味で使っている)
それなら当然信仰に卒業があるとなって当たり前だが、
浄土真宗で「信仰」とは「信心決定するまでの求道」に限られるのか?(違う)
・あたかも「卒業のある信仰」を説いているのは親鸞会だけだといいたいのだが、
確かに余所では「信仰の卒業」という言い方はしない。しかし、ここで
「信仰の卒業」とは「一念で救い摂られること」「一念で救い摂られること」「報土往生がハッキリと定まったこと」をいっているのに他ならない。
「一念の救い」「報土往生がはっきり定まること」が説かれているのが浄土真宗であるから
それは親鸞会だけで説かれていることではない。
むしろその内容になれば親鸞会では正しく説かれていないといっていい。
*1)http://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/kansei-sotsugyou-shinjin01.htm
*2)http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-380.html
*3)http://sinshu.blog.shinobi.jp/Entry/624/
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