●論理的な思考法1【正しさや善悪は視点(前提)により変化する】
さて、三つの前提の最後の一つに「視点」という概念があります。
誰の視点を前提に置いて考えるかによって、結論の正しさは変わってしまいます。
『論理的な主張の仕方』
前回、「逆は必ずしも真ならず」ということから
関係性の一つの捉え方についてを考えましたが、
当然ながら二つの物ごとの関係性は
「AならばB(AはBに含まれている)」の一通りだけではありません。
AとBの二つの集合の関係で示すと次のようになります。

わかりやすくするために例として数の集合で表してみました。
一つずつ見ていきます。

↑まず①は
AとBに共通の要素がない場合です。
交わりがないという状態です。偶数ならば奇数でないし、
奇数ならば偶数であることはありません。

↑しかし同じ数字でも、Aを2の倍数、Bを3の倍数という
集まりにすると、両方に共通する要素が生まれます。
2の倍数であって3の倍数である、おなじみの”公倍数”が存在します。

↑Aを偶数にして、Bを整数にしたらどうでしょうか。
前回の、包含関係になります。
「AならばBである」のとおり、偶数ならそれは整数です。
しかし整数であっても偶数であるとは限りません。

↑「AならばB」のとき、同時に「BならばA」も言える場合があります。
AとBが互いに必要十分条件であるとき、
AとBは同値で、AがB(BがA)の定義となります。
(前回の例で「私の妻は女である」のとき、
「女ならば私の妻である」とは必ずしも言えませんが、
”必ずしも”であって、言える場合があります。
無人島に住んでいて、女が妻一人しかいないような場合です。
このときは、この島では、
「私の妻は女である」なら、逆の
「女ならば私の妻である」も言えます。
この島に限っては、女⇔妻となっているからです。)
以上、上で示した例で言えば、
・奇数の中には、偶数のものはない。
・2の倍数の中には、3の倍数であるものもある。
・偶数ならば必ず整数だけれども、整数だからといって
偶数とは限らない。
・自然数と、一から始まって一ずつ増えていく数の集合
とは、同じことを指している。
のように、同じ”数”といっても、
その見方(視点)によってこれだけ前提は異なってくるのです。
二つの事柄が関係しているのなら、
・互いに相反するものなのか、
・含まれてはいないが共通項目がある関係なのか、
・どちらかに含まれる関係にあるのか、
・同義なのか。
物事の関係性を知らずに無視する親鸞会は
この点も曖昧なまま利用するのです。
その都度都合のよい立場に立って話をします。
「雑行を捨てよとは善を捨てよではない」も、
雑行と善が同値(同義)ではないことを利用しているのです。
正しい雑行の意味を知れば、
雑行⇔善ではないことは明らかですから、
「雑行を捨てよとは善を捨てよではない」では全く曖昧で説明不足です。
善と雑行を混同させるだけです。
つまり、話をするならどの視点に立って話しているのか
ということです。
論点、立場と言ってもいいでしょう。
視点が変われば正誤も善悪も変わるのですから、
視点・論点がコロコロ変わるような話では議論になりませんし
よくわからないのです。
浄土真宗であるなら、いつでも「(仏教の中の)浄土真宗では」という
立場に立って話をしなければならないのです。
視点が変わればどちらが正しいかも変わるのです。
諺でも、反対の意味のものが多くあります。
いくつか挙げてみると、
・「善は急げ」←→「せいては事を仕損じる」
・「三人寄れば文殊の知恵」←→「船頭多くして船山に上る」
・「渡る世間に鬼はなし」←→「人を見たら泥棒と思え」
・「二度あることは三度ある」←→「柳の下のどじょう」又は「三度目の正直」
・「一石二鳥」←→「二兎を追うものは一兎を得ず」又は「虻蜂取らず」
・「危ない橋を渡る」←→「石橋をたたいて渡る」
等。
それぞれに真理を表しているから諺として使われてきたのであって、
どちらも正しいのです。
親鸞会で善を勧める根拠となっている考え方として、
「できるかできないかは体験してみなければわからない」
というものがあります。
親鸞会でよく聞いた母親が子供に瀬戸物を持たせる譬え話でも、
(『本願寺なぜ答えぬ』P127~130、飛雲様にも取り上げられています)
「合点と体験は大ちがい」と題されているように、
「できないことを体験させる為に諸善を勧める」
と言っています。
しかし、一方で高森会長は、
「体験しなければわからない人間は、
この寒苦鳥のようにおろかなものだよ、畜生にも劣る人間だね。」
とも言っているのです。
この、相反する二つの事
・「体験しなければわからない。」(やってみなければ、わからない)
・「体験しなければわからないようでは愚かである。」(やってみなくても、わかる)
はどちらが正しいのでしょうか?
反対の意味の諺のごとく、どちらも正しいのです。時と場合によるのです。
野球の試合毎日やっていますが、どちらが勝つか、
あるプロ野球選手が打てるかどうかは、「やってみなければわかりません。」
しかし、普通の高校球児がプロ野球で投げて
完投勝利ができるかといえばできません。
プロ選手になっても高卒ですぐ活躍するのは難しいのです。
「やらなくてもわかるでしょう。」
ある人が受験勉強に励んでますが、模擬試験の合否判定は微妙なところです。
こんな人は合格できるかどうかは「やってみなければわかりません。」
しかし、偏差値が65以上必要と言われる難関校に合格するのに、
自分の偏差値が45程度の状態では、大抵は受験しても無理だと思うから
相応の大学を受験するのです。「やらなくてもわかる」のです。
(中には受験して合格する場合もあることは否定しません。)
私が善に励んで、その善で往生できるかは私にとって
「やってみなければわからないこと」なのでしょうか?
浄土真宗は、どちらの立場に立つのでしょうか。
「濁世の道 俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。」(親鸞聖人)
真実の善はできないと言われる言葉を受け入れないのなら、
聖道門を行くということです。
真宗的には進んでいるどころか、逆行です。
仏教には、聖道門と浄土門がありますが、
往生成仏を目指すという点では同じです。
しかし、何によってなされるのか。その点では
自力と他力の全くの違いがあるのです。
浄土門の話のはずなのに、
ある時は聖道門に立って、例えば
「後生の一大事を解決するのは大宇宙を持ち上げるより重いのだ」
と言ってみたり、
善の勧めの根拠として七仏通誡偈を出してみたり。
散々言われていることですが、
親鸞会は、聖道門と浄土門の関係を知らないのです。
今、どこの立場で、上の図なら、
①~④のどの関係にあって、AとBのどこの位置に立って、
何について何に対して話しているのか、話すべきなのか
が前提として定まっていなければなりません。
そこが定まっていないと、議論ならかみ合いませんし、
話ならよくわからない話になります。
視点によって、正誤は変わるからです。
そしてもう一つ注意しなければならないことは、
両方とも正しいこと、同等のことでも日本語の場合は、
後に置かれたものに重点が置かれるということです。
言いたいことは後に置かれ、聞いたほうもそのように受け止めるのです。
先の例を使って言えば、
「『善は急げ』とは言えど、『せいては事を仕損じる』だ。」
と言えば、「せいてはいけない、慎重にやろう」というニュアンスになりますし、
「『せいては事を仕損じる』とは言えど、『善は急げ』だ。」
と言えば、「急いだほうがいい」というニュアンスになります。
同じ言葉の前後の順番を変えただけです。
同様に、「善を捨てよではなく、雑行を捨てよである」とは言わず、
「雑行を捨てよであって、善を捨てよではない」と言うのは、
何か捨てさせたくない意図があるのです。
「善で助かるのではないが、善をしなければ善果が来ない」
も然りです。
注1)「そうだね。ヒマラヤの寒苦鳥は、日が出ていて暖かい時は遊んでばかりいて、寒い夜が来ると寒い寒いと泣き毎日そのくりかえしをしているそうだよ。体験しなければわからない人間は、この寒苦鳥のようにおろかなものだよ、畜生にも劣る人間だね。」顕正新聞昭和48年8月20日発行
注2)親鸞会公式HP『龍樹菩薩と弥陀の本願』
注3)『親鸞会は諸行往生10』
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