説明になっていない説明(「雑行」について) 続き

2011年04月29日16:19

前回の続きです。
わかりやすくする為に、色を付けました。

雑行とか雑修とは、どんなことか

問 真宗では雑行、雑修をふり捨てよと、やかましく言われますが、雑行とか雑修とはどんなことでしょうか。

答 浄土真宗では、雑行雑修自力の心をふり捨てなければ、絶対に阿弥陀仏の救済にあずかることはできないと教えられていますから、その雑行とは何か、雑修とは何かというあなたの質問は極めて大切なお尋ねです。

 まず、雑行といいますのは、私たちのやっている善い行為は阿弥陀仏に助けていただくために益にたつだろうと思ったり、益に立てようという心でやっているすべての行為をいいます。─①

 二、三例を挙げますと、
「これだけ親孝行をしているから、死んでも悪い所へは行かないだろう」とか、
「これだけ他人に親切にしているのだから地獄へは堕ちんだろう」とか、
「これだけ世の中のために尽くしているのだから、極楽参り間違いなかろう」とか
「これだけ堪忍もしているのだから、死んでも悪い結果は来ないだろう」とか、
思ってやっているすべての善い行為を雑行というのです。─②

 上述のものでは「親孝行」や「親切」や「慈善事業」や「忍辱」などが雑行になります。いわゆる、阿弥陀仏と無関係の諸善万行をいうのです。─③

 ではなぜ、このような善い行為を浄土真宗では雑行といって嫌うのかといいますと、その行為をしている者の心が阿弥陀仏の御心に反する悪い心だからなのです。─④

「これだけやっているから助かるだろう」とか「これだけしているのだから地獄へは堕ちんだろう」と自分のやっている善をあて力にして助かろうとしている心は、阿弥陀仏の御胸にくぎを打ちつけている恐ろしい仏敵の心ですから、雑行と嫌われ捨てよと教えられているのです。─⑤

 だから雑行そのものは決して悪いものではありませんから、大いに努力してやらねば善い果報がきませんが、これで何とか助かるだろう、これで死んでも悪い所へは行かんだろう、これで何とかなるだろう、という自力の心をもってやるから嫌われ、捨てよと言われているのです。─⑥

 しかもこのような心は信後(阿弥陀仏に救われたあと)は、すでに大安心、大満足に救われてしまっているのですから、自分のやっている行為について、「これだけしているのだから」とか「これだけやっているのだから助かるだろう」などのは微塵も出てきません。─⑦

 されば、信後は間違っても雑行をするということはないのです。信後、これらの行為はすべて仏恩報謝の行となるのです。─⑧

(略)
(株)チューリップ企画 真宗文化研究所 『浄土真宗を学ぶ 雑行雑修自力の心』 平成14年(2002)



これでお分かりになったと思います。
個々に要約して見てみます。

① 雑行とは、ある心でやっているすべての行為のことをいう。


←「『雑行』とは『行為』のことをいう」と言っています。

② 「~~だろう」と思ってやっている善い行為のことを雑行という。


←ここでも「『善い行為』のことを『雑行』という」と言っています。

③ 阿弥陀仏と無関係の諸善万行のことを雑行という。


←「諸善万行という『行』である『行為のこと』を『雑行』という」
とここでも説明しています。

④ それは「善い行為」であるのに、浄土真宗では嫌われる。それはやっている者の心が悪いからだ。


←ここでも「行為」が嫌われると言っています。
その理由として、それをやっている者の心が悪いからだと言います。

「雑行」という「行為」は「善い行為である」のに嫌われるのは、
「悪い心がけだから」と言います。
「行為」が「嫌われる」のです。
その「嫌われる行為」をしている「悪い心がけ」のことを「自力の心」と言うのです。

ここまでの説明をまとめると、
「雑行」という「行為」は浄土真宗では嫌われるから、「捨てよ」です。
「雑行」とは「行為」のことと言っているのですから、「雑行という行為を捨てよ」のはずです。


ところが、です。
問題は⑤の文章です。これが親鸞会がよく使う手です。よく見てください。

「これだけやっているから助かるだろう」とか「これだけしているのだから地獄へは堕ちんだろう」と自分のやっている善をあて力にして助かろうとしている心は、阿弥陀仏の御胸にくぎを打ちつけている恐ろしい仏敵の心ですから、雑行と嫌われ捨てよと教えられているのです。─⑤



そのまま要約すれば、

「自分のやっている善をあて力にして助かろうとしている心」は、「雑行」と嫌われ捨てよと教えられる。


となります。あれ?「心」が「雑行」であると言っています。
「雑行」とは「行為」のことじゃなかったのですか。
突然「心のことである」と言い出し、「心」の意味にすり替えられています。
「雑行を捨てよ」という話が「だから「自力の心」を捨てよなのだ」という意味に
根拠もなくシフトしているのです。

①~④の説明のとおり、正確に言えば
「自力の心」=「雑行」ではありません。
「雑行」を修している心を「自力の心」というのです。

ですから
「『自力の心を捨てよ』だから『雑行を捨てよ』である」とは言えますし、
「雑行を捨てよ」も「自力の心を捨てよ」も浄土真宗では正しいですが、

だからと言って、「雑行を捨てよ」=「自力の心を捨てよ」ではないのです。
「雑行」とは行のことですし、「自力の心」は心のことです。
「雑行」=「自力の心」ではないからです。

調べましたがこのような
「『雑行』=『自力の心』」という、
乱暴かつ誤解を生じさせるような説明の仕方は親鸞会に特徴的であり、
親鸞会関係者と一部の親鸞会元講師がしています。

要するに、このような説明しかできない人は、

・浄土真宗で言われる「雑行」の意味を知らない。
(「雑行」と「自力の心」の関係を知らない。)

これだけのことです。

⑤を①~④までの文章と矛盾のないように書こうとするならば

「これだけやっているから助かるだろう」とか「これだけしているのだから地獄へは堕ちんだろう」と自分のやっている善をあて力にして助かろうとしている心は、阿弥陀仏の御胸にくぎを打ちつけている恐ろしい仏敵の心ですから、このような心で行なっている善い行為のことを雑行と嫌われ捨てよと教えられているのです。─⑤’


と書かなければなりません。 注1)

行為というのは心が名前を決める場合があるのです。
行為の要件である心がけが違えば行為も違ったものになるのです。
行為の前に心があるのに
実際は不可能な心だけを切り離すことができるかのような話になっているから
おかしな話になるのです。

例えば、親鸞会でも「賄賂の話」を聞いたことがあると思います。
菓子箱を差し出した。
ア…「これで便宜を図ってください」という心で渡せば「賄賂」。
イ…「お陰さまでありがとうございました」という心で渡せば「御礼」。
外見上は同じ行為でも心が違えば、
前者は「賄賂という行為」であり、後者は「御礼という行為」なのです。
そのとおりです。行為自体が異なるのです。

この話によって親鸞会の説明のおかしなところがもう一つ見えてきます。

②、④で「雑行」とは「善い行為」であると言っていますが、
果たしてそうなのでしょうか。
その「善い」とはどういう意味で言っているのでしょうか。

お菓子箱をあげるという行為そのものは、一見「善い行為」です。
人に物をあげるのですから。
しかしやましい心でやった行為は「賄賂」であり「行為そのものが悪い」のです。
御礼で渡したものは心がけも善いですから行為そのものも「善い行為」です。
「賄賂」という行為そのものがやってはいけない「悪い行為」なのです。

同様に、
雑行という行為は世間的には「善い」とされる行為であっても、
その修している心が自力心であるために、
「往生に関しては」弥陀の御心に反する「行為」であり、「悪い」のです。
繰り返しになりますが、
そのまま、「往生の行としては雑行という行そのものを捨てなさい」
と言われるのが浄土真宗なのです。

すると⑥のおかしさもわかりますね。

 だから雑行そのものは決して悪いものではありませんから、


←往生については「雑行」は悪い心かげでやる行為のことだから
「行為そのものが悪い」のです。

大いに努力してやらねば善い果報がきませんが、


←???
雑行を大いに努力してやって、得られる善い果報とは何でしょう。
大いに善い果報が欲しいと求めることは自由だと思いますが、
雑行を大いに努力してやって、
果報が得られるかどうか・どれだけ得られたかということと、
阿弥陀仏に救われるかどうか(信心決定)と何の関係があるのでしょうか。
雑行を大いに努力して善い果報が得られなければ、
信心決定できないのでしょうか?
関係ありません。

ここで大事なことは、この問答の最初の部分に

浄土真宗では、雑行雑修自力の心をふり捨てなければ、絶対に阿弥陀仏の救済にあずかることはできないと教えられていますから、


とありますように、
今は「阿弥陀仏の救済」についての話をしているのです。
このように話や文章の間に関係のない話や言葉を混ぜて、よくわからない話にして
間違った理解に誘導するということが親鸞会には散見されるのです。

次に

これで何とか助かるだろう、これで死んでも悪い所へは行かんだろう、これで何とかなるだろう、という自力の心をもってやるから嫌われ、捨てよと言われているのです。─⑥


「何が」が抜けています。
これも⑤と同様に、少なくとも前の文章と矛盾のないように書くなら

これで何とか助かるだろう、これで死んでも悪い所へは行かんだろう、これで何とかなるだろう、という自力の心をもってやるから「雑行」(という行為)は嫌われ、捨てよと言われているのです。─⑥’


と書かなければなりません。 注2)

⑦、⑧では
「自力の心」がないのでその「行為」は「雑行」とは言わない。「御恩報謝」という。
と書かれています。そのとおりです。
報恩謝徳の心でなす行為を「御恩報謝」と言って「雑行」とは言いません。
ここからも、
「雑行は善い行為だから励まねばならないが自力の心は捨てねばならない」
という説明のおかしいことがわかります。

結局、この文章全体として言っていることは

「雑行を捨てよとは自力の心を捨てよということであって善い行為=雑行を捨てよではない」

ということです。この説明では、
「雑行」は捨てるべき行為なのか励むべき行為なのか、わからない
のです。わからない説明をしているのです。

ですからこのように二転三転する定義曖昧な親鸞会の説明では、

「雑行」は行為としては「善い行為」だからやらなくてはならないし、
努力しなければ善い果報もやってこないのだから、
信前は「雑行」にしかならないのだから
「雑行」を大いに努力してやって(往生とは無関係の)善い果報を求めつつ、
大安心、大満足の境地になって「自力の心」出てこなくなるまで
「雑行」を大いに努力して励んでいかなければならない

という浄土真宗とは似ても似つかぬ理解に陥らされてしまうのも
無理はないでしょう。

この例からも見られるように、多くの例を見てみると親鸞会(高森会長)は

・お聖教の言葉の意味を知らない
・ものごとの関係性を理解することができない(無視する)

ということがお互いに依存し合って
・お聖教の中での言葉や文章の関係性がわからないから
無視して断章取義
・言葉の正しい意味を知らないから本来の関係を無視した
(関係のない話を混在させたりした)非論理的な話ができる
等のことが言えると思います。

文章(説明)は「言葉」でできています。
言葉は意味の容れ物です。
つまり、言葉にはそれぞれその意味や内容が定められているから
言葉によって自分の心を伝えることができるのです。

言葉には定義された意味や内容というものがあるからこそ
意味を人と共有することによって伝え合うことができますし、
意味の定まっていないものならば、
その意味や内容を明確に定めて共有できるようにします。
その意味や内容を明確に定めることを、「言葉を定義する」というのです。

ですから、文章や話を説明するにあたっても、
元々そこで使われている言葉の定義を知らずに
自分勝手に決めた言葉の定義で解釈をすれば
元の話とは全く違った話にしてしまうことは可能ですし
実際全く違った話になってしまいます。

また、言葉の定義(説明)をする際に、
それが意味の通じない定義になってしまっていては、
その言葉の定義を前提とした以降の話も
意味不明の話になってしまいます。

人間は言葉でしか伝えられないのですから
人に伝えようとする人ならば言葉の定義というものは
大事にしていただきたいものだと思いますが、
残念ながら他人も言葉というものも
馬鹿にしていい加減に扱って利用するような人達がいる以上、
自分自身が、言葉や文書の本来の意味を知るということに
注意を払っていかなければならないと思います。
本物の言葉には、伝えようとする人の心が生きているのですから。

またこの「言葉の定義」ということについては
考えたいと思います。

付記

そう言うと、「雑行・雑修を捨てよ」とは
「聴聞もするな、お勤めもするな、善いことをするな」ということか?
と言われる方があります。

これはおかしな問いかけです。
「聴聞」も「お勤め」も「善いこと」も「雑行・雑修」に限られないからです。

浄土真宗ではもちろん聴聞もお勤めも善いことも勧められています。
しかし、当然「雑行雑修」の勧めはありません。
「信前は雑行雑修にしかならないのだから雑行雑修に励め」
という教えはありません。

では何か。親鸞会方式でも念仏で考えてみたらいいと思います。

他力の念仏の勧めはあっても、自力の念仏(雑行・雑修)の勧めはありません。
浄土真宗では
「念仏称えていったら救われる」(自分の念仏の功で救われる)とは言わないから、
「信心正因称名報恩」と言われるのです。

だから、御恩報謝です。⑦⑧のとおりです。
(弥陀の救済は只今という平生業成が浄土真宗ですから、
只今雑行を捨てて本願に帰すべしです。)


注1)
これで雑行についての正しい説明になるということではなく、少なくとも前の文章と矛盾のないように書くならば、という意味です。

(参考)「雑行」の意味
『正行と雑行について』
『飛雲』
『会員の皆様は「雑行」について根拠に基づいた話を聞いていますか?』関連


注2)
注1)と同様。

その後また飛雲さんが詳解されています。
「雑行を捨てよ」とは、親鸞会の主張する善の勧めを捨てよ
親鸞会の主張を徹底的に否定されたのが親鸞聖人
「雑行を捨てよ」だけで、親鸞会を簡単に論破できます
雑行の意味も知らない喜劇の主役
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説明になっていない説明(「雑行」について)

2011年04月22日17:01

■詭弁とは?

詭弁とは、『間違っていることを、正しいと思わせるようにしむけた議論』のことです。

具体的に言うと、『前提が結論を正しく支えていない主張(もしくは反論)』です。

「詭弁」は、論理学の専門的な用語では「誤謬論」や「虚偽論」とも呼ばれています。

「新しい詭弁のガイドライン」


親鸞会のトリックについて考えるというこのサイトですが、
一般論を学べば自ずと個々の事例についてもわかるのですが、
一般論ばかりでは面白みにも欠けるので、これからは
具体例も交えながら、どのような錯誤に陥ってしまうのか
考えていきたいと思います。

親鸞会の教義的な間違いについては既に
色々指摘されているところです。(リンク先を参照してください)
大きなものから細かいものまでいろいろありますが、
それでも会員は親鸞会の教えを
「正しいと思っている」
から聞いているのであり、その教えを広める活動を続けています。

前の記事で、「騙す」とは
「嘘を言って、本当でないことを本当であると思い込ませる」
ことだと書きました。
「本当でないことを本当であると思い込む」
ことが人間にはあるのです。

では「本当でないことを本当であると思い込ませる」にはどうしたらいいか。
「本当でないことを本当であると思い込む」のはどうしてか。

そこで使われているものが「詭弁」なのです。
詭弁というものは、詭弁であることを知らなくても騙しのテクニックとして
身につけていけるものですから、
詭弁というものは何も技術として勉強しなくても
我々の話の中に紛れ込んでいると言ったほうがいいでしょう。

「詭弁」とは、
・「誤りである論理展開を故意に用いて、発言者に都合良く導き出された結論、およびその論理の過程」
・「道理に合わないことを強引に正当化しようとする弁論」
・「外見・形式をもっともらしく見せかけた虚偽の論法」
等のことを言います。

要は、「詭弁」とは最初に挙げた文章にあるように、
「間違っていることを、正しいと思わせるようにしむけた議論」
のことなのです。

これを正しいと信じてしまえば、
「嘘を本当であると信じ込む」状態になりますから、
「騙される」状態になる訳です。

具体的に言うと
「前提が結論を正しく支えていない主張(もしくは反論)」
つまり、
「本来は根拠にならないものをその結論の正当性の根拠としている話」
のことです。ですから、
「実は正しいと言っているものが、根拠が結論を正しく支えていない」
のですから
「論理に誤謬がある」
「論理に虚偽がある」

ということなのです。

こちらのサイトではその誤謬や虚偽の論理の主張の仕方として、
「詭弁」と「強弁」の二つについて説明されているので読まれたら面白いでしょう。

さて、簡単なものからいきたいと思います。
以下の文章は親鸞会館内で販売されていた

『浄土真宗を学ぶ 雑行雑修自力の心』
発行所(株)チューリップ企画 真宗文化研究所
平成14年(2002) 12月1日 初版発行

という冊子からのものです。
便宜上番号を振りました。(強調部分は原文のままです)

雑行とか雑修とは、どんなことか

 真宗では雑行、雑修をふり捨てよと、やかましく言われますが、雑行とか雑修とはどんなことでしょうか。

 浄土真宗では、雑行雑修自力の心をふり捨てなければ、絶対に阿弥陀仏の救済にあずかることはできないと教えられていますから、その雑行とは何か、雑修とは何かというあなたの質問は極めて大切なお尋ねです。

 まず、雑行といいますのは、私たちのやっている善い行為は阿弥陀仏に助けていただくために益にたつだろうと思ったり、益に立てようという心でやっているすべての行為をいいます。─①

 二、三例を挙げますと、
「これだけ親孝行をしているから、死んでも悪い所へは行かないだろう」とか、
「これだけ他人に親切にしているのだから地獄へは堕ちんだろう」とか、
「これだけ世の中のために尽くしているのだから、極楽参り間違いなかろう」とか
「これだけ堪忍もしているのだから、死んでも悪い結果は来ないだろう」とか、
思ってやっているすべての善い行為を雑行というのです。─②

 上述のものでは「親孝行」や「親切」や「慈善事業」や「忍辱」などが雑行になります。いわゆる、阿弥陀仏と無関係の諸善万行をいうのです。─③

 ではなぜ、このような善い行為を浄土真宗では雑行といって嫌うのかといいますと、その行為をしている者の心が阿弥陀仏の御心に反する悪い心だからなのです。─④

「これだけやっているから助かるだろう」とか「これだけしているのだから地獄へは堕ちんだろう」と自分のやっている善をあて力にして助かろうとしている心は、阿弥陀仏の御胸にくぎを打ちつけている恐ろしい仏敵の心ですから、雑行と嫌われ捨てよと教えられているのです。─⑤

 だから雑行そのものは決して悪いものではありませんから、大いに努力してやらねば善い果報がきませんが、これで何とか助かるだろう、これで死んでも悪い所へは行かんだろう、これで何とかなるだろう、という自力の心をもってやるから嫌われ、捨てよと言われているのです。─⑥

 しかもこのような心は信後(阿弥陀仏に救われたあと)は、すでに大安心、大満足に救われてしまっているのですから、自分のやっている行為について、「これだけしているのだから」とか「これだけやっているのだから助かるだろう」などの心は微塵も出てきません。─⑦

 されば、信後は間違っても雑行をするということはないのです。信後、これらの行為はすべて仏恩報謝の行となるのです。─⑧

(略)


以上は前半の「雑行」についての説明の部分ですが、
奇妙な説明です。

まず構成を見てみます。

①…「雑行」とは何であるかの説明。「雑行」の定義・意味。

②…①の補足。例を挙げて詳細に「雑行」とは何を指すのかの説明。

③…言い換え。「雑行」の別の言い方。

④…「雑行」が浄土真宗で嫌われる理由。

⑤⑥…④の補足説明。

⑦…信後、「自力の心」はどうなるかの説明。

⑧…信後、「雑行」はどうなるかの説明。

おかしなところはわかりますか?
単純すぎて論理的に何の虚偽に該当するか分類が難しいのですが、
「曖昧の虚偽」
「語義曖昧」
になるかと思います。

「捨てねば助からないから極めて大切なお尋ね」
と言いながら、これで「何を」捨てるのか
捨てるべきものとは何なのか
わかりますか?

高森会長からよく聞きましたが
「捨てるべきものがわからなかったら捨てられない」
のではないでしょうか。

長くなりましたので、
説明は次回にしたいと思います。

(補足)詭弁について(追記あり)

2011年04月22日16:48

論理より感情で納得したいのところで、

「それは詭弁だ」と反論する心理ということについて少し書きましたが、
言いたいことをうまく説明してある文章を見つけました。

真の詭弁

あなたの論理は詭弁だ。


この言葉こそ、「詭弁」という章で話さなければいけない真の詭弁です。

詭弁とは、
間違っていることを正しいと間違って思い込まされるように書いた意見です。
とすると、「あなたの論理は詭弁だ」というのはどこか変です。
間違っているのなら間違っていると言えばいいだけですから。

「間違った意見」と「詭弁」の違いを考えてみましょう。
定義からすると、
その違いは「受け取った側が正しいと思い込まされたかどうか」です。
「正しいと思い込んだ」と「正しいと思い込まされた」の違いに注意してください。
前者は受け取った人の責任で、後者は言った人の責任です。

前に、自己責任のところで話をしました。
議論では、意見はどう受け取ろうと勝手で、
それは自分に責任があります。
その原則を無視して、
自分が間違えそうになったことを相手のせいにするのが問題なのです。
そもそも、相手が間違ったことを正しいと思い込んでしまうのは
発言者にとってデメリットですから、
そんなことをするはずがありません。

ではなぜその人は相手の意見を詭弁だと言うのでしょう。
もし相手の意見が間違っていることがわかっているなら、
詭弁だなどと言わずに、
間違っている所を指摘すればいいはずです。
「詭弁だ」と言うのは、
相手の意見が間違っているという理由は何一つないんだけれど
相手の意見を間違っていることにしたいという願望の表れです。


これはつまり、「詭弁だ」と言うことによって、
本当は正しいと思っている意見を正当な理由なく
間違っていることにしたいという願望であり、
これこそが詭弁なのです。


あなたの意見を相手が「詭弁だ」と言い出したら、
冷静に、そしてやさしく見守ってあげるべきです。
これは、あなたの意見を正しいと理解したけれど、
それを自分で認めるのをなんとか拒否したいという願望の表れです。
本当に思っていることに対して素直になる手助けをしてあげましょう。
一番いいのは、思っていることを素直に書いてもらうことです。
こう発言しましょう。

なぜあなたは私の論理を詭弁だと言うのですか?


(iwatamの個人サーバ「詭弁」)



「それは詭弁だ」では反論にならないのです。
詭弁とはどういうものかを本当に知っている人ならば
このような反論の仕方はしないはずです。
論理的虚偽の内容を(どこがどのように詭弁なのか)を
具体的に指摘すればいいのですから。

ついでに、詭弁(論理の虚偽)について考えることについて、
修辞学(レトリック)と国語科教育学の専門家である
香西秀信氏の言葉を紹介します。

騙すより、騙される方に罪がある?

要するに、この教師は、問いの議論的機能について全く無知だったのです。
これはある意味で、学生のカンニングよりも罪が重い。
無知・無能は、狡猾以上の悪徳です。
この場合に限らず、私は、詭弁によって人を騙すことよりも、
騙されることの方が悪いと考えています。

詭弁で人をだますような性根は、おそらく死ぬまでなおらないでしょう。
が、騙されることは、勉強し、訓練すれば防げるからです。
そして、そのような勉強・訓練によって相手の詭弁が見抜けるようになれば、
自分自身は詭弁を使わなくなります。


逆説的ですが、詭弁を使わないようになるためには、
詭弁など気にせず、ただ議論に勝つことだけを考えておればいい。
なぜなら、議論に勝ちたいと思っているのは、
こちらだけではなく、相手も同じだからです。

そして、議論に勝つための最も効果的な方法は、
相手の論に見られる虚偽を指摘することです。
だから、相手が詭弁を使ってくれたら、
あるいはそのような意図的なものでなくとも、
何らかの論理的虚偽を犯してくれたら、
それは願ってもない絶好の機会なのだと言えましょう。

特に、相手の論の誤りであるゆえんを正確に分析し、
専門用語でもってその虚偽形式を名指すことができたら、
相手にとっては致命的な打撃になります。
多くの議論教科書が虚偽論を含んでいるのはこのためです。
それは相手の虚偽を見抜き、議論に勝つためであって、
自らが虚偽を犯さないためではない。

だが、自らが虚偽を見抜く力をもち、
それを指摘されたときの打撃の大きさを知れば、
自分自身は用心して、うかつには詭弁を使わないようになるでしょう。
自分が相手の虚偽を見抜けるように、
相手もまた自分のそれを見抜けるのではないかと予想するからです。

レトリック研究者の立場から言えば、
論理的判断によって、自ら詭弁を使うのを慎む人は、
議論人としてはまだ二流・三流です。

一流とは、議論技術があまりにも向上し、
相手の虚偽を完璧に分析できるようになったため、
自らも詭弁を使うことが(あるいは虚偽を犯すことすら)
不可能になった人のことです。
相手よりも先に、自分で自分の論に反論できてしまうのです。


われわれは、詭弁を使わないのではなく、
使えなくなるほどに、
議論技術・論理的思考力を向上させなければなりません。


香西秀信 『レトリックと詭弁』 ちくま文庫 2010年 35-37頁


詭弁の技術を競っているようでは
真の意味での詭弁というものを知らない、
論理的思力が身についていない、
一流ではないということです。
議論ができないというのも
当然なのかも知れません。


(以下 4月23日追記)
加えて申しますと、
「詭弁で人をだますような性根は、おそらく死ぬまでなおらない」
おそらくこのとおりだと思います。

法を曲げ、利用することになっても平気な人は死ぬまでなおらないのでしょう。
私は高森会長及び親鸞会に対して改善を訴えて求める気持ちはありません。
残念ながらそれは無駄な人間と組織であるとの結論に至りました。
ですから最初の「動機」のところで書いたように、
高森会長や親鸞会に間違いを改めるように訴えることが
ここでの目的ではありません。

ただし誤解のないよう申し上げますが、
直した方がいい、間違っていますよと言ってあげるのは一つの親切なのですから
そのような働きかけをされている方の行為を
決して否定するようなものではありません。
「私は」「親鸞会に対しては」する気力がないということですので
したいと思うことのできる方には大いに頑張っていただきたいと思います。
ただしカルト宗教団体のように
人の意見を聞く耳ももたずに我が正義、我が真実という態度では
いただけないと思いますが。

犯罪者がいなくなることはありません。
かといって放置しておいていいというものではありませんので
取り締まりはしなくてはなりませんが、
被害に遭わないように周囲に働きかけることがまた重要なのです。

真面目に生活をしている人が被害を受けるということが問題なのであって、
加害者にやめるように言うことが無駄であっても、無駄ならば、
自分や周りの人が被害に遭わないように気をつけることです。
だからその実態や事実を自分が知ることや
知った事実や実態を周りの人に伝えて
自分や周囲の人が被害に遭わないように注意を喚起することには
意味があります。

事実や実態を知ったら
それをどう評価しどう行動するかは個々の判断ですが、
それには「事実や実態を知る」ということが前提として必要で大切なことです。
これまで様々な機会や手段でそれらを伝えようとしてくれた人々、
今もそれをしてくれている方々に感謝しております。

信じる時、それが崩れる時。「人」が「人の話」を信じるということ。

2011年04月14日17:21

【クリティカル・シンキング(批判的思考)とは】

クリティカル・シンキングとは、
あらゆる情報に対して批判的な思考を働かせ、
分析する習慣のことを指します。


これが、逆に、
あらゆる情報を無批判に受け入れるならば、
クリティカル・シンキングが欠如している状態であるといえます。


クリティカル・シンキングとは、
人の出した結論を「ただ否定する」だけのことをいうのではありません。

その意見の根拠に対して、
「本当にそうなのだろうか?」と疑問を投げかけ、
最終的に自分の頭で判断する習慣のことをいいます。


『中学生からの論理的な議論の仕方』より抜粋


人の話を何故信じるのでしょうか。

それは「根拠」があるからです。信じる「理由」があったのです。

ただ単に「こうですよ」と言われても人間は信じません
単に「こうですよ」と話しても説得力がありません。

どういうときに信じてもいいと思うのでしょうか。
何故その話を信じるに値すると評価したのか。

それはその話に「根拠」があって、
しかもその話が正しいと判断するのに「正当な根拠だと思った」からです。
「本当だろうか?」「信じてもいいのだろうか?」という疑問に答えるものが
その「根拠の中にある」と私が思ったからなのです。
思わさせられたからなのです。

だから説得力のある話というのは、
「信じるに値する」と「思わせる」だけの「根拠」がある話
なのです。

根拠のない話は、信用に値しない
これは常識です。

人間は元々論理的であろうとする生き物だからです。
それは私がこの世で生きていく上で「騙される」という被害を蒙らない為に
教育や社会生活の中で身につけていく術なのです。

騙されてはならないと思う「私の知恵」が、
人の話に根拠を求めるのです。

だから、親鸞会でもいつも言うはずです。言っているはずです。
「必ず根拠を出しなさい」と。

「根拠があるから正しい」
皆そう思うのです。私もそうでした。

従って「論理的思考」というのは、
「人の話」に「それが正しいと判断するに値する」「根拠」を求める思考(心)である
と言えるでしょう。
その心に答え得る「根拠」が「正しく存在する」と判断したときに信じるのです。
信じてしまうのです。

前の記事で
「論理的であるからこそ、論理的に説得されることを好まない」
という意見を紹介しましたが、
親鸞会の教義を正しいと信じてしまったのには、
「論理的であろうとするからこそ、親鸞会の虚偽の論理(詭弁等)に騙されてしまった」
ということが理由の一つとしてあるのです。(具体的には今後述べていきます。)

逆に言えば、
正しいと信じる理由となった「根拠」に実は虚偽があったなら、
もしくはその根拠を「正しいとする判断」に実は虚偽があったなら、
その真実性は崩れる
のです。

さて、最初に紹介した文章の中で「批判的思考」が勧めれているのは
「論理的思考のために」ということですから、
ここでの「批判的思考」は「論理的思考」と言い換えることができます。

親鸞会では、親鸞会からの情報に限っては
「あらゆる情報を無批判に受け止める」
状態にされていなかったでしょうか。

つまり、
「論理的思考」を奪われるような状態に置かれていたのではないでしょうか。

根拠に対して、
「本当にそうなのだろうか?」と疑問を投げかけ、
最終的に自分の頭で判断する

これは「人の話を聞く」ときには不可欠なことです。

「自分の頭で考える」ことは悪いことなのでしょうか。
第一、自分の頭で考えたら救われないような教えなどがあるのでしょうか。
考えてみてください。
自分で判断するな、自分で考えるなと言われているとしたなら、
誰が何の為に言っているのか。
答えは簡単です。
「考えられては困るから」です。

自分だけが知っているとばかりに
「君たちは何もわかっていないのだ」とか
「君たちにわかる世界ではないのだ」等と言い、
「(君達の)腐った頭で考えてもわからないのだから我に従え」
というようなことを言う人があるとすれば、
その人の頭が腐っているのでしょう。

「私の腐った頭で考えても間違えるから」と言うのなら、
ならばその「私の頭は腐っているがあの人は間違いないと判断して従おうとする」のも
その腐った頭で考えて判断していることではないのでしょうか。
矛盾しています。

宗教、仏教、浄土真宗と言っても、
常に異義や邪義に惑い、惑わされてきたのが私達の歴史です。

浄土真宗を聞いているのなら、聞いていこうとするなら
このことは浄土真宗に照らして正しいのだろうかという
「批判的思考」を忘れてしまったなら、
自分が異義や邪義に陥ってしまっていても気付けません。

また、無批判に受け止めることを強要されるならば
誰の話でもいいということになってしまいます。

浄土真宗の救いというのは
矛盾した世界でもなければ、
矛盾した話を無批判に信じなければならないというものでは
決してないのです。

その教えに矛盾がないことは
リンク先のブログを読めばそれだけでわかるでしょう。

仏法の学問は「学仏大悲心」と言われます。
私の疑問に対しても応え得る深い教えであるからこそ
学べば学ぶほど、学ぶことも要らない深い如来の救いの御心が
知らされるというものなのです。

かつての私がそうでしたが
お聖教を読むこともその意味を知ることも人任せにして
自分の頭で考え自分で真摯に学ぶことを
放棄したりおろそかにしたりするならば、

論理的思考もむしろ邪魔なものとなって
益々誰かの話をただ無批判に受け止めるようになり
いつしか教え(如来の御心)と反対の方向に向っていても
全く気付かない。
他人の話に対して無批判になることだけに限らず、
自分に対して無批判になることによっても然りです。
これは恐れるべきことではないでしょうか。

論理より感情で納得したい

2011年04月09日00:52

「人間は本質的に論理的な生き物である。
だからこそわれわれは、論理的に説得されることを好まないのである。」
と。

 よく、人間は論理では動かない、論理だけで説得することはできない、
などという物言いを聞くことがあります。

おそらく、そのとおりでしょう。
が、これは、人間が非=論理的あるいは反=論理的生き物であることを意味しません。
事実はむしろ逆です。
人間は論理的な生き物であり、
論理を、理屈を通すことを最も重視するがゆえに、
自分が論理で説得されることを嫌うのです。

人間は、ただ無意識のうちに説得されるのではなく、
自分が説得されていることを明確に意識しています。
だから最も重要な論理で、
理詰めで説得されることをあたかも精神の敗北のほうに感じ、
それを自分で認めたくないわけです。

これに対して、感情の操作によって説得されることは、
われわれのプライドを傷つけません。
情に流されて説得されるというのは、むしろ与える快感を、
優越感を得ることができます。

われわれは、負けるときは、
自分がさほど重視していないもので負けたと思い込みたいのです。
…(中略)…

 話を戻しましょう。
議論というものを嫌っている人はたくさんいます。
何が嫌いなのかといえば、
自分が理屈で言い負かされ論破されるのが嫌いなのです。不快なのです。
しかし逆に、自分が他人を理屈でやりこめることはじつに気持ちがいい。
それは理論的な生き物である人間にとって、最も本質的な喜びを与えてくれます。…

(香西秀信『レトリックと詭弁』ちくま文庫、2010年、7-8頁)



論理的に反論をされると、
その内容は決して詭弁ではないのにも関わらず
反論された側が「それは詭弁だ」と食ってかかるという場合があります。

後で詳しく述べたいと思いますが
「詭弁」というのは相手を論理的にやりこめることではなく
むしろその逆で、
実は論理になってない非論理的な虚偽による論法で
相手の反論を封じ込める手法のことを言うのですが、
そのように詭弁でないものを「詭弁だ」とまで言いたくなるのは、
相手に「論理」で負けたくないという「感情」なのでしょう。

論理的に反論されて論理的に言い返せないというのは
自分のプライドが傷つくのです。
相手の主張を詭弁だということにすれば、
相手に論理で負けたのではないということで済むからです。

一方で、元々論理的であるからこそ、論理で説得されることを嫌い、
「感情」で信じたいのが人間なのだとも言えるでしょう。

上に挙げた文章の最後のほうに出てくる
「不快である」とか「気持ちがいい」とか
「本質的な喜び」というのも、感情ではないでしょうか。

それで無意識に感情に基づいて行動していながら、
しかもそれを好んで認めようとはしません。
「本質的に理性的な生き物である」からです。
感情の部分で「理性で判断していると思いたい」のです。

つまり、感情というのは、理性に反するものではなく、
むしろ感情が理性をも左右すると言えるのでしょう。

だから、感情と理論が反するときには葛藤が起こりますが、
そんな時は論理よりも感情のほうを尊重しがちなのが人間なのです。 注1) 

宗教ではあくまで本人の自由意志という形がとられますから
そこでは「説得」という形で意思の決定に介入がなされます。

その際に大いに効果を発揮するのも
「感情に訴える」ということなのです。 注2)

このサイトでは「論理的思考」ということをテーマに「論理」という側面から
考えたいと思いますが、
しかしながら、人間には感情で突き動かされてしまう部分のほうが大きい、
つまり、潜在的には論理より感情で訴えられるほうが効果がある
ということを考えに入れておいていただきたいと思います。



さて、感情に関して関連することを一つ考えたいと思います。

「カルトと言われる宗教が信者から奪うものは
「『論理的思考能力』『理性的批判能力』『客観性』である」という
話を聞いたことがあります。

個々人の論理的思考や教団批判は徹底的に糾弾されるのだと。
「頭でなく心で受け止めなさい」とか「教えの素晴らしさは理屈ではない」
「あなた(の批判)は教えの深さがまだ分かっていないだけ」「素直に聞きなさい」
などと言われるのだと。

これは言えているのではないでしょうか。

親鸞会でもよく「理屈だけではなく、心で知らされる」等と言い、
「頭ではわかっても、心ではわかっていない」等の言い方をします。

しかし、考えてみますと、その、頭・理屈と反する「心」とは何でしょう。

何か、頭とは別に特別な心があるように思わされていましたが、
結局私の中で追い求めようとしたらそれは
「感情」でしかないのではないでしょうか。

普段の生活でもあります。理屈ではそうとわかっているんだけど…
そうはしたくないとかできないとか、心からは思えないと言います。

「頭ではわかっても、心で知らされなければ」と言って
何かを「心で知らされること」が信心決定の条件
のような理解にされてしまいます。

そしてその「心で知らされる」というのは
私たちが想像で思い描いて追い求めてしまうのは
とことんそう思い詰めたのであったり
「〇〇でしたー!!」というような「感情の」高ぶりのようなものです。

一方で、信心というものは感情信心ではない(これはそのとおりです)
と否定されますから、
いくら感情を追い求めたところで
自分で感情ではないと否定をするから、
どこまでもこれは違う、これも違うとグルグル…当たり前です。

「この教えは間違いない」
「求道して行けば間違いない」
「あの方が仰るのだから間違いない」
「あの人や他の人達がこれだけ信じているのだから間違いない」
感情で信じながら

「地獄行きの自分」
「極楽行きの自分」
大きな感情で知らされるような体験を追い求める
ようなものだったと思います。

感情で信じながら、
感情を追い求め、
感情ではないと自己否定もしなくてはなりませんから、
救われなくて当たり前なのです。
(すべての人がこのような状態に陥っているという
意味ではありません)

信心決定とは、
感情の高ぶりがあったことでも、
私が知ったことでも、
私が思ったことでも、
ないのですから。

「感情で信じたい」心を利用されていたのではないでしょうか。

注1)
感情バイアス

(参考)

情報処理過程をゆがめる情報──感情の操作

 快あるいは不快な感情を喚起することが、人間の情報処理過程の論理性をゆがめることは、さまざまな形で明らかにされてきている。このことは常識的理解でもわかるだろう。たとえば心理学においては、感情が、動機づけ的機能をもつことは動物実験などからも実証されている。一例をあげると、ネズミを使った実験で、電気ショックを受ける恐怖が、危険回避行動を自発的におこなわせるようになることが示されている。
(西田公昭『マインド・コントロールとは何か』紀伊國屋書店、1995年、71頁)


注2)
(参考)

感情に訴える

 理性的な人の特徴は、知性と感情のバランスが保たれていることだといえよう。そのバランスが保たれていれば良い判断が生まれてくる。適応するためには、行動する前に現実を理解していることが必要である。行動への動機づけを高めるには二つの方法がある。一つは、ある状況で必要なものをよく考えさせることであり、もう一つは、強く感情に訴えることである。大部分の人に対しては理路整然とした議論をするよりも感情に訴えかけるほうが、より効果的である。
(トーマス・W・カイザー&ジャクリーヌ・L・カイザー『あやつられる心』マインド・コントロール問題研究会訳、福村出版、1995年、131-132頁)

コメント有り難うございます

2011年04月08日10:07

No title
非常に冷静に詳細に、会の活動や教義を受け入れる過程を分析されて、これからの展開を楽しみにしてます。
私も、仕事の人間関係で苦しい想いをした時分は、聴聞が救いでした。
会の活動を受け入れる素地が自分にあったと思います。
しかし、生きる支えになることと、往生の一段の解決は全く質が違いますね。
今は、自由人として求めています。
末端会員から見ても、この数年の会長には行き当たりばったりの不審な言動が多くあります。
昔(二十年前)は、簡単に正体がバレるような事は言っていなかった様に思いますが。

このホームページにふさわしいコメントと判断されたら、公開しても結構です。会を非難コメントは、このホームページに相応しくないかも知れませんね。



コメントをいただきまして有り難うございます。
ご期待に沿う様努力したいと思います。
最近も実感することですが深く信じていた頃とは
心理や思考にギャップがあると思いますので
少しずつやっていきたいと思います。
あまり肩肘張らずに読んでいただけたらと思います。

仰ることは私もそのように感じているところで共感いたします。

コメントはある程度テーマに沿ったもので節度を守っていただければ
ご自由に書いていただけたらと思います。

その都度お返事はできないかも知れませんが、必要に応じて
記事で取り上げさせていただきたいと思います。

何卒よろしくお願い致します。

獲信者なら間違ったことは言わないのでしょうか

2011年04月01日09:55

獲信者 注1)は間違ったことを言わないのでしょうか?

そんなことはありません。高森会長も次のように指導しています。

「救われた人でも、親鸞聖人の教えと異なることを言うことがある。
それは教学を知らないからである。」



「高森会長の言われることに間違いはないに違いない」という根拠の一つに、
「あの方は獲信している(と思われる)から」ということがあるように思います。

「〇〇氏は(獲信しておられるだろうから)間違っていることはない。」
(〇〇氏は(獲信しておられるだろうから)間違えて説くことはない。」

と信じているとするならば、これは、
「〇〇さんが獲信している(と思われる)から」ということを「根拠」に、
間違いはなかろうと信じている状態です。

「獲信しているかどうか」は、第三者に判定できるようなものではありません。
親鸞会でも「三業で信心の有無ははかれない」と言います。
究極的な判定や断定はできないという意味ではこれは正しいでしょう。
「獲信しておられるから」とは誰にも言えないのです。

しかし「獲信しておられるだろう」ということを思うのは自由ですし、
実際思うことです。心の中では三業ではかっているのです。

ですからこのサイトでは、高森会長の信心の有無ではなく
(本当のところはわからないのですから)
獲信者と言われている高森会長の「言っていること」や「説いていること」と、
それを「聞いたほうがどう受け止めているか」ということについて問題にしていきます。
お間違えのないようお願いします。

故意であってもなくても、
間違ったことを説いている人でも救われますが、
間違ったことを聞かされているほうは、
その間違った理解のために雑行を捨てられないのならば
(他力に帰すことを妨げてしまっては)
いつまで経っても救われないからです。

では、仮に誰かが獲信しているとして、
その人は間違ったことは説かなくなるのでしょうか?

「獲信したならばこういうものを得る」ということはお聖教にも示されており、
そのことは言えます。

親鸞会は
「信心の有無は三業でははかれない」けれども、「信心は三業に現れる」
と言っています。 注2)
これは間違いではないと思います。

しかし、現れるのは信心だけでしょうか?
獲信しても、相変わらず
煩悩も三業に現れるでしょう。
智慧や才覚も三業に現れるでしょう。
俗な言葉で言えば、
性格も三業に現れるでしょう。
癖も三業に現れるでしょう。

獲信しても、
耳四郎のように盗癖のあった人はそのまま
盗みを働くこともあるでしょう。

嘘をつく癖のあった人は、
嘘をつくこともあるでしょう。
「こう言ったほうが自分に都合がいいから」と
事実とは違うと知りながら言うこともあるかも知れません。

高森会長もかつて『講師部員への徹底事項』として次のように指導しています。

・『真実信心獲得した人』=『親鸞聖人の教えを正しく教えることのできる人』とはならない。

・真実信心の獲得と、親鸞聖人の教え(教学)をよく知ってのみ、親鸞聖人の教えを、正しくお伝えする人になれるのである。

・どんなに切れるカッター(信心)でも、定規(教学)がなければ、真っ直に切れないのと同じだ。

・獲信した人に、一番大切なのは、聴聞と教学である。
 親鸞聖人が、法然上人のもとで、真剣に学ばれたのも、その為である。

 救われた人でも、親鸞聖人の教えと異なることを言うことがあるのは、教学を知らないからである。


一部よく意味のわからない言葉
(どんなに切れるカッター(信心)でも、定規(教学)がなければ、真っ直に切れないのと同じだ)
もありますが、それ以外はそのとおりなのではないでしょうか。
高森会長も言っています。
「救われた人でも、親鸞聖人の教えと異なることを言うことがある」のです。
「教学を知らないから」です。

これは、誰でもその危険性があるということです。

高森会長についてもその可能性からは免れないのです。

つまり、「たとえ高森会長が獲信しているとしても、教学を知らないなら、親鸞聖人の教えと異なることを言っているかも知れない」のです。

高森会長に間違いないと信じる根拠は一つではなく他にもあると思いますが
(それはそれでその人の信仰ですが)、
「獲信しているなら、聖人の教えと違うことは言っているはずがないだろう」というのは
確かな根拠ではなく、個人的な思い込みや願望でしかないのです。

そう信じたい、信じているということもあるのでしょうが、

「信じている」というのは、疑っているということである


親鸞会でもよく聞いたように、
どんなに深く「私は信じている」と言っても、
それは疑いを含んでいるのです。

そこに、人間が人間を信じることの限界があります。

これに対する反論としては
「いや、高森会長は教学を知っているから大丈夫だ」
というものが考えられますが、

「高森会長が教学を知っている」というのは、
誰にわかることなのでしょうか。
誰が言っていることなのでしょうか。
どうしてそのように思うのでしょうか。
それは知っていることなのでしょうか、それとも信じていることなのでしょうか。


注1)
獲信者という言い方はあまり好きではないのですが、あえてそのような言葉をつかっています。
その他にも、親鸞会的な言葉遣いをしています。


注2)
高森会長は以下のように指導しています。

        信心決定したら
        ↓     ↑
        ↓     ↑ だから信心決定
いくら言って↓     × しているとは、
も良い    ↓     ↑ 絶対言ってはならない。
        ↓     ↑
         心はこうなる
         口はこうなる  (三業)
         身はこうなる

本当の話の中に虚偽を混ぜる

2011年04月01日09:53

ある人が嘘つきだとしても、その人の言ったことの全部が嘘になる訳ではない。

本当の話の中に虚偽を混ぜるから騙される。


「親鸞会のトリック」と題したサイトですが、
具体的なトリックの話をする前に、
いくつかその前提として考えてみたいことについて書きたいと思います。

考えてみれば当たり前のことなのですが、
ある人の話が嘘ばかりなら
誰も話など続けて聞くはずがありません。
すぐに見破られてしまいます。今日は4月1日ですが、
「今日は4月1日です」という事実を語ったのが詐欺師であったとしても、
「今日は4月1日だ」という事実が嘘になる訳ではありません。

「嘘をついて本当でないことを本当であると思い込ませ、
金品を奪ったり損害を与えたりする人物」のことを「詐欺師」というのであって、 (注1
詐欺師が語ったことが全部嘘になるということではないのです。

実際、詐欺師は本当の話のなかにもっともらしい嘘を混ぜます。
しかも巧妙に。
そうして信用させるのです。

誰かのいうことが一部正しいからと言って
その人のいうことが全部正しいとは言えませんし、
一部間違っているからと言って、全部が間違っているとも言えません。
またそのように考えるのは論理的ではありません。

親鸞会に関して言えば、出されているお聖教の言葉そのものは正しいのです。
私自身、「必ずお聖教の言葉を根拠として挙げているから正しいのだろう」と思っていました。
しかし、その根拠としての使い方や解釈に大いに問題があるのだと
今では言わざるを得ません。

ですから、高森会長の話の中にも正しい部分はあると思っています。
(どんどん無くなってきているような気もしますが。)
当然その部分については、間違った話とは矛盾することになります。

自分が信じていたのはどこだったのか
何を根拠に正しいと信じていたのか
そこがどう間違っていたのか
どうして信じてしまったのか
考えてみることで新たな発見もあるのではないでしょうか。

(注1)
詐欺
騙す

動機

2011年04月01日09:48

他人の悪を批判するなら自分の悪をしっかり見つめ認識しなさい。

それが悪を批判するという事です。



上の言葉はテレビドラマ『金八先生』最終回の中で、
金八先生がクラスの生徒に語っていたものです。
前後も含めると以下のような言葉でした。

悪はどこにありますか?

警察にありますか?
学校にありますか?
路地裏のゲームセンターにありますか?
悪はそんなところにはない!

悪は皆さん方の心の中にあります。

他人の悪を批判するなら自分の悪をしっかり見つめ認識しなさい。
それが悪を批判するという事です。



”騙されていた”ということは
決して恥ずかしいことではないと思います。

なぜなら、騙されていたという自覚があるということは、
それは即ちもう既に今は騙されてはいないことを意味するからです。

「騙された」というのは、常に過去形です。
騙されていたと気付いたときにはもう騙されてはいない。
そしてそこに気付いたからこそ考えることができることもある。

騙されたのにも、
私の中に"騙されたい心”があったからなのではないでしょうか。

騙されている間、
お金を出すことや苦労をすることと引き替えに
安心したり満足したりしていた部分もありました。
刹那のものとはいえ、
「こうしていれば地獄行きを免れる」といういくらかの安心を
教団から得ていたのです。

おかしいな…と思う心を
抑えたのは何故だったのか。

結果として、
間違ったものを信じ、
間違った教えを広めることに加担してしまった。

思考を停止していたことへの反省から
考えてみようと思いました。
それが動機です。

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Author:lonli
元親鸞会会員。

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