話し手と聞き手の問題・ダミー論証~「信仰が進むから、善をしなさい」② ~

2011年05月13日11:13

一(論理的な書き方).結論は明言し、根拠は余す所なく十分に書く。読み手に“推察させる”余地を残さない。

二(論理的な読み方).書き手が明言していない事柄を想像で補完してはいけない。


(「論理的に考えるメリット」)



上の引用は「論理的な議論の仕方」の序章
「論理的に考えるメリット」からのものです。
全文は以下、論理的な書き方と論理的な読み方について
平易な文章で書かれてあるので読んでみてください。

◇ 「小説」の書き方と、「論じる文」の書き方は異なる。

小説では、作者の意図を明確に表現することをあえて避けて、
暗に含ませるような表現法で、読者に、
登場人物や作者の気持ちを推察させる手法が取られますが、
このような手法は“論じる文章”の書き方としては不適切です。
(”論じる文章”とは、自分の意見を言語化して、
他者を説得するために書く文章のこと)。

しかしながら、私たち日本人は、
学校教育においては文学を中心とした国語教育を受けてきており、
その反面、“論じる文章”の読み書きの仕方に関してはほとんど教育されておりませんでした。

それゆえ、私たちは、“論じる文章”を書こうとするさいに、
つい文学的な手法を転用してしまいがちです。
しかし、“論じる文章”を読み書きするさいに、
文学的な手法を用いると、主に、次の二つのような問題が生じます。

一 (書き手の側の問題).
書き手が、主張の重要な構成要素である「根拠」を十分に書かずに、
読み手の推察力に頼ってしまうことがある。
さらに、自分の意図が正しく伝わらないと、
それを読み手の読解力のせいにすることがある。


このような方法だと、書き手の真の意図を理解できる者は、
もともと書き手に近い意見を持つ、
予備知識と読解力に長けた人物に限られてしまいます。
特に、異なる意見を持つ人に対する説得力は格段に低下します。

二 (読み手の側の問題).
書き手の落ち度により根拠が書き落とされている場合でも、
読み手は、書き手の意図が理解できないのは自分のせいであると誤解してしまう。
そのため、読み手は想像力を働かせて、足りない根拠を埋めようとして、
書き手が意図していないことまで勝手に色々と推察してしまい、その結果、
本来は書き手の意図でないことまで書き手が意図しているものだと決め付けてしまう。
この方法は、論理の世界では「ダミー論証」と呼ばれる詭弁の一種です。
(詭弁とは、誤った論法のこと)。

具体例を見てみましょう。

A氏 「私は子どもが道路で遊ぶのは危険だと思う。」
B氏 「そうは思わない、子どもが外で遊ぶのは良いことだ。
A氏は子どもを一日中家に閉じ込めておけというが、
果たしてそれは正しい子育てなのだろうか。」


ここでA氏は、「子供を一日中家に閉じ込めておくべきだ」とは
言っていません。
もしかしたら、B氏は、学校の国語授業で習った
“相手の気持ちを推察する技術”を応用したのかもしれませんが、
これではダミー論証です。

ここまで説明すれば、
論理的な読み書きの仕方というものがどういうものであるかが
漠然と分かってきたと思います。それは、次の二つです。

一(論理的な書き方).
結論は明言し、根拠は余す所なく十分に書く。読み手に“推察させる”余地を残さない。

二(論理的な読み方).
書き手が明言していない事柄を想像で補完してはいけない。



この文章は「書き手」を「話し手」に、
「読み手」を「聞き手」に言い換えることができるでしょう。
自由な解釈が許される詩や小説ならいざ知らず、
間違って伝わってはならない話や文章ならどうするべきか
またどう聞く(読む)べきか
考えさせられるものがあると思います。

非論理的になってしまったり、詭弁を使ってしまうというのは
故意に限りません。
しかし、文中にあるこの

一 (書き手の側の問題).
書き手が、主張の重要な構成要素である「根拠」を十分に書かずに、
読み手の推察力に頼ってしまうことがある。
さらに、自分の意図が正しく伝わらないと、
それを読み手の読解力のせいにすることがある。


これを故意に利用しようとすれば、

話し手は、主張の重要な構成要素である「根拠」を曖昧にして、
聞き手の推察力に頼ってしまえばいい。

それによって話し手に対して聞き手から疑問や批判があっても
それは、自分の意図が正しく伝わっていないだけだと
読み手の推察(理解・読解)力のせいにすればいい。

「それはあなたの聞き誤りだ」(あなたの理解が足りない)
ということにすればいいのだ。


ということになりませんか。

そして、

二 (読み手の側の問題).
書き手の落ち度により根拠が書き落とされている場合でも、
読み手は、書き手の意図が理解できないのは
自分のせいであると誤解してしまう。


そのため、読み手は想像力を働かせて、
足りない根拠を埋めようとして、
書き手が意図していないことまで勝手に色々と推察してしまい、
その結果、本来は書き手の意図でないことまで
書き手が意図しているものだと決め付けてしまう。


についても

話し手の落ち度により根拠が書き落とされている場合でも、
聞き手は、
書き手の意図が理解できないのは自分のせいであると誤解してしまう。

そのため、読み手は想像力を働かせて、
足りない根拠を埋めようとして、
書き手が言っていないことまで勝手に色々と推察せざるを得ず、
その結果、
本来は話し手が言っていないことを、
実際は相手の言っていることだと理解している。

ということが思い当たります。

曖昧でわからない話というのは気持ちが悪いのです。
本来人間は論理的であろうとするため、足りない部分を
自分のこれまでの経験や理解で想像して埋めようとするのです。
上の文章でいう”推察”です。

「どういうことなんだろう?」
→→→→(推察)→→→→→
「きっと、こういうことだろう」

自分が否定したくない内容のときには、
当然良いように推察は働きます。
思い出します…「深い御心なんだろう」…

話し手と聞き手の問題に戻りますが、一つの例で考えてみましょう。
親鸞会の根本教義とも言える
「善が間にあって助かるのではない。
しかし、善をしなければ信仰が進まない。
信仰が進まなければ助からない。」
という教え。
これも推察力を働かせざるを得ない物言いである
ということがわかるでしょう。

「善をしなければ助からないとは言ってない」
と高森会長は言っています。
しかしこれを聞いた会員は
「信仰が進まなかったら助からないのだから
善をしなければ助からない」と”推察”するのです。
曖昧だったり論理矛盾した言い方によって起こされる
このような理解がいくつもあるのです。

しかしそれを口や文章に出して言ってしまえば「聞き誤りだ」と言われますから、
講師や会員はどうするか。

皆判で押したようにそっくりそのままの曖昧意味不明の
会長の言説を丸暗記や丸写しで繰り返すのです。
それこそ間違いのない唯一の確かなものとして。
それはそうです。そのまま言ってさえいれば教団内では間違いないのですから。
ですからカルト化した宗教の信者は
自分の言葉で語ることができなくなるのです。

さて、以上を踏まえて、
詭弁のダミー論証についてです。

ダミー論証とは、詭弁の一種で、
相手が主張していないことを自分の都合の良いように表現しなおし、
さも主張しているかのように取り上げ論破することで、
相手の主張を論破したかのように見せかける手法です。
別名「わら人形論法」、「架空の論法」、
「ストローマン」とも呼ばれます。

ダミー論証は、
「Aである」とする主張に対して「Bではない」と述べる形式の誤りです。
論理的でない人は無意識にダミー論証を行うことがありますが、
そういう人を見かけたら優しく教えてあげてください。

「反論の禁じ手」)



引用の中で挙げた具体例で言えば、
Aさんの「子どもが道路で遊ぶのは危険だ」とういう主張を、
Bさんは勝手に「子供を一日中家に閉じ込めておくべきだ」という主張に
変えてそれに対して反論しているという誤りです。

相手の主張していない「架空の主張」を相手に見立てて
攻撃していることから、その架空の主張を藁人形に見立てて
藁人形論法と言われるのです。

ストローマン(英語:straw man)は、
議論において対抗する者の意見を正しく引用しなかったり、
歪められた内容に基づいて反論するという誤った論法、
あるいはその歪められた架空の意見そのものを指す。
藁人形論法ともいう。
語源は仕立て上げられた架空の存在を藁人形に見立てたことからである。
Wikipedia:「ストローマン」


これで前回と合わせて
・隠れた前提
・ダミー論証
について紹介しました。

そこで前回の続きです。まず最初の問題

阿弥陀仏に救われるためには
「信仰が進むから、善をしなさい」


の論理構造は以下のようになっています。

(隠れた)前提1:阿弥陀仏に救われるには信仰が進まなければならない。(信仰が進むということがある。)
前提2:善をしたら、信仰が進む。
よって、前提1と2から:救われるためには、信仰が進むから、善をしなさい。←(結論)

隠れているのは前提1です。上の結論は
前提1と2が両方成り立ってはじめて導かれます。
しかしまず前提1が間違いです。
平生業成の浄土真宗にはあてはまりません。 注1)

これだけで結論の根拠は崩れましたが、もっと言えば
前提2にも根拠がなく間違いです 注2)からこの主張には何も根拠がないということです。

よく浄土真宗を聞いてくださいというしかありません。

これも踏まえて、二つ目の問題です。

『信仰が進むから善をしなさい』とどこに勧められているか」と言ってきたら、

「では、『信仰が進むから悪をしなさい』と書かれていますか。
『善をするな、やめよ』とどこにおっしゃっていますか」


と、ズバッと言えばいいでしょう。


親鸞会に対する批判
『信仰が進むから善をしなさい』とどこに勧められているか」
に対する、親鸞会講師の

①「では、『信仰が進むから悪をしなさい』と書かれていますか。」
②「『善をするな、やめよ』とどこにおっしゃっていますか。」

という二つの反論についてです。
まず①の主張には親鸞会の考えによる隠れた前提が二つあります。

隠れた前提1:阿弥陀仏に救われるためには信仰が進まなければならない。
隠れた前提2:何もせずに信仰が進むということはないから何かをしなければならないに決まっている。善の勧めがないというなら悪の勧めだ。

です。
隠れた前提1は一つ目の問題のところで述べたように間違いです。

隠れた前提2は、主張①がダミー論証になっている原因である
親鸞会の誤った考えも同時に示しています。

親鸞会に対する批判は
『信仰が進むから善をしなさい』とどこに勧められているか」です。
これを親鸞会講師は「信仰が進むから悪をしなさい」という主張に
勝手に歪めてこれに対して反論しています。

隠れた前提1も2もまとめて言えば、親鸞会の定義で言っても
・信仰を進めたら救われると思ってする善
・何かをしたら信仰が進んで助かるだろうと思ってするすべての行為(善も悪も)
のことをすべて「雑行」というのですから、
「雑行は捨てよ」から両方とも間違いです。

もう一つここでわかることは、前々回も述べたように、
親鸞会の「善・悪」という言葉の使い方のおかしいことです。
これについては後で述べたいと思います。

以上からわかるように、①の反論は
・隠れた前提があり、その隠れた前提がいずれも間違い。
・ダミー論証であり、反論になっていない
ということです。

次に②「『善をするな、やめよ』とどこにおっしゃっていますか。」
についてですが、
ここで言っている「善」とは何でしょう。

「雑行を捨てよであって、"善"を捨てよではない」
が親鸞会の主張でした。

ではここで言われている「善」(善い事)の定義を考えましょう。
前々回で取り上げた『浄土真宗を学ぶ 雑行雑修自力の心』
にもあるとおり、親鸞会は
「阿弥陀仏に救われようと思ってするすべての"善い"行為が雑行である」
と言っています。

この説明の中の「善い」とは「自分が善いと思っている」もしくは
「世間一般に善いとされている」という意味です。
「親孝行」「親切」「慈善事業」「忍辱」などの諸善万行は皆そうです。

しかし阿弥陀仏に救われようと思ってするこれらの善い行為が何かと言えば
「雑行」になります。ですから、
「往生のためにと思ってする善い行為」=「善」
という意味では、「善」とは行為のことである「雑行」ですから、
「善を捨てよ」が浄土真宗ということになります。

親鸞会は、「善」の意味をその時々で変えて
カモフラージュしようとしているのですが、
噛み砕いて言いますと、

「善」=単なる善いこと
という意味なら、この場合の「善」は雑行ではありませんから、
親鸞会のいうとおり、「雑行を捨てよとは善を捨てよではない」です。
しかしこの場合の「善」とは、倫理や道徳などの世間の話であって、
今は仏教の目的である出世間について、
つまり浄土真宗の往生について(弥陀の救済について)問題にしているのですから、
この「善」の意味なら関係がないのです。

「善」=往生のためになると思ってする善い行為
を指すならこの「善」は雑行に含まれますから、
「雑行を捨てよ」とは即ち「善を捨てよ」です。

当たり前過ぎる、簡単なことを書いています。

即ち「雑行を捨てよ」とは「助かろうと思っての善(の行為)をやめよ」です。
その意味での『善をするな、やめよ』の教えが浄土真宗なのですから
そこらじゅうにおっしゃっています。

飛雲様も記事で書いてくださいました。ありがとうございます。参考にさせていただきます。
「後生のためには「善をするな、やめよ」と仰った善知識方のお言葉」

よって、親鸞会講師の反論は①も②も間違いです。

もし、親鸞会の言葉の使い方で正確に言おうとすれば、
「これによって阿弥陀仏に救われようと思ってするならば、
(自分が)善(と思っているもの)だろうが悪(と思っているもの)だろうが、
すべての行為が雑行」

なのです。

「雑行を捨てよとは、雑行を捨てよ」であって、善という言葉を使いたいなら
「雑行を捨てよとは、雑行になる善は捨てよ」
「善でも雑行なら捨てよ」なのです。

親鸞会はここでもまた
・善の意味、雑行の意味を知らないから、
・善と雑行の関係を知らない。(浄土真宗上の区別がついていない。)
ということです。

(付記)善と雑行について

親鸞会では、「飛雲」様にもあるように
雑行=善い行為+自力の心
と説明されているそうです。

悪いのは「自力の心」だけであり、
雑行という行為を捨てなくていいと思わせるつもりなのでしょうか。

それでは、親鸞会の
『浄土真宗を学ぶ 雑行雑修自力の心』
に従って、雑行の説明にあてはめてみます。

雑行=善い行為+自力の心
   =善い行為+善をあて力にして助かろうとしている心
   =善い行為+阿弥陀仏の御心に反する悪い心 
   =善い行為+阿弥陀仏の御胸にくぎを打ちつけている恐ろしい仏敵の心


となります。
これを見ても疑問に思うのは
「善い」とはどういう意味で言っているのかということです。
定義の仕方がおかしいことがわかります。

繰り返しになりますが、親鸞会の定義では
雑行=すべての行為(獲信と関係づける心でする)
なのです。
ですから「悪をせよ」でも当然なく、
仮に親鸞会のように「善」・「悪」が自分の行為のことを指すなら
これで助かろうと思ってする「善もすてよ」「悪もすてよ」です。

「ならばボサーと何もせんでいいのか」と言う人は
「他力」と「無力」の区別がついていないのです。
何もせんでよかった無駄骨だったと「聞」かせてもらってくださいとしか
言いようがありません。

注1)注2)
「信仰という言葉」
「なぜ救われないのか」について考える(草案の草案の草案)
「看板と中身の違いを知った人から退会するー平生業成の10分説法から」
「死期の迫った人に、何を勧めるのか?」
「八万四千の法門、この捷径にしくなしー 願はくは深く無常を念じて、いたづらに後悔を貽すことなかれ」
「漸教と放言する親鸞会」
「これをみている親鸞会の会員さんは少し考えて見て下さい」
「親鸞会は竪出ですか、 いいえ外道です」
「不可解な言葉に関する考察 その1「善をしなければ 信仰は進みませんよ」
「不可解な言葉に関する考察 その1「善をしなければ 信仰は進みませんよ」②」
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Author:lonli
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