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大げさな表現を多用する~「感情が充填された語」~

2011年06月13日10:07

「感情が充填された語」とは、
ネガティブな、あるいは大げさな印象を読み手に与える言葉を使用し、
読み手の受ける感情が書き手にとって都合の良いものになるよう操作する詭弁です。
たんに「充填された語」とも呼ばれます。


論理的に述べることが出来ない人は、
充填された語に頼った主張を頻繁に行います。


◇なぜ充填された語を使うのか?

充填された語を使わずに主張を書くと、
論理の構造が丸見えになってしまいます。
そこで論理的な主張ができない人は充填された語を使い、
論理構造を覆い隠すのです。
そうすれば論理に欠陥があっても、正しいように見せかけることができる
からです。

しかし充填された語は論理的な人の目をごまかすことまではできません。
ゆえに、論理構造が丸見えになっていても、
反対論者からの批判に耐えうる主張を構築しましょう。


(いずれも、「中学生からの論理的な議論の仕方 ●詭弁【ネガティブな言葉の印象に頼る (感情が充填された語)】」より)


親鸞会から離れてみると、
親鸞会の中では独特の言い回しが使われていたことに気付きます。

例えば、
「~~ずにおれません」「~ずにおれない」。

「聞かせていただけることを喜ばずにおれません」
「叫ばずにおれない」
「感謝せずにおれません」等。

会の中では皆で当たり前に使われていて、
知らず知らずのうちに自分もいつも使うようになっていたのですが、
今この言い回しを聞くと親鸞会的だなと思わずに「おれません」。
他ではこの言い方が使われないとまでは言いませんが、
ここまで多用されていないからです。

今、自分が使うとしても、
「~~せずにはいられない」ですね。
世間的にもこちらのほうが一般的だと思います。

他にも、知らず知らずのうちに慣らされていたのか、
今読むと妙な感じのするものが少なくありません。
そして親鸞会の文章や話には、独特の特徴があることに気付きます。

その中の一つが「感情の充填された語」です。
つまり、親鸞会の文章には
「感情の充填された語が多い」ことに気付くのです。

◇「感情の充填された語」の例

「それは悪魔の論理だ」…(背徳的な印象を与える)
「~に破壊的な影響を与える」…(大げさな印象を与える)
「~は~の極みである」…(大げさな印象を与える)
「~という考え方には違和感を覚える」…(大げさな印象を与える)
「~という意見が多いことに驚かされる」…(大げさな印象を与える)
「~は言語道断である」…(大げさな印象を与える)
「信じられないことに~」…(大げさな印象を与える)
「~などとは論外だ」…(大げさな印象を与える)
「国の教育費はわずか4兆円にすぎない」…(少ないような印象を与える)
「国の公共事業費は10兆円にものぼった」…(多いような印象を与える)

◇人々の思い込みを利用した「充填された語」の一覧.

『~は社会主義だ。』…(社会主義は悪い。)
『~の考え方は宗教と同じだ。』…(宗教は悪い。)
『~は贅沢だ。』…(贅沢は悪い。)
『~は伝統を破壊しようとしている。』…(伝統は無条件に正しい。)

◇他にも色々ある大げさな表現.

『~を感じずにはいられない。』…(『感じる』と同じ意味。)
『~せざる得ない。』…(『する』と同じ意味。『~を得ない』系は様々な場面で使われています。)
『~という気がしてならない。』…(『気がする』と同じ意味。)

同サイトより)



一例として、親鸞会公式HP「論説 現代に生きる仏説 自力とは何か」
を見てみます。
人によって感性は異なると思いますが、
「感情の充填された語」と感じるところに色を付けてみました。

 ある新興宗教の者が、こんなことを言っていた。

「うちの先祖は真宗だが、寺では他力だからとあまり掃除もしない。こっちの宗教は、掃除、身の回りや身だしなみをきれいにして、徳を積むことを教えている。だから真宗からこっちに変えた」

 何と情けない話だろう。
 親鸞聖人の教えは他力だからと善の勧めを疎かにし、掃除さえもろくにしない寺が、門徒に愛想を尽かされて新興宗教へと迷っているのだ。

 親鸞聖人のみ教えは「捨自帰他」(自力を捨てて他力に帰せよ)以外にない。
「自力を捨てよ、捨てようとする心も自力だから捨てよ」と徹底して厳しいのは、自力を捨てなければ、阿弥陀仏の本願力(他力)に帰することは絶対不可能だからである。

 現今の浄土真宗は、捨てよと教えられるこの自力を、努力する行為そのものと誤解しているから、
「親鸞聖人に善の勧めはない」
「自力は捨て物ではないか」
「頭燃を灸うが如く努めてみても、雑毒雑修の善ではないか」
「そんな善を勧める必要がどこにある」
「善を勧めるのは大間違いだ」
と、やりたい放題、したい放題、言いたい放題

 外道よりもあさましい生きざまをさらしてきたから、親鸞聖人の教えは悪人製造の宗教だとそしられ、冒頭のような惨状にまで至らしめたのである

 無気力で、消極的、退嬰的な「善を勧めぬ浄土真宗」は、かくて崩落の一途を驀進しているのだが、当人たちは一向にその真因が分からず目が覚めない
 捨てなければ助からぬ自力とは何か、全く分かっていないところにあるのである。 

後生助かろうとする心を捨てよ

 自力とは、「後生助かろうとする心」をいうのだ。
 だから「自力を捨てよ」とは、「善を捨てよ」「善をするな」ということでは絶対なく、「善で後生助かろうとする心」を捨てよ、ということである。

 因果の道理は宇宙の真理。善因善果、悪因悪果、自因自果は、仏さまでも曲げることはできない。
 もし、人間の努力そのものが自力なら、自力が廃って他力に帰すれば、全く努力しない人間になることになる。そんな馬鹿なことが、どうして考えられようか

 親鸞聖人の救われてからの大活躍を見よ
 世界の名著『教行信証』のご執筆は、一切経を何度も読破する努力なくしてありえただろうか
 法友との三大諍論も、弥陀の救いを明らかにするための聖人の決死の精進努力の表れではないか
 信行両座の諍論で、同じく信の座に入った法友で親鸞聖人と比較できる人があるだろうか
  聖人の努力は際立っておられる。

「自力を捨てよ」は「努力するな」「善を捨てよ」ということでは絶対なく、「それで後生助かろうとする心を捨てよ」ということなのである。


内容についての論評は、こちら
21世紀の浄土真宗を考える会ブログ 「顕正新聞を読んで④」
が参考になります。

小野田博一著『論理的に書く方法』日本実業出版社1997年には、
「感情的な文章」について二つの欠点を指摘し、
論理的な文章を書くための注意点が述べられています。(p100~102)

主張や根拠を表現する上での重要点─感情的になるな

「感情的になるな」──これは広い意味をもちます。
「情緒に訴える書き方をするな」とか、
「文学気分に走った書き方をするな」とか、
「熱く語るな」などなど、
いろいろに分けられます。
「感情的になるな」が何を意味するかについて、
これらを細かく見る必要はないでしょう。
ここでは、ただ、次の二点だけ述べておきます。

▷つねにクールに◁

「熱っぽく語ることが説得力を生む」と考えている人がいます。
でも、それは誤解です。
そのような書き方では、もともと同じ考えの者の同意を得るだけで、
異なる考えの者の同意は得られません。

そのことは、次の例を見ればよくわかることでしょう。
~(略)~

 この文章には大きな欠点があります。
それは「大げささ」を目指している点です。
(略)
この書き方では、異なる意見の人々の賛同を決して得られません
──著者の意見に賛成か否かを考える前に、
読み手は拒否感を感じてしまうからです
(私はこの文章で著者が
「男の大学教授は女子学生に誘惑の言動をとってはならない」と
言いたいことはわかりますし、それに賛成でもありますが、
それでもなおかつ、この文章は「ばかなことを書いているだけの文章」
にしか見えません。
感情的な文章は、読み手にそういう反応を起こさせるものなのです。)(略)

この調子の文章を読んだときはたいてい、
読み手は文章に書かれている内容を考える前に、
書き手に対する軽蔑の思いを持つことになるでしょう。
このような文章を書くのは避けるべきなのです
──書いても、書き手にとって損なだけなのです。

※この例の教訓──正しいことを書いても、感情的に書いたら
「ぶち壊し」


▷文学的気分に走った、意味不明の文を書くな。気分で語を選ぶな◁

 日本では学校教育で情緒的に書く訓練が十分なされているので、
日本人は「文学的気分に走った、意味不明の文を書かないこと」には
十分注意が必要です。

 文学的気分に走ると、次のような文章を書くことになります。
これは極端な例ですが、程度の差はあれ、
だいたいは似たようなものになるとも言えるでしょう。

 パリから届くファッション写真は、ゴージャスなドレスを着くずす危うさを演出し、不条理に見える状況設定を行いながら、そこから大人のセクシーな魅力を紡ぎ出すといった手法をとることが多い。


 これはまったく意味不明の文章です。
パリから誰に届くというのでしょう?
着くずす危うさとは何でしょう?
写真が状況設定を行うこともありませんし、
写真がある種の手法をとることもありません。
不条理とは理に合わないばかばかしさのことですから、
ファッション写真(?)の状況設定が不条理というのは、
具体的にはどんなばかばかしい設定のことを指しているのか、
それも明確ではありません。

これは何かを論じた文ではありませんが、
このような書き方では何かを論じられないことは
十分にわかる例であるはずです。



この注意点の一点目には「正しいことを書いてもぶち壊しになる」とありますが、
親鸞会の場合は、記事冒頭に挙げた引用の中にあるように、
”論理的な主張ができない為に充填された語を使い、論理構造を覆い隠している。
そうして論理に欠陥があっても、正しいように見せかけようとする”
ものですから、ぶち壊しになるというよりも、
元々間違っている教義内容を正しく見せかけようとしているだけで、
最初から構築されていないのです。
ですから、親鸞会の「感情の充填された語」の多用に頼る大げさな表現は、
裏を返せば”自信のなさの表れ”なのです。

二点目の「感情的気分に走った、意味不明の文」というのも
親鸞会の文章を彷彿とさせます。

先に紹介した「21世紀の浄土真宗を考える会ブログ」の論評にもあるように、
・文章の最初と最後が適切に繋がっていない
例えば
・「何が」(主語)が抜けて文章をなしていない
・「どうした」(述語)の部分も何のことを指しているのかがわからない
というものが多いのです。

親鸞会の思考(文章)に慣らされてしまっていると、
退会後も文法的にもおかしな文章を書いたり読んだりしていても平気で
抵抗がなくなってしまっていることがありますから注意が必要です。
前述の小野田博一氏の著書にも書かれていますが、
元々日本人というのは情緒的な文章に慣らされて好む傾向もありますから、
論理的な文章や思考というものは苦手なのです。
しかし、教訓を得たならそこから学ぶことができます。
言葉によって人を騙したり騙されたりする過ちを繰り返さないためには
同じ徹は踏まないようにしなければなりません。

要するに、親鸞会の文章は
・感情に訴えているだけであったり
・よく読むと何が言いたいのかわからない
意味不明の文章なのです。

書き手の側から言えば、
・自分の感情や連想にまかせて浮かんだことを、何やら単語や文章を羅列して主張した気分になっている
という文章です。
相手に伝えようという真の誠実さに欠けるのです。

小野田氏は感情のこもった文章そのものまで否定しているようですが、
私はそこまでは思わないにしても、小野田氏がここまで言う意味は理解できます。
なぜそれが問題なのかといえば、他の詭弁にも言えることですが、
「感情の充填された語の多用によって、
論理性・非論理性が覆い隠されてしまう
からなのです。その危険性を危惧するからなのです。
私というものは、理屈より元々の感情のほうを優先しがちですから、
印象に引っ張られて中身が見えなくなる(理屈なんかどうでもよくなる)、
つまり、騙しの危険性を含むということです。

ですから、クールな文でありさえすればいいというものではありません。
クールであれば論理的であるとは限りませんから、
クールであっても非論理的な文章や話などいくらでもありますし
むしろこちらのほうが多いと思います。

要は、「その主張は本当に筋が通っているか」という観点や疑問をもつ
ということが大事なのです。
「言いたいことの中身は、本当に相手に伝わるような論理で構築されているか?」
ということです。

親鸞会の場合は、実際は中身のないものを、感情の充填された語に頼り、
他の詭弁的手法とも合わせてこれによって非論理性を覆い隠し、
「何かこれが正しいのだろう」という【印象】を与えるようなものに過ぎなかった
のです。
親鸞会の論理が、こういった詭弁に頼らざるを得ない虚構の論理であるからです。
”虚偽の理屈を正しいというように印象づける手法”を駆使したものであり、
この手法のことを、”詭弁”というのです。

論理性のないものは、よく読めば「だから何?」と言いたくなるものなのです。
ですから文章を読むときや話を聞く際には相手の主張に対して
「だから何?」と突っ込んで考える習慣をつけることが大事です。

親鸞会ではむしろある時から、
「疑問をもつのは悪」「よくわからないがそういうことなんだ」
とそれ以上考えることを止めてしまうようになったために、
非論理性を覆い隠すための詭弁に騙されてしまったのですから。

そして文章を書く際には「だから何?」というような
意味不明な文章になっていないかどうか考えながら書くことです。
それが論理的文章(思考)を書く(する)ことに繋がっていくでしょう。
努めていきたいと思います。

これらに限らず、親鸞会の文章や話には他にも詭弁的特徴があります。
以後でまた考察したいと思います。

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