嘘をついていることに自覚がない人もいます。
嘘つき!と批判されれば、
「いやあれは嘘ではなくて、間違えただけだ。
人間だったら誰でも間違いはあるものだ。
そういうお前は間違えないのか?」と逆切れしてみせる人もいます。
「天地神明に誓って」
「ウソだったら腹を切る」
自信のない人ほど大げさなことを言います。
信じさせたいから。
「嘘だったら腹を切る」という言葉自体がウソ
なのですから、
こういうことを言う人がお詫びすることなどありません。
論理的思考を取り戻して親鸞会のトリックについて考えてみたい
●論理の原則9【根拠をたどって結論を導く】
主張の書き方はわかったけど、
主張の中身そのものを考え出すにはどうしたら良いのか?
『論理の原則6』で説明したように、
因果関係の順序を追って考えましょう。
理由→根拠→結論の順序で考えれば良いのです。
(ここまでの【主張A】を使った説明では結論をはじめに書きましたが、
これはあくまでも話を分かりやすくするためでした。)
【主張A】の場合ならば近頃犯罪率が増加している、なにか良い策はないだろうか? →色々と調べた結果、神奈川県では警察官を増員したら犯罪率が低下したという事実がある。→早速、我々も警察官の増員を検討しよう。
このような順序で考えます。
これが結論→理由→根拠の順序で考えるタイプの人だと・・・警察官を増員しなければならない。だがいきなりそんなことを言っても誰も納得しないからな、何か正当な理由をくっつけないといけない。そうだ、たしか近頃犯罪率が増加していたな、理由(建前)はそれでいいや。それに、警察官を増員すれば犯罪率が低下するという仮説もくっつけて根拠にしよう。勿論そんなデータは無いから資料は出さないことにしよう。
こんなふうになります。
こうして後付けされた理由や根拠はいい加減なものであったり、
ひどいときには捏造される事もあるのです。
こうしたタイプの人は普通主張する内容とは別の目的を持っています。
例えば、この人は警察の役人で組織を大きくしたいがために
主張しているだけかもしれません。
こうした人は、
本当の理由や根拠を書くと誰も納得しない事が分かっているので、
本音とは別のもっともらしい理由や根拠を後付けするのです。
このタイプの人は、
議論されている議題について
利害関係色の濃い人である事が多いのですが、
そのことは第四章と第五章で詳しく書きます。
ちなみに、仮説は事実に比べると弱い根拠ですが、
それが仮説であると前置きをしたり、
語尾を推測系(~でしょう、~の可能性がある等)にして述べれば
なんら問題はありません。
(「中学生からの論理的な議論の仕方」第一章 論理的な主張の仕方)
Aである。
なぜならば、Bだからである。(それで、Bの話を延々とする)
(その後で突如、Bではなく)Cなのである。(CはBを否定する内容。Cには根拠もない)
Cなのだから、Aなのである。
①十九願は、悪人に善を勧められたものである。(…A)
②なぜなら、それは観経を見ればわかる。
釈尊は、悪人の韋提希に「善のできないことを知らせる為に善を勧められた」からである。(…B)
③後生に驚き苦になって弥陀の救いを求めて初めて、「雑行」や「自力の心」は現れるのである。(…C)
④だから、十九願の善の勧めによってしか「雑行」は現れないのであるから、善の勧めは必要なのである。(…Cを根拠とした結論)
疑難と答え 3
「雑行を捨てよ」の意味(その2)
(疑難)
「親鸞聖人は、雑行を捨てよと教えられているのだから、諸善をする必要はない。善を勧めるのは間違いだ」
(答え)
「雑行」とは、「弥陀の救いを求めてする諸善万行」「自力の心で行う諸善」と前述した。
では、我々に弥陀の救いを求める心(自力の心)がどうして起きるのか。弥陀はどのように救いたもうのか。
その経緯を詳述されているのが、弥陀の十九願の意を解説された、釈迦の『観無量寿経』である。
そこには、十方衆生の代表として、王舎城の悲劇のヒロイン、韋提希夫人を登場させ、ドラマチックに説かれている。
吾が子欲しさに“とても3年は待てぬ”と夫・ビンバシャラ王を動かして、何の関係もない修行者を問答無用で殺害させ、権力者の冷酷さをムキだしにした韋提希。
その結果、産んで育てた阿闍世によって牢獄に幽閉され悲泣悶絶、それまで釈迦から聞法してきたはずの因果の道理も反故にして、己の蒔いた種を一切忘れ、相手構わず八つ当たり、韋提希はこの世の地獄を現出する。
「私は何のために生まれてきたのか。こんな苦しい、おぞましい人生、この世から地獄です。来世は二度とこんな地獄は見たくない。どうかお釈迦さま、私を苦しみのない世界へ行かせてください」
こう訴えて、精も根も尽きた韋提希は泣き崩れる。
釈迦は彼女の切なる希求に応えて、
「汝は、どの浄土へ往きたいか」
と、二百一十億の諸仏の国土を展望させられると、
「私は阿弥陀仏の浄土へ生まれとうございます。どうすれば安養の浄土へ往けますか。仰せのとおりにいたします」。
悪しかできぬ韋提希が、ぬけぬけとこう言ってのけるのだ。まさに我が身知らずの地獄必定の実相である。だが韋提希はまだそのことに気がつかない。
十方衆生に“弥陀の浄土へ生まれたい願心”を起こさせるのが、十九の願を建てられた弥陀の目的である、釈迦出世の本懐だったから、釈迦は初めて会心の笑みをもらされる。
かくして、「弥陀の浄土へ往きたくは、定善をせよ。弥陀に向かって端座して、この観法をすればよい」と、釈迦は、まず定善十三観を説かれている。
釈迦の教えに従って、心を静めようとすればするほど“阿闍世のチクショウ”“提婆のガキ奴”の、怒りと憎しみばかりが荒れ狂う。
これでは、定善どころでないと韋提希夫人は大ショック。
教えの通りやってみた定善に絶望し、悲鳴をあげる韋提希に、
「心を静められねば、乱れたままで、精一杯、散善をやってみよ」
と釈迦は説かれる。
散善とは、全ての人を上品上生から下品まで、善悪によって九品(九種類)に分けられて、“どの善ができるかな”と勧められている諸善のことである。
これもできない、あれもできないと実地にやらせて定善、散善ともに落第。
心想羸劣、造悪不善の韋提希を知らせ、かかる“助かる縁なき者を救いたもうは、弥陀一仏”と釈迦は教授なさるのだ。
釈迦は、韋提希夫人に、できっこないことを百も千も知りながら、なぜ、定善、散善を勧められたのか。
自惚れ強い「自力の心」を捨てさせて、弥陀の救いに値わせるための、浄土方便の善だと、親鸞聖人は明かされている。「雑行」や「自力の心」と言われるものは、後生が問題になり、弥陀の救いを求めて初めて現れるものだから、後生も弥陀の本願も問題にならない信仰のレベルでは、チンプンカンプン分かるものではないのである。
ちょうど、ヨチヨチ歩きの女の子には、産前はこうだ、産後はああだと言っても、チンプンカンプンと同じこと。
後生が苦になり驚いて、弥陀の救いを求める心(自力の心)が起きるまで、信仰が進んでもいないのに、「雑行」を捨てよも、拾うもあったものではない。チンプンカンプン、そらごとたわごとでしかないのだ。
だから「雑行」は、弥陀の救いに諸善を勧める、十九願よりしか現れようがないのである。
その「雑行」が分からぬのは、十九の願の門戸にも立っていない証しであろう。
この弥陀・釈迦の「方便の善」が分からねば、「雑行を捨てよ」を「諸善を捨てよ」「諸善は必要ない」と、誤解するのも無理からぬことといえよう。
七高僧が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」ではなく、何とかすれば、何とか助かると思って、諸善万行をやっている「自力の心」のことである。
弥陀に帰命する一念に「雑行・雑修・自力の心」が廃るとは、決して諸善万行や称名念仏をしなくなるということではない。
廃るのは、あくまでも「自力の心」なのである。
それは、親鸞聖人や蓮如上人の、弥陀に救われてからの言動を見れば明らかだろう。
日野左衛門の門前で、石を枕に雪を褥の聖人のご苦労や、身命を賭しての弁円済度など、諸善や念仏は量り知れない。
だか、それらを決して、雑行とも雑修をも言わないのは、「自力の心」の浄尽した仏恩報謝の行だからである。
「雑行を捨てよ」とは断じて「善をするな」「諸善を捨てよ」ということではないことは明白であろう。
Ⅰ 言霊の幸ふ国
─論理と集合ことはじめ─
コドダマノサキハウクニ
むかしから、未開な社会では、言葉には人智の及ばない不思議な力が宿っていると信じられてきました。これを言霊 信仰というのですが、ご多分にもれず古代の日本人も、言霊に対する信仰は厚く、ひとたび言葉で表現すると、それは言霊の力によって現実になると信じられていたようです。万葉集でも「そらみつ大和 の国は言霊の幸 ふ国と語りつぎ言いつがひけり」と言霊に敬意をはらっているくらいです。
言葉に表すと即、実現するというのはちょっと信じ難いし、もしそれがほんとうなら、「私は億万長者だ」と下品なことを叫びたい心境です。しかし、言葉即現実でないにしても、少なくとも言葉がなければ'概念'も存在しないようには思われます。たとえば'美'という言葉が存在しないと思ってみてください。私たちは豊かな自然の風景を眺めると感動するし、すぐれた工芸品や生け花に接しても感動を覚えますが、さて、これらの感動を呼び起こしたものはなんでしょうか。
それはきっと'美'というものなのでしょうが、なにしろ'美'という言葉がないのですから統一された美の概念も存在できないように思えます。多くの人に共通の概念が発生し、それが美という言葉を生んだとも考えられないことはありませんが、少なくとも美という言葉が誕生しないことには概念が万人のものとして認知されないことも、また事実でしょう。まさに、はじめに言葉ありき、なのです。
言葉はこれほど重大なのですから、間違いなく、きちんと使われなければなりません。言葉が異なれば意味する概念も現象も明らかに異なるからです。それにもかかわらず、現実にはずいぶん無造作に使われるために意味があいまいであることが少なくありません。近年よく指摘される「言葉の乱れ」について言っているのではありません。古来、名言といわれているものの中にも意味の不確かなものが少なくないのです。たとえば……。
~(中略)~
せっかく、言霊の幸ふ国に生を受けた私たちとしては、言葉の使われ方がこのようなていたらくでは、危なっかしくて夜もおちおち眠れない心境です。(大村平著『論理と集合のはなし』日科技連 1981年 p1~2)
'論理'という日常用語があります。彼の思考は論理的だとか、彼の議論は論理が通っている、というように使われることからもわかるように、思考の筋道を意味するのでしょう。そして、論理的であるためには、「議員の半数はバカ」の否定が「議員の半数はバカではない」ではく、「議員の全員がバカではない」か「議員の全員がバカ」であることや、「巧言or令色」と「巧言and令色」とが異なることなどが、きちんと理解されていなければなりません。そこで、正しい思考の形式や法則を体系づけた学問が必要になります。これを論理学といいます。ときには、学を省略して論理ということもあり、この本の'論理'はこの意味です。(同p6~7)
「論理的に正しい」とは、ラフな言い方をすると、形式が正しいことを意味します。
より正確にいえば、発言の論理的正しさは、内容ではなく形式にかかわるのです。(p40)
…論理的な正しさは、それでもなお非常に重要なのです。
真実をいくつ積み重ねても、組み立て方が正しくなければ、得られる結論は真であるとはかぎりません。(p44)
☆対偶
論理的な発言をするためには、論理学に関する知識はほとんど何も知らなくても大丈夫ですが、おそらく誰もが知っている3段論法以外には、高1の数学で学ぶ対偶(contrapositive)に関する知識はぜひともあったほうがいいでしょう。[なお、本書ではベン(Venn)図は扱いませんが、推論をする際、ベン図を使う練習をしておくと役に立つこともあります(少なくとも頭のトレーニングにはなります)。ベン図の使い方については拙著『挑戦!論理パズル』を参照してください。]
命題「AならばB」に対し「BでないならAではない」を対偶と呼びます。
命題とその対偶は、論理的に同値です。したがって、命題が真ならその対偶も真で、命題が偽ならその対偶も偽です。いくつかの命題とその対偶を示しましょう。(同著p46~)
主張の言いかえ
はじめは当たり前だと思っていた話が、途中からだんだんおかしくなる、というのは決して珍しい話ではない。へんだな、と思いながらも、理クツにヨワい男性や、すなおな女性が、まんまと術中に陥ったりする。
「術」のひとつは、「犯しやすい推論上の誤り」を逆用することである。誰もが犯しやすい誤りなら、わざと犯したところで、見破られる可能性は小さいであろう。幸か不幸か、推論上の誤りは、アリストテレスの時代から分類・整理されているから、しばらくその分類にしたがって、詭弁術に使えそうな「術」をひろってみることにしよう。
正しい言いかえ
ひとつの同じ主張(論理学の言葉では、命題)でも、いろいろと言いかえることができる。たとえば、
AはBである。
という主張は、
BではないものはAではない。
と言いかえられる。
猿は尻が赤い。
を言いかえれば、
尻が赤くないものは猿ではない。
という要領である。もちろん前者(言いかえるまえ)が正しければ後者(言いかえたあと)も正しく、一方が誤りなら他方も誤りである。同じように、
CはBではない。(例、夫は女ではない)
を言いかえれば、
BはCではない。(例、女は夫ではない)
となる。ここまでは正しい。
逆は必ずしも真ならず
主張「AはBである」に対して、
「BではないものはAではない」は、もとの主張の対偶と呼ばれる。また「BはAである」を(もとの主張の)逆、「AでないものはBではない」を裏という。次に、ひとつの主張
AはBである。
と、その逆の主張
BはAである。
の真偽を考えてみよう。たとえば、
1たす1は2である。
の逆は、
2は1たす1である。
となるが、これはどちらも正しい。しかし、
猿は尻が赤い。
からと言って、
尻が赤いものは猿である。
とはいえない(赤エンピツ、まっ赤なスポーツ・カーなど、つまらない例がいくつもある)。このことをさして「逆は必ずしも真ならず」という。昔から有名な例は、
英雄は色を好む。
である。これが正しいとしても、
色を好むものは英雄である。
とはいえそうもない。浮気がバレた亭主が、「ナニこれはおれが英雄であることの証明なのだ」などとがんばっても、それは詭弁にすぎないのである。
(野崎昭弘著『詭弁論理学』中公新書1976年初版 p79~82)
一つの命題
「(すべての)Aは(必ず)Bである」に対して、
「BでないものはAでない」を対偶、
「BはAである」を逆、
「AでないものはBではない」を裏
・命題が真なら「対偶」も真
(ある命題は対偶の形でなら言い替えられる)
・命題が真であっても「逆」は真であるとは限らない
(逆の形では言い替えられない)
あなた(Y)はZ氏と時間的・空間的に距離を置いて──たとえば紙上で──論戦をしているとします。Z氏があなたの発言に対して次にように述べました。
「Y氏は事実を歪めている。私の考えを誤解し、自分に都合のいい事実しか述べていない」
今、あなたは新聞記者のインタビューを受けています。ここであなたが、
「Z氏の意見は根拠のないたわごとだ」
と述べるのは、論理的な発言という観点からは 理想にはほど遠い発言であることがわかりますか?
あなたならZ氏にどう発言しますか?
【クリティカル・シンキング(批判的思考)とは】
クリティカル・シンキングとは、
あらゆる情報に対して批判的な思考を働かせ、
分析する習慣のことを指します。
これが、逆に、
あらゆる情報を無批判に受け入れるならば、
クリティカル・シンキングが欠如している状態であるといえます。
クリティカル・シンキングとは、
人の出した結論を「ただ否定する」だけのことをいうのではありません。
その意見の根拠に対して、
「本当にそうなのだろうか?」と疑問を投げかけ、
最終的に自分の頭で判断する習慣のことをいいます。
『中学生からの論理的な議論の仕方』より抜粋
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