「ウソではありません」というウソ

2014年11月06日00:00

嘘をつくことにあまり罪悪感のない人がいます。
嘘をついていることに自覚がない人もいます。
嘘つき!と批判されれば、
「いやあれは嘘ではなくて、間違えただけだ。
人間だったら誰でも間違いはあるものだ。
そういうお前は間違えないのか?」と逆切れしてみせる人もいます。

「天地神明に誓って」
「ウソだったら腹を切る」
自信のない人ほど大げさなことを言います。
信じさせたいから。

「嘘だったら腹を切る」という言葉自体がウソ
なのですから、
こういうことを言う人がお詫びすることなどありません。
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言葉の意味を変えるから、それによって構成した教えは全く別のものになる

2012年03月21日23:12

以前に「言葉の定義」について触れました。
言葉で伝えるということは、「言葉の意味を共有している」ということが大前提です。

英語を知らない人に英語で話しても伝わらないのは、
一方しかその意味を理解していないからです。

しかし、言葉の意味には範囲があります。
同じ言葉・単語でも、
場面や場所に応じてその指し示す範囲は異なったり変わったりするものです。
それを、話す方は前後の言葉や文脈で補うことによって
より相手に自分が伝えたいところの意味を伝えようとし、
また聞く方もそうしてより相手と同じ意味で理解しようとする
そしてお互いが理解の一致に至るように努力する、

つまりは、
聞いた方が「相手の言っているのはこういう意味なのだな」と理解したものが、
話し手の「私が伝えたいと思っている内容」と一致できている
このような状態なら分かり合えているのです。
言葉や説明を尽くしてより一致するように努力するのです。
そうしてお互いに同じものを理解できていることを、「共有」というのです。

ところが、
「言葉は、場面や場所に応じてその指し示す意味は異なったり変わったりする」
と述べたように、言葉には「曖昧さ」というものが必ず存在します。

親鸞会はそこを利用するのです。

簡単な遊びの例を挙げましょう。
「アルファベットの最後の文字は何でしょう?」
英語でも有名ななぞなぞですが、ここでは日本語で。
何と答えるでしょうか。「Z」ですね。普通はそうだと思います。
しかしなぞなぞでははずれです。「ト」です。

おわかりだと思います。
「アルファベット」という単語の指す意味は二種類に捉えることができるのです。
一つは、「AからZの26種類の文字を伝統的な順番に並べたもの全体を示すもの」
もう一つは文字どおりの「アルファベットという一つの単語」です。
前後に説明もなく、アルファベットと言われれば普通は前者のように捉えるのが一般的だから、なぞなぞとして成立するのです。

本題に入ります。
親鸞会の教義は、それはそれで成り立っています。
内部では矛盾のない完璧なものとして、
これこそが本当の浄土真宗なのだと主張もし、自信ももっています。

のめり込んで深みに嵌まってしまっていた人も、嵌まりそうになるところだった人も、
何らかのきっかけで、膨らむ矛盾や疑問に堪えられなくなり、
幸運にもその誤りと嘘に気付いた人はたいてい、
どこがどうおかしくて間違っていたのか教義面でも整理を試みようとします。

すると、おかしなところだらけだということが露わになっていきます。
端から見たら、どうしてこんなものを信じるのかと言われても仕方のない
酷い程度だと知らされて、
少なからずのショックと憤慨の感情を抱くことになります。

しかし、どうしてこんなものを信じるのか、
こんなものを信じるのは余程愚かか特殊な人間だというのは、
何も知らない人の言うことです。
その巧みさだけでなく周りに存在する様々な影響力の行使も相まって、
してやられてしまうのです。
これは誰しも陥る可能性のある話なのです。

親鸞会の教義とは一体何だったのかと考える時、
一つには、「浄土真宗の言葉(単語)を使った、全く別の教え」
であったということがあります。

「全く別の教え」というのは、根本的なところでという意味で、
結局は浄土真宗とは別のものを目指している教え、
つまり親鸞会の好きな「目的」という言葉を使って言えば、
親鸞会の示す目的(救い)は浄土真宗の目的(救い)とは違ったものになってしまい、
結局浄土真宗ではない、という意味での「全く別」という意味です。
親鸞会の救いと浄土真宗の救いは全く違うものであるということで、
こうなると教えの本質は「救い」なのですから、
別の教えということになってしまうのです。

親鸞会が浄土真宗で使われる言葉や話を使っている以上、
浄土真宗の教えと当然重なる部分や共通する部分もあるのです。
ただ、結論として親鸞会の会員の大多数が理解すべき理想の形
「善に励んで宿善を厚くしたら信仰が進む。信仰が進まなかったら救われない。
だからそこ(救いの決勝点)に向かって善に励まねばならない。」
という教えは、浄土真宗ではないのです。

誰でもこの親鸞会的結論にすぐに至る訳ではありません。
親鸞会の教えでいけば会員獲得が最大の宿善になるのですから、
それを信じた熱心な先輩会員達によって、
内部で経験により培われた育成法により、
情熱的かつ継続的に徐々に信じ込まされていくのです。

ですから、先にも述べたように、
会(員)の中では教えは完成しているのです。
疑問にも想定された答えはいくつも用意されていて、
自他の疑問にはたいていすべて対処できてしまいます。
(実際はできていないのですが、できているように錯覚させられてしまう
それが詭弁による誤魔化しです)

そんな風にして中にいるときは教えは完璧なものに思えたのですが、
実は親鸞会の教義というものは、
【「浄土真宗あるいは宗教的に使われる用語」の意味を都合よく独自に変えて使って語られたもの】
ですから、それによって構成された教義は全く別のものになっていたのです。
「」の部分を「他人の文章」に変えても当てはまります。

浄土真宗と言っても、言葉の意味が違うのです。
雑行、善(善人)、宿善、信心決定、帰命、悪人、等々、
本来親鸞聖人が説かれた意味とは異なるのです。
親鸞会でのお聖教の読み方はどのようなものでしょうか。
前後を無視して切り取ってしまえば、いくらでも意味を変えてしまうことはできます。
まさによく指摘される「断章取義」です。

また、本来浄土真宗では使われないような独自の言葉というものも多くあります。
(カルトグループの特徴でもあります。)
求道、信仰、人生の目的、絶対の幸福、相対の幸福、
決勝点、必堕無間、光に向かう、親鸞学徒、真実の自己、法謗罪等々。

こう言った独自の用語を繰り返し繰り返し使って、
独自の教理に染めていきます。
聞く方もいつしか条件反射のようになっていきます。
人生の目的と言われればすべてに優先するという意味、
後生、地獄の苦しみに比べればと言われれば
どんなことにも耐えなければならないという意味、
法謗罪と言われれば恐ろしいから黙らなければならないというように──。

結局、独自の意味に改変された真宗用語と、
独自の教団用語で組み立てられた教義は、
教団独自の教理になるのは当然の成り行きです。
もはや真宗の土俵の上で説明をしようにも、言葉が通じないのです。
言葉が通じないことには誤りを理解することもできません。
親鸞会のように一方の情報ばかりを与えられ(選び)、
偏った考えに染められてしまうということは、
非常に危険なことなのです。


ここで、一つ問題です。
親鸞会で、「信仰には卒業がある」とよく聞かされました。
親鸞会及びその関係者による布教サイトでも「平生業成」の説明として、
「信仰には完成がある、仏教には卒業がある」
と書いています。
(例)http://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/kansei-sotsugyou-shinjin01.htm(親鸞会)
   http://sinshu.blog.shinobi.jp/Entry/624/(親鸞会広宣部)
   http://shinshublog.seesaa.net/article/80437759.html(会員)


親鸞会のサイトでは「卒業、完成のある『信心』」となっていますが、
他のサイトにあるように法話では「信仰に卒業がある」という言い方をして強調しています。
私も何度も聞きました。

さてこの「信仰には卒業(完成)がある」という言い方ですが、
正しいのでしょうか?
正しくないとすればどこがどのように、
またこのような言い方をすることで生じる効果は何だったのでしょうか。
考えてみてください。
次回述べたいと思います。

根拠と結論の関係~結論先にありきが生み出す矛盾~

2011年07月20日23:25

●論理の原則9【根拠をたどって結論を導く】

主張の書き方はわかったけど、
主張の中身そのものを考え出すにはどうしたら良いのか?
『論理の原則6』で説明したように、
因果関係の順序を追って考えましょう。
理由→根拠→結論の順序で考えれば良いのです。

(ここまでの【主張A】を使った説明では結論をはじめに書きましたが、
これはあくまでも話を分かりやすくするためでした。)

【主張A】の場合ならば

近頃犯罪率が増加している、なにか良い策はないだろうか? →色々と調べた結果、神奈川県では警察官を増員したら犯罪率が低下したという事実がある。→早速、我々も警察官の増員を検討しよう。


このような順序で考えます。

これが結論→理由→根拠の順序で考えるタイプの人だと・・・

警察官を増員しなければならない。だがいきなりそんなことを言っても誰も納得しないからな、何か正当な理由をくっつけないといけない。そうだ、たしか近頃犯罪率が増加していたな、理由(建前)はそれでいいや。それに、警察官を増員すれば犯罪率が低下するという仮説もくっつけて根拠にしよう。勿論そんなデータは無いから資料は出さないことにしよう。


こんなふうになります。

こうして後付けされた理由や根拠はいい加減なものであったり、
ひどいときには捏造される事もあるのです。

こうしたタイプの人は普通主張する内容とは別の目的を持っています。

例えば、この人は警察の役人で組織を大きくしたいがために
主張しているだけかもしれません。
こうした人は、
本当の理由や根拠を書くと誰も納得しない事が分かっているので、
本音とは別のもっともらしい理由や根拠を後付けするのです。

このタイプの人は、
議論されている議題について
利害関係色の濃い人である事が多いのですが、
そのことは第四章と第五章で詳しく書きます。

ちなみに、仮説は事実に比べると弱い根拠ですが、
それが仮説であると前置きをしたり、
語尾を推測系(~でしょう、~の可能性がある等)にして述べれば
なんら問題はありません。
「中学生からの論理的な議論の仕方」第一章 論理的な主張の仕方


前々回の続きです。

『顕真』6月号の「疑難と答え3」です。
一言で言えば、むちゃくちゃで不思議な文章です。
前回ご紹介した
『正論なのに説得力のない人 ムチャクチャでも絶対に議論に勝つ人』
では、第2章に「単なる論理間違いとムチャクチャな論理」が
書かれてあるのですが、その論理間違いにすら該当しません。
詳しく知りたい方はこの本を読んでみてください。
しかし、今回はそうした本の内容も
詭弁についても仏教も何も知らなくてもわかる、
論説自体の自己矛盾です。

それ程、この「疑難と答え3」は、
意味不明と言ったほうが近い内容です。
なにせ、延々と述べてきた自分たちの主張を否定して
根拠としているのですから、訳がわかりません。
例えば、

Aである。
なぜならば、Bだからである。(それで、Bの話を延々とする)
(その後で突如、Bではなく)Cなのである。(CはBを否定する内容。Cには根拠もない)
Cなのだから、Aなのである。


こんな文章があったらどうでしょうか?
意味がわかりませんね。
何一つ根拠として結論を支えているものがありません。
強弁というより、支離滅裂なのです。

Aであることの理由として、
Bであるからとその話を延々と述べておいて、
Bを否定するCの話を根拠もなく突如出してきて、
根拠のないままCであると断言し、
最後は、Cであることを理由に、Aであると結論づけているのです。

これが、実際の親鸞会の話です。
信じがたいのですが、下に全文を記載しますので、
読んでみてください。 注1)
論点の「善の勧めはあるのか」いう点に関して
この主張を要約をすれば以下のようになります。
(それ以外の枝葉末節についても間違いだらけですが
それは後回しにします。ここでは最も大きな
これだけで間違いとわかる全体としての矛盾について取り上げます。)

①十九願は、悪人に善を勧められたものである。(…A)

②なぜなら、それは観経を見ればわかる。
釈尊は、悪人の韋提希に「善のできないことを知らせる為に善を勧められた」からである。(…B)

③後生に驚き苦になって弥陀の救いを求めて初めて、「雑行」や「自力の心」は現れるのである。(…C)

④だから、十九願の善の勧めによってしか「雑行」は現れないのであるから、善の勧めは必要なのである。(…Cを根拠とした結論)


②の話は、観経のアニメを通して親鸞会が一貫してずっと主張してきたことです。
「自惚れて善ができると思っている韋提希に
善のできないことを知らせる為に善を勧められた」と高森会長は説いてきました。
親鸞会のアニメの物語もそのように描かれていますし、
この論説でもこの物語を2ページ余りにわたって述べているのです。

ところが、です。
そんな論述が終わって、すぐに、その物語を否定する話を始めるのです。
③の部分です。親鸞会の文章では

⑴「雑行」や「自力の心」と言われるものは、後生が問題になり、弥陀の救いを求めて初めて現れるものだ。
⑵だから、「雑行」は、弥陀の救いに諸善を勧める、十九願よりしか現れようがないのである。(←この論説の結論部分)


です。

上の論理の「だから、である」と言えるためには、
「隠れた前提」がなければならないことにお気づきでしょう。つまり、

※「善の勧めによって、後生が問題となり、弥陀の救いを求める心(自力の心)が起き、「雑行」が現れるのだ」

という前提です。
これがなければ、⑴から⑵は導けません。
これが正しいという前提があってはじめて、「⑴だから⑵である」と言えるのです。
つまり、この論説は、結論としてこのを理由に、
善の勧めが必要だと述べているのです。

しかし、思い出してください。
このすぐ前の部分に、長々と論じたアニメの韋提希の物語は
何だったのか。

善の勧めによって、韋提希は初めて後生が問題になったのですか?
→違います。
順序が逆です。
実際の『観経』でも、
韋提希は、自分の過去を見つめて苦を厭い、
お釈迦様に苦しみ悩みを訴えますが、
心が未来に向いて浄土を欣う心になったところで、
お釈迦さまは説法を始めるのです。
親鸞会のアニメでもそのように描かれているはずです。

つまり、と矛盾するのです。
「後生が苦になって問題になっている(実際には浄土往生を願う)のは、
定善・散善の説法の前だからです。

逆にが正しいとするなら、
この論説の中で延々と述べられている
②のアニメに基づいた『観経』の話は意味がありません。
②は「善の勧めによって、できないことを知らされた」という話であって、
この話の中でも「後生が問題になっているのは、善の勧めの前」だからです。

この陳腐な矛盾がわかるでしょうか。
他の詳しい話を知らなくても、
この短い論説を一読するだけでわかるおかしさです。

これに気付かないとすれば、会員は読んでいないのです。
読んでいるとしても親鸞会の教義の構成と同じく、
読んだり聞いたりするのも断章的に読む癖がついてしまっているのです。
だから、自分が知っていたり信じていたりする文章があれば、
もうそれで、「そうだ、そうだ、だから正しいのだ」
あるいは、何か知っている文言が書いてあればそれだけで、
「正しいことが書いてあるのだろう」
と安心して満足してしまうのです。
この文章に対してもそういうものなのでしょう。

それと、②の話と違うの話を出してもおかしいと思えないのは、
それはの中の
★「後生が苦になり驚いて問題になって初めて、雑行や自力の心が問題になる」
という、親鸞会独自の教義が、
(これは会長の「体験談」の「教学化」によるものですが)
会員内に浸透しているからです。

これ自体を信じているから、
直前に②でされている話も忘れてしまって、
韋提希は善の勧め(実際は定善・散善の説法)の前に、
往生を願っているのですから矛盾することがわかりそうなものなのに、
この独自の★の教義の前に「善の勧めによって」をくっつけて
「善の勧めによって、後生が苦になり問題となって初めて雑行は現れるのだから」
(「善の勧めによって」+★=
と自分が書いた『観経』の韋提希の物語までもを否定しているのです。

前にこのサイトで述べた、
「隠れた前提があって、しかもそれが自分の信じている内容であると気付きにくい」
というのはこのことです。

わかりますでしょうか。
今は、親鸞会の論理の矛盾を述べています。

つまり、この論説全体での親鸞会の理屈はこうです。
・善の勧めは必要だ。
・韋提希は善の勧めによって、善のできないことを知らされた。だから善の勧めは必要だ。
・善の勧めによって、初めて後生が問題になる。それで雑行や自力の心は現れる。だから善の勧めは必要だ。
2番目と3番目は矛盾していて、しかもどちらも間違いです。 注2)

要するに、親鸞会にとって理由は何でもいいのです。
仏法や浄土真宗に見せかけて会員を騙せそうなものならば。
はじめに「善の勧めはある」という親鸞会(高森会長)にとって
都合がよく必要な結論があって、
それに対してあちこちから根拠になれそうなものを
後付けでその都度引っ張ってくるのです。
ですから、根拠はころころ変わりますし、
前に出した根拠と違っていたり矛盾していたりしても平気です。

カルト化教団に共通する性質ややり方をここにも見ることができます。
最初に教祖の思いつきの結論があり、
その理由は後から付けて正当化を図るのです。
理由も思いつきですからその都度コロコロ変わったり矛盾したりします。
それを、なんだかよくわからないけど間違いはないのだと
「深い御心」なのだと都合よく解釈して誤魔化してまた正当化するのが
信者(私)のほうの分担だったのです。(続きます)


注1)
親鸞会『顕真』平成23年6月発行 「宿善と聴聞と善のすすめ─弥陀の救いに値うまで─」から
(下線と囲みは私が付けました。)

疑難と答え 3
「雑行を捨てよ」の意味(その2)

(疑難)
「親鸞聖人は、雑行を捨てよと教えられているのだから、諸善をする必要はない。善を勧めるのは間違いだ」

(答え)
「雑行」とは、「弥陀の救いを求めてする諸善万行」「自力の心で行う諸善」と前述した。
 では、我々に弥陀の救いを求める心(自力の心)がどうして起きるのか。弥陀はどのように救いたもうのか。
 その経緯を詳述されているのが、弥陀の十九願の意を解説された、釈迦の『観無量寿経』である。

 そこには、十方衆生の代表として、王舎城の悲劇のヒロイン、韋提希夫人を登場させ、ドラマチックに説かれている。
 吾が子欲しさに“とても3年は待てぬ”と夫・ビンバシャラ王を動かして、何の関係もない修行者を問答無用で殺害させ、権力者の冷酷さをムキだしにした韋提希。
 その結果、産んで育てた阿闍世によって牢獄に幽閉され悲泣悶絶、それまで釈迦から聞法してきたはずの因果の道理も反故にして、己の蒔いた種を一切忘れ、相手構わず八つ当たり、韋提希はこの世の地獄を現出する。

「私は何のために生まれてきたのか。こんな苦しい、おぞましい人生、この世から地獄です。来世は二度とこんな地獄は見たくない。どうかお釈迦さま、私を苦しみのない世界へ行かせてください
 こう訴えて、精も根も尽きた韋提希は泣き崩れる。
 釈迦は彼女の切なる希求に応えて、
「汝は、どの浄土へ往きたいか」
と、二百一十億の諸仏の国土を展望させられると、
「私は阿弥陀仏の浄土へ生まれとうございます。
どうすれば安養の浄土へ往けますか。仰せのとおりにいたします」。

 悪しかできぬ韋提希が、ぬけぬけとこう言ってのけるのだ。まさに我が身知らずの地獄必定の実相である。だが韋提希はまだそのことに気がつかない。

 十方衆生に“弥陀の浄土へ生まれたい願心”を起こさせるのが、十九の願を建てられた弥陀の目的である、釈迦出世の本懐だったから、釈迦は初めて会心の笑みをもらされる。

 かくして、「弥陀の浄土へ往きたくは、定善をせよ。弥陀に向かって端座して、この観法をすればよい」と、釈迦は、まず定善十三観を説かれている。
 釈迦の教えに従って、心を静めようとすればするほど“阿闍世のチクショウ”“提婆のガキ奴”の、怒りと憎しみばかりが荒れ狂う。
 これでは、定善どころでないと韋提希夫人は大ショック。

 教えの通りやってみた定善に絶望し、悲鳴をあげる韋提希に、
「心を静められねば、乱れたままで、精一杯、散善をやってみよ」
と釈迦は説かれる。
 散善とは、全ての人を上品上生から下品まで、善悪によって九品(九種類)に分けられて、“どの善ができるかな”と勧められている諸善のことである。

 これもできない、あれもできないと実地にやらせて定善、散善ともに落第。
 心想羸劣、造悪不善の韋提希を知らせ、かかる“助かる縁なき者を救いたもうは、弥陀一仏”と釈迦は教授なさるのだ。

 釈迦は、韋提希夫人に、できっこないことを百も千も知りながら、なぜ、定善、散善を勧められたのか。
 自惚れ強い「自力の心」を捨てさせて、弥陀の救いに値わせるための、浄土方便の善だと、親鸞聖人は明かされている。


「雑行」や「自力の心」と言われるものは、後生が問題になり、弥陀の救いを求めて初めて現れるものだから、後生も弥陀の本願も問題にならない信仰のレベルでは、チンプンカンプン分かるものではないのである。

 ちょうど、ヨチヨチ歩きの女の子には、産前はこうだ、産後はああだと言っても、チンプンカンプンと同じこと。
 後生が苦になり驚いて、弥陀の救いを求める心(自力の心)が起きるまで、信仰が進んでもいないのに、「雑行」を捨てよも、拾うもあったものではない。チンプンカンプン、そらごとたわごとでしかないのだ。

 だから「雑行」は、弥陀の救いに諸善を勧める、十九願よりしか現れようがないのである。


 その「雑行」が分からぬのは、十九の願の門戸にも立っていない証しであろう。
 この弥陀・釈迦の「方便の善」が分からねば、「雑行を捨てよ」を「諸善を捨てよ」「諸善は必要ない」と、誤解するのも無理からぬことといえよう。

 七高僧が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」ではなく、何とかすれば、何とか助かると思って、諸善万行をやっている「自力の心」のことである。

 弥陀に帰命する一念に「雑行・雑修・自力の心」が廃るとは、決して諸善万行や称名念仏をしなくなるということではない。
 廃るのは、あくまでも「自力の心」なのである。

 それは、親鸞聖人や蓮如上人の、弥陀に救われてからの言動を見れば明らかだろう。
 日野左衛門の門前で、石を枕に雪を褥の聖人のご苦労や、身命を賭しての弁円済度など、諸善や念仏は量り知れない。
 だか、それらを決して、雑行とも雑修をも言わないのは、「自力の心」の浄尽した仏恩報謝の行だからである。

 「雑行を捨てよ」とは断じて「善をするな」「諸善を捨てよ」ということではないことは明白であろう。



注2)
飛雲「韋提希が定善を試みたと説く聖教はない」
飛雲「『大無量寿経』『観無量寿経』も読んだこともなくて、善知識を演じられますか」

言霊の幸ふ国~言葉と思考と論理学~

2011年05月22日23:20

Ⅰ 言霊の幸ふ国 
─論理と集合ことはじめ─

  コドダマノサキハウクニ

 むかしから、未開な社会では、言葉には人智の及ばない不思議な力が宿っていると信じられてきました。これを言霊ことだま信仰というのですが、ご多分にもれず古代の日本人も、言霊に対する信仰は厚く、ひとたび言葉で表現すると、それは言霊の力によって現実になると信じられていたようです。万葉集でも「そらみつ大和やまとの国は言霊のさきはふ国と語りつぎ言いつがひけり」と言霊に敬意をはらっているくらいです。

 言葉に表すと即、実現するというのはちょっと信じ難いし、もしそれがほんとうなら、「私は億万長者だ」と下品なことを叫びたい心境です。しかし、言葉即現実でないにしても、少なくとも言葉がなければ'概念'も存在しないようには思われます。たとえば'美'という言葉が存在しないと思ってみてください。私たちは豊かな自然の風景を眺めると感動するし、すぐれた工芸品や生け花に接しても感動を覚えますが、さて、これらの感動を呼び起こしたものはなんでしょうか。

 それはきっと'美'というものなのでしょうが、なにしろ'美'という言葉がないのですから統一された美の概念も存在できないように思えます。多くの人に共通の概念が発生し、それが美という言葉を生んだとも考えられないことはありませんが、少なくとも美という言葉が誕生しないことには概念が万人のものとして認知されないことも、また事実でしょう。まさに、はじめに言葉ありき、なのです。

 言葉はこれほど重大なのですから、間違いなく、きちんと使われなければなりません。言葉が異なれば意味する概念も現象も明らかに異なるからです。それにもかかわらず、現実にはずいぶん無造作に使われるために意味があいまいであることが少なくありません。近年よく指摘される「言葉の乱れ」について言っているのではありません。古来、名言といわれているものの中にも意味の不確かなものが少なくないのです。たとえば……。

~(中略)~

 せっかく、言霊の幸ふ国に生を受けた私たちとしては、言葉の使われ方がこのようなていたらくでは、危なっかしくて夜もおちおち眠れない心境です。(大村平著『論理と集合のはなし』日科技連 1981年 p1~2)



この文章は、ある本の冒頭に書かれていたものです。
以前に記事の中で触れた
言葉の定義・曖昧さということにも関連した話なのですが、
これが何の本の最初に書かれてあるのかというと、
国語の本ではないのです。
「論理と集合」について書かれた数学の本なのです。
(著者はこのシリーズで数学の本を何冊か出していますが
アマゾンのレビューを見ても好評のようです。)

話術や論述に関する議論術や詭弁に関する本を見ても、
大抵、形式としての論理即ち
高校の数学で学んだ「集合」や「逆・裏・対偶」といった
論理学ついてかなりの誌面を割いて説明がされています。

つまり、言葉を正しく使うことと、
論理(学)とは切り離せない関係にあるのです。

この著者はこの後に論語の
「巧言令色すくなし仁」という一節は
「巧言and令色には仁が少ない」 注1)のかそれとも
「巧言or令色には仁が少ない」 注2)なのか、
この場合は「巧言or令色には仁が少ない」と言っているのである
という例や、

「議員の半数はバカである」を否定すると
「議員の半数はバカでない」になるのか?
という例を出しています。
(なりませんね。同じことを言っているだけです。)

そして続いて、

 '論理'という日常用語があります。彼の思考は論理的だとか、彼の議論は論理が通っている、というように使われることからもわかるように、思考の筋道を意味するのでしょう。そして、論理的であるためには、「議員の半数はバカ」の否定が「議員の半数はバカではない」ではく、「議員の全員がバカではない」か「議員の全員がバカ」であることや、「巧言or令色」と「巧言and令色」とが異なることなどが、きちんと理解されていなければなりません。そこで、正しい思考の形式や法則を体系づけた学問が必要になります。これを論理学といいます。ときには、学を省略して論理ということもあり、この本の'論理'はこの意味です。(同p6~7) 注3)


と述べ、論理とは思考の筋道を意味すること、
そして正しい思考の形式や法則を体系づけた学問が論理学である
ことを述べています。

小野田博一著『論理的に話す方法』(日本実業出版社1996年)にも

 「論理的に正しい」とは、ラフな言い方をすると、形式が正しいことを意味します。 
 より正確にいえば、発言の論理的正しさは、内容ではなく形式にかかわるのです。(p40) 


 …論理的な正しさは、それでもなお非常に重要なのです。
真実をいくつ積み重ねても、組み立て方が正しくなければ、得られる結論は真であるとはかぎりません。(p44)


とあり、「論理的な正しさ」を正確に判断できるようになることが
詭弁を見破ることには欠かせないことを述べています。 注4)

そしてこのあと、論理的な正しさを正確に判断できるようになるための
トレーニングの第一として、
「対偶」について扱われています。
この「命題」の問題は大抵どの本にも扱われており、
やはり論理的思考の基本であると思います。
二、三挙げてみます。

☆対偶
 論理的な発言をするためには、論理学に関する知識はほとんど何も知らなくても大丈夫ですが、おそらく誰もが知っている3段論法以外には、高1の数学で学ぶ対偶(contrapositive)に関する知識はぜひともあったほうがいいでしょう。[なお、本書ではベン(Venn)図は扱いませんが、推論をする際、ベン図を使う練習をしておくと役に立つこともあります(少なくとも頭のトレーニングにはなります)。ベン図の使い方については拙著『挑戦!論理パズル』を参照してください。]

 命題「AならばB」に対し「BでないならAではない」を対偶と呼びます。
 
 命題とその対偶は、論理的に同値です。したがって、命題が真ならその対偶も真で、命題が偽ならその対偶も偽です。いくつかの命題とその対偶を示しましょう。(同著p46~)



この後に命題とその対偶の例が挙げられているのですが、
若干分かりにくいので、別の本から例を挙げます。
文章にすると難しく感じるかも知れませんが、
至って簡単なことです。

 主張の言いかえ

 はじめは当たり前だと思っていた話が、途中からだんだんおかしくなる、というのは決して珍しい話ではない。へんだな、と思いながらも、理クツにヨワい男性や、すなおな女性が、まんまと術中に陥ったりする。
 「術」のひとつは、「犯しやすい推論上の誤り」を逆用することである。誰もが犯しやすい誤りなら、わざと犯したところで、見破られる可能性は小さいであろう。幸か不幸か、推論上の誤りは、アリストテレスの時代から分類・整理されているから、しばらくその分類にしたがって、詭弁術に使えそうな「術」をひろってみることにしよう。

 正しい言いかえ

 ひとつの同じ主張(論理学の言葉では、命題)でも、いろいろと言いかえることができる。たとえば、
  AはBである。
という主張は、
  BではないものはAではない。
と言いかえられる。
  猿は尻が赤い。
を言いかえれば、
  尻が赤くないものは猿ではない。
という要領である。もちろん前者(言いかえるまえ)が正しければ後者(言いかえたあと)も正しく、一方が誤りなら他方も誤りである。同じように、
  CはBではない。(例、夫は女ではない)
を言いかえれば、
  BはCではない。(例、女は夫ではない)
となる。ここまでは正しい。

 逆は必ずしも真ならず

 主張「AはBである」に対して、
「BではないものはAではない」は、もとの主張の対偶と呼ばれる。また「BはAである」を(もとの主張の)逆「AでないものはBではない」を裏という。次に、ひとつの主張
  AはBである。
と、その逆の主張
  BはAである。
の真偽を考えてみよう。たとえば、
  1たす1は2である。
の逆は、
  2は1たす1である。
となるが、これはどちらも正しい。しかし、
  猿は尻が赤い。
からと言って、
  尻が赤いものは猿である。
とはいえない(赤エンピツ、まっ赤なスポーツ・カーなど、つまらない例がいくつもある)。このことをさして「逆は必ずしも真ならず」という。昔から有名な例は、
  英雄は色を好む。
である。これが正しいとしても、
  色を好むものは英雄である。
とはいえそうもない。浮気がバレた亭主が、「ナニこれはおれが英雄であることの証明なのだ」などとがんばっても、それは詭弁にすぎないのである。
(野崎昭弘著『詭弁論理学』中公新書1976年初版 p79~82)



まとめると、

一つの命題
「(すべての)Aは(必ず)Bである」に対して、

「BでないものはAでない」を対偶、

「BはAである」を逆、

「AでないものはBではない」を裏



ということです。

このうち大事なことは、

・命題が真なら「対偶」も真
(ある命題は対偶の形でなら言い替えられる)

・命題が真であっても「逆」は真であるとは限らない
(逆の形では言い替えられない)



です。ベン図で示すと、
すべてのAはBである
ということです。

AがBに含まれているとき、つまり
「AならばB」のとき、
「BならばA」とは必ずしも言えません。
(「BであってもAではない」ものがある)

しかしこのとき、同時に必ず
「BでないならばAではない」←対偶
は言えます。

(例)A:私の妻 B:女性…(私の妻は女に含まれている)
「私の妻は女性である」のとき、
×「女性ならば妻である」←必ずしも言えない。
〇「女性でないならば私の妻でない」←言える。

これ一つを理解するだけでも、
親鸞会の詭弁はかなり見抜けるようになるように思います。

前回の、
「雑行を捨てよとは、善を捨てよではない」という親鸞会の主張は
善という言葉の語義の曖昧さを利用した虚偽ですが、
すべての善が雑行ではないけれども、
往生に間に合わせようと思ってする善ならば雑行である」
ということを考えれば、この親鸞会の言い方は
善知識方がなされたせっかくの「雑行」という言葉の定義を
台無しにしてしまう説明だということが分かるでしょう。

(余談)
上で取り上げた小野田博一著『論理的に話す方法』(日本実業出版社1996年)
は、トレーニング形式の本でわかりやすいのでお奨めです。
その本の最初に、『考えて!』と題して、
どれくらい論理的であるか知るためのいわば論理度テストのような
質問がいくつか書かれてあります。

その最初の質問は以下でした。

 あなた(Y)はZ氏と時間的・空間的に距離を置いて──たとえば紙上で──論戦をしているとします。Z氏があなたの発言に対して次にように述べました。
「Y氏は事実を歪めている。私の考えを誤解し、自分に都合のいい事実しか述べていない」
 今、あなたは新聞記者のインタビューを受けています。ここであなたが、
「Z氏の意見は根拠のないたわごとだ」
と述べるのは、論理的な発言という観点からは、、、、、、、、、、、、、理想にはほど遠い発言である
ことがわかりますか?
 あなたならZ氏にどう発言しますか?



注1)
「巧言and令色には仁が少ない」の「and」とは、「且つ」の意味で、「巧言and令色」とは巧言であって令色であるという二つの条件を両方とも満たしているという意味。

注2)
「巧言or令色には仁が少ない」の「or]は、「または、もしくは」という意味で、「巧言or令色」とは、巧言か令色どちらか一方でも当てはまっていればいいということ。

注3)
この後さらに著者は、論理学には「認識論的論理学」と「形式論理学」の2種類があり、ここで取り扱う論理学が「形式論理学」であることを述べている。

注4)
 「論理的な発言をするためには、あなたは「論理的な正しさ」を正確に判断できるようにトレーニングしなければなりません。ただし、論理学の練習問題の難問を解けるところまで到達する必要はありません。論理学を学んだことのない人でも難なく理解できるような超基本問題が正しく解ければいいのです。これはいわば基礎トレーニングなので、「論理的な強い反論をする」とか「詭弁を論破する」など論理的な発言をするためには欠かせないものといえるでしょう。」(同著p44)

信じる時、それが崩れる時。「人」が「人の話」を信じるということ。

2011年04月14日17:21

【クリティカル・シンキング(批判的思考)とは】

クリティカル・シンキングとは、
あらゆる情報に対して批判的な思考を働かせ、
分析する習慣のことを指します。


これが、逆に、
あらゆる情報を無批判に受け入れるならば、
クリティカル・シンキングが欠如している状態であるといえます。


クリティカル・シンキングとは、
人の出した結論を「ただ否定する」だけのことをいうのではありません。

その意見の根拠に対して、
「本当にそうなのだろうか?」と疑問を投げかけ、
最終的に自分の頭で判断する習慣のことをいいます。


『中学生からの論理的な議論の仕方』より抜粋


人の話を何故信じるのでしょうか。

それは「根拠」があるからです。信じる「理由」があったのです。

ただ単に「こうですよ」と言われても人間は信じません
単に「こうですよ」と話しても説得力がありません。

どういうときに信じてもいいと思うのでしょうか。
何故その話を信じるに値すると評価したのか。

それはその話に「根拠」があって、
しかもその話が正しいと判断するのに「正当な根拠だと思った」からです。
「本当だろうか?」「信じてもいいのだろうか?」という疑問に答えるものが
その「根拠の中にある」と私が思ったからなのです。
思わさせられたからなのです。

だから説得力のある話というのは、
「信じるに値する」と「思わせる」だけの「根拠」がある話
なのです。

根拠のない話は、信用に値しない
これは常識です。

人間は元々論理的であろうとする生き物だからです。
それは私がこの世で生きていく上で「騙される」という被害を蒙らない為に
教育や社会生活の中で身につけていく術なのです。

騙されてはならないと思う「私の知恵」が、
人の話に根拠を求めるのです。

だから、親鸞会でもいつも言うはずです。言っているはずです。
「必ず根拠を出しなさい」と。

「根拠があるから正しい」
皆そう思うのです。私もそうでした。

従って「論理的思考」というのは、
「人の話」に「それが正しいと判断するに値する」「根拠」を求める思考(心)である
と言えるでしょう。
その心に答え得る「根拠」が「正しく存在する」と判断したときに信じるのです。
信じてしまうのです。

前の記事で
「論理的であるからこそ、論理的に説得されることを好まない」
という意見を紹介しましたが、
親鸞会の教義を正しいと信じてしまったのには、
「論理的であろうとするからこそ、親鸞会の虚偽の論理(詭弁等)に騙されてしまった」
ということが理由の一つとしてあるのです。(具体的には今後述べていきます。)

逆に言えば、
正しいと信じる理由となった「根拠」に実は虚偽があったなら、
もしくはその根拠を「正しいとする判断」に実は虚偽があったなら、
その真実性は崩れる
のです。

さて、最初に紹介した文章の中で「批判的思考」が勧めれているのは
「論理的思考のために」ということですから、
ここでの「批判的思考」は「論理的思考」と言い換えることができます。

親鸞会では、親鸞会からの情報に限っては
「あらゆる情報を無批判に受け止める」
状態にされていなかったでしょうか。

つまり、
「論理的思考」を奪われるような状態に置かれていたのではないでしょうか。

根拠に対して、
「本当にそうなのだろうか?」と疑問を投げかけ、
最終的に自分の頭で判断する

これは「人の話を聞く」ときには不可欠なことです。

「自分の頭で考える」ことは悪いことなのでしょうか。
第一、自分の頭で考えたら救われないような教えなどがあるのでしょうか。
考えてみてください。
自分で判断するな、自分で考えるなと言われているとしたなら、
誰が何の為に言っているのか。
答えは簡単です。
「考えられては困るから」です。

自分だけが知っているとばかりに
「君たちは何もわかっていないのだ」とか
「君たちにわかる世界ではないのだ」等と言い、
「(君達の)腐った頭で考えてもわからないのだから我に従え」
というようなことを言う人があるとすれば、
その人の頭が腐っているのでしょう。

「私の腐った頭で考えても間違えるから」と言うのなら、
ならばその「私の頭は腐っているがあの人は間違いないと判断して従おうとする」のも
その腐った頭で考えて判断していることではないのでしょうか。
矛盾しています。

宗教、仏教、浄土真宗と言っても、
常に異義や邪義に惑い、惑わされてきたのが私達の歴史です。

浄土真宗を聞いているのなら、聞いていこうとするなら
このことは浄土真宗に照らして正しいのだろうかという
「批判的思考」を忘れてしまったなら、
自分が異義や邪義に陥ってしまっていても気付けません。

また、無批判に受け止めることを強要されるならば
誰の話でもいいということになってしまいます。

浄土真宗の救いというのは
矛盾した世界でもなければ、
矛盾した話を無批判に信じなければならないというものでは
決してないのです。

その教えに矛盾がないことは
リンク先のブログを読めばそれだけでわかるでしょう。

仏法の学問は「学仏大悲心」と言われます。
私の疑問に対しても応え得る深い教えであるからこそ
学べば学ぶほど、学ぶことも要らない深い如来の救いの御心が
知らされるというものなのです。

かつての私がそうでしたが
お聖教を読むこともその意味を知ることも人任せにして
自分の頭で考え自分で真摯に学ぶことを
放棄したりおろそかにしたりするならば、

論理的思考もむしろ邪魔なものとなって
益々誰かの話をただ無批判に受け止めるようになり
いつしか教え(如来の御心)と反対の方向に向っていても
全く気付かない。
他人の話に対して無批判になることだけに限らず、
自分に対して無批判になることによっても然りです。
これは恐れるべきことではないでしょうか。

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