わかりやすくする為に、色を付けました。
雑行とか雑修とは、どんなことか
問 真宗では雑行、雑修をふり捨てよと、やかましく言われますが、雑行とか雑修とはどんなことでしょうか。
答 浄土真宗では、雑行雑修自力の心をふり捨てなければ、絶対に阿弥陀仏の救済にあずかることはできないと教えられていますから、その雑行とは何か、雑修とは何かというあなたの質問は極めて大切なお尋ねです。
まず、雑行といいますのは、私たちのやっている善い行為は阿弥陀仏に助けていただくために益にたつだろうと思ったり、益に立てようという心でやっているすべての行為をいいます。─①
二、三例を挙げますと、
「これだけ親孝行をしているから、死んでも悪い所へは行かないだろう」とか、
「これだけ他人に親切にしているのだから地獄へは堕ちんだろう」とか、
「これだけ世の中のために尽くしているのだから、極楽参り間違いなかろう」とか
「これだけ堪忍もしているのだから、死んでも悪い結果は来ないだろう」とか、
思ってやっているすべての善い行為を雑行というのです。─②
上述のものでは「親孝行」や「親切」や「慈善事業」や「忍辱」などが雑行になります。いわゆる、阿弥陀仏と無関係の諸善万行をいうのです。─③
ではなぜ、このような善い行為を浄土真宗では雑行といって嫌うのかといいますと、その行為をしている者の心が阿弥陀仏の御心に反する悪い心だからなのです。─④
「これだけやっているから助かるだろう」とか「これだけしているのだから地獄へは堕ちんだろう」と自分のやっている善をあて力にして助かろうとしている心は、阿弥陀仏の御胸にくぎを打ちつけている恐ろしい仏敵の心ですから、雑行と嫌われ捨てよと教えられているのです。─⑤
だから雑行そのものは決して悪いものではありませんから、大いに努力してやらねば善い果報がきませんが、これで何とか助かるだろう、これで死んでも悪い所へは行かんだろう、これで何とかなるだろう、という自力の心をもってやるから嫌われ、捨てよと言われているのです。─⑥
しかもこのような心は信後(阿弥陀仏に救われたあと)は、すでに大安心、大満足に救われてしまっているのですから、自分のやっている行為について、「これだけしているのだから」とか「これだけやっているのだから助かるだろう」などの心は微塵も出てきません。─⑦
されば、信後は間違っても雑行をするということはないのです。信後、これらの行為はすべて仏恩報謝の行となるのです。─⑧
(略)
(株)チューリップ企画 真宗文化研究所 『浄土真宗を学ぶ 雑行雑修自力の心』 平成14年(2002)
これでお分かりになったと思います。
個々に要約して見てみます。
① 雑行とは、ある心でやっているすべての行為のことをいう。
←「『雑行』とは『行為』のことをいう」と言っています。
② 「~~だろう」と思ってやっている善い行為のことを雑行という。
←ここでも「『善い行為』のことを『雑行』という」と言っています。
③ 阿弥陀仏と無関係の諸善万行のことを雑行という。
←「諸善万行という『行』である『行為のこと』を『雑行』という」
とここでも説明しています。
④ それは「善い行為」であるのに、浄土真宗では嫌われる。それはやっている者の心が悪いからだ。
←ここでも「行為」が嫌われると言っています。
その理由として、それをやっている者の心が悪いからだと言います。
「雑行」という「行為」は「善い行為である」のに嫌われるのは、
「悪い心がけだから」と言います。
「行為」が「嫌われる」のです。
その「嫌われる行為」をしている「悪い心がけ」のことを「自力の心」と言うのです。
ここまでの説明をまとめると、
「雑行」という「行為」は浄土真宗では嫌われるから、「捨てよ」です。
「雑行」とは「行為」のことと言っているのですから、「雑行という行為を捨てよ」のはずです。
ところが、です。
問題は⑤の文章です。これが親鸞会がよく使う手です。よく見てください。
「これだけやっているから助かるだろう」とか「これだけしているのだから地獄へは堕ちんだろう」と自分のやっている善をあて力にして助かろうとしている心は、阿弥陀仏の御胸にくぎを打ちつけている恐ろしい仏敵の心ですから、雑行と嫌われ捨てよと教えられているのです。─⑤
そのまま要約すれば、
「自分のやっている善をあて力にして助かろうとしている心」は、「雑行」と嫌われ捨てよと教えられる。
となります。あれ?「心」が「雑行」であると言っています。
「雑行」とは「行為」のことじゃなかったのですか。
突然「心のことである」と言い出し、「心」の意味にすり替えられています。
「雑行を捨てよ」という話が「だから「自力の心」を捨てよなのだ」という意味に
根拠もなくシフトしているのです。
①~④の説明のとおり、正確に言えば
「自力の心」=「雑行」ではありません。
「雑行」を修している心を「自力の心」というのです。
ですから
「『自力の心を捨てよ』だから『雑行を捨てよ』である」とは言えますし、
「雑行を捨てよ」も「自力の心を捨てよ」も浄土真宗では正しいですが、
だからと言って、「雑行を捨てよ」=「自力の心を捨てよ」ではないのです。
「雑行」とは行のことですし、「自力の心」は心のことです。
「雑行」=「自力の心」ではないからです。
調べましたがこのような
「『雑行』=『自力の心』」という、
乱暴かつ誤解を生じさせるような説明の仕方は親鸞会に特徴的であり、
親鸞会関係者と一部の親鸞会元講師がしています。
要するに、このような説明しかできない人は、
・浄土真宗で言われる「雑行」の意味を知らない。
(「雑行」と「自力の心」の関係を知らない。)
これだけのことです。
⑤を①~④までの文章と矛盾のないように書こうとするならば
「これだけやっているから助かるだろう」とか「これだけしているのだから地獄へは堕ちんだろう」と自分のやっている善をあて力にして助かろうとしている心は、阿弥陀仏の御胸にくぎを打ちつけている恐ろしい仏敵の心ですから、このような心で行なっている善い行為のことを雑行と嫌われ捨てよと教えられているのです。─⑤’
と書かなければなりません。
行為というのは心が名前を決める場合があるのです。
行為の要件である心がけが違えば行為も違ったものになるのです。
行為の前に心があるのに
実際は不可能な心だけを切り離すことができるかのような話になっているから
おかしな話になるのです。
例えば、親鸞会でも「賄賂の話」を聞いたことがあると思います。
菓子箱を差し出した。
ア…「これで便宜を図ってください」という心で渡せば「賄賂」。
イ…「お陰さまでありがとうございました」という心で渡せば「御礼」。
外見上は同じ行為でも心が違えば、
前者は「賄賂という行為」であり、後者は「御礼という行為」なのです。
そのとおりです。行為自体が異なるのです。
この話によって親鸞会の説明のおかしなところがもう一つ見えてきます。
②、④で「雑行」とは「善い行為」であると言っていますが、
果たしてそうなのでしょうか。
その「善い」とはどういう意味で言っているのでしょうか。
お菓子箱をあげるという行為そのものは、一見「善い行為」です。
人に物をあげるのですから。
しかしやましい心でやった行為は「賄賂」であり「行為そのものが悪い」のです。
御礼で渡したものは心がけも善いですから行為そのものも「善い行為」です。
「賄賂」という行為そのものがやってはいけない「悪い行為」なのです。
同様に、
雑行という行為は世間的には「善い」とされる行為であっても、
その修している心が自力心であるために、
「往生に関しては」弥陀の御心に反する「行為」であり、「悪い」のです。
繰り返しになりますが、
そのまま、「往生の行としては雑行という行そのものを捨てなさい」
と言われるのが浄土真宗なのです。
すると⑥のおかしさもわかりますね。
だから雑行そのものは決して悪いものではありませんから、
←往生については「雑行」は悪い心かげでやる行為のことだから
「行為そのものが悪い」のです。
大いに努力してやらねば善い果報がきませんが、
←???
雑行を大いに努力してやって、得られる善い果報とは何でしょう。
大いに善い果報が欲しいと求めることは自由だと思いますが、
雑行を大いに努力してやって、
果報が得られるかどうか・どれだけ得られたかということと、
阿弥陀仏に救われるかどうか(信心決定)と何の関係があるのでしょうか。
雑行を大いに努力して善い果報が得られなければ、
信心決定できないのでしょうか?
関係ありません。
ここで大事なことは、この問答の最初の部分に
浄土真宗では、雑行雑修自力の心をふり捨てなければ、絶対に阿弥陀仏の救済にあずかることはできないと教えられていますから、
とありますように、
今は「阿弥陀仏の救済」についての話をしているのです。
このように話や文章の間に関係のない話や言葉を混ぜて、よくわからない話にして
間違った理解に誘導するということが親鸞会には散見されるのです。
次に
これで何とか助かるだろう、これで死んでも悪い所へは行かんだろう、これで何とかなるだろう、という自力の心をもってやるから嫌われ、捨てよと言われているのです。─⑥
「何が」が抜けています。
これも⑤と同様に、少なくとも前の文章と矛盾のないように書くなら
これで何とか助かるだろう、これで死んでも悪い所へは行かんだろう、これで何とかなるだろう、という自力の心をもってやるから「雑行」(という行為)は嫌われ、捨てよと言われているのです。─⑥’
と書かなければなりません。
⑦、⑧では
「自力の心」がないのでその「行為」は「雑行」とは言わない。「御恩報謝」という。
と書かれています。そのとおりです。
報恩謝徳の心でなす行為を「御恩報謝」と言って「雑行」とは言いません。
ここからも、
「雑行は善い行為だから励まねばならないが自力の心は捨てねばならない」
という説明のおかしいことがわかります。
結局、この文章全体として言っていることは
「雑行を捨てよとは自力の心を捨てよということであって善い行為=雑行を捨てよではない」
ということです。この説明では、
「雑行」は捨てるべき行為なのか励むべき行為なのか、わからない
のです。わからない説明をしているのです。
ですからこのように二転三転する定義曖昧な親鸞会の説明では、
「雑行」は行為としては「善い行為」だからやらなくてはならないし、
努力しなければ善い果報もやってこないのだから、
信前は「雑行」にしかならないのだから
「雑行」を大いに努力してやって(往生とは無関係の)善い果報を求めつつ、
大安心、大満足の境地になって「自力の心」出てこなくなるまで
「雑行」を大いに努力して励んでいかなければならない
という浄土真宗とは似ても似つかぬ理解に陥らされてしまうのも
無理はないでしょう。
この例からも見られるように、多くの例を見てみると親鸞会(高森会長)は
・お聖教の言葉の意味を知らない
・ものごとの関係性を理解することができない(無視する)
ということがお互いに依存し合って
・お聖教の中での言葉や文章の関係性がわからないから
無視して断章取義
・言葉の正しい意味を知らないから本来の関係を無視した
(関係のない話を混在させたりした)非論理的な話ができる
等のことが言えると思います。
文章(説明)は「言葉」でできています。
言葉は意味の容れ物です。
つまり、言葉にはそれぞれその意味や内容が定められているから
言葉によって自分の心を伝えることができるのです。
言葉には定義された意味や内容というものがあるからこそ
意味を人と共有することによって伝え合うことができますし、
意味の定まっていないものならば、
その意味や内容を明確に定めて共有できるようにします。
その意味や内容を明確に定めることを、「言葉を定義する」というのです。
ですから、文章や話を説明するにあたっても、
元々そこで使われている言葉の定義を知らずに
自分勝手に決めた言葉の定義で解釈をすれば
元の話とは全く違った話にしてしまうことは可能ですし
実際全く違った話になってしまいます。
また、言葉の定義(説明)をする際に、
それが意味の通じない定義になってしまっていては、
その言葉の定義を前提とした以降の話も
意味不明の話になってしまいます。
人間は言葉でしか伝えられないのですから
人に伝えようとする人ならば言葉の定義というものは
大事にしていただきたいものだと思いますが、
残念ながら他人も言葉というものも
馬鹿にしていい加減に扱って利用するような人達がいる以上、
自分自身が、言葉や文書の本来の意味を知るということに
注意を払っていかなければならないと思います。
本物の言葉には、伝えようとする人の心が生きているのですから。
またこの「言葉の定義」ということについては
考えたいと思います。
付記
そう言うと、「雑行・雑修を捨てよ」とは
「聴聞もするな、お勤めもするな、善いことをするな」ということか?
と言われる方があります。
これはおかしな問いかけです。
「聴聞」も「お勤め」も「善いこと」も「雑行・雑修」に限られないからです。
浄土真宗ではもちろん聴聞もお勤めも善いことも勧められています。
しかし、当然「雑行雑修」の勧めはありません。
「信前は雑行雑修にしかならないのだから雑行雑修に励め」
という教えはありません。
では何か。親鸞会方式でも念仏で考えてみたらいいと思います。
他力の念仏の勧めはあっても、自力の念仏(雑行・雑修)の勧めはありません。
浄土真宗では
「念仏称えていったら救われる」(自分の念仏の功で救われる)とは言わないから、
「信心正因称名報恩」と言われるのです。
だから、御恩報謝です。⑦⑧のとおりです。
(弥陀の救済は只今という平生業成が浄土真宗ですから、
只今雑行を捨てて本願に帰すべしです。)
注1)
これで雑行についての正しい説明になるということではなく、少なくとも前の文章と矛盾のないように書くならば、という意味です。
(参考)「雑行」の意味
・『正行と雑行について』
・『飛雲』
・『会員の皆様は「雑行」について根拠に基づいた話を聞いていますか?』関連
等
注2)
注1)と同様。
その後また飛雲さんが詳解されています。
・「雑行を捨てよ」とは、親鸞会の主張する善の勧めを捨てよ
・親鸞会の主張を徹底的に否定されたのが親鸞聖人
・「雑行を捨てよ」だけで、親鸞会を簡単に論破できます
・雑行の意味も知らない喜劇の主役
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