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正しさは視点によって変化する

2011年05月27日23:52

●論理的な思考法1【正しさや善悪は視点(前提)により変化する

さて、三つの前提の最後の一つに「視点」という概念があります。
誰の視点を前提に置いて考えるかによって、結論の正しさは変わってしまいます。

『論理的な主張の仕方』


前回、「逆は必ずしも真ならず」ということから
関係性の一つの捉え方についてを考えましたが、
当然ながら二つの物ごとの関係性は
「AならばB(AはBに含まれている)」の一通りだけではありません。

AとBの二つの集合の関係で示すと次のようになります。
まとめて
わかりやすくするために例として数の集合で表してみました。
一つずつ見ていきます。
A奇数B偶数
↑まず①は
AとBに共通の要素がない場合です。
交わりがないという状態です。偶数ならば奇数でないし、
奇数ならば偶数であることはありません。
A偶数B奇数
↑しかし同じ数字でも、Aを2の倍数、Bを3の倍数という
集まりにすると、両方に共通する要素が生まれます。
2の倍数であって3の倍数である、おなじみの”公倍数”が存在します。

偶数と整数
↑Aを偶数にして、Bを整数にしたらどうでしょうか。
前回の、包含関係になります。
「AならばBである」のとおり、偶数ならそれは整数です。
しかし整数であっても偶数であるとは限りません。

A=B
↑「AならばB」のとき、同時に「BならばA」も言える場合があります。
AとBが互いに必要十分条件であるとき、
AとBは同値で、AがB(BがA)の定義となります。
(前回の例で「私の妻は女である」のとき、
「女ならば私の妻である」とは必ずしも言えませんが、
”必ずしも”であって、言える場合があります。
無人島に住んでいて、女が妻一人しかいないような場合です。
このときは、この島では
「私の妻は女である」なら、逆の
「女ならば私の妻である」も言えます。
この島に限っては、女⇔妻となっているからです。)

以上、上で示した例で言えば、
・奇数の中には、偶数のものはない。
・2の倍数の中には、3の倍数であるものもある。
・偶数ならば必ず整数だけれども、整数だからといって
偶数とは限らない。
・自然数と、一から始まって一ずつ増えていく数の集合
とは、同じことを指している。
のように、同じ”数”といっても、
その見方(視点)によってこれだけ前提は異なってくるのです。

二つの事柄が関係しているのなら、
・互いに相反するものなのか、
・含まれてはいないが共通項目がある関係なのか、
・どちらかに含まれる関係にあるのか、
・同義なのか。

物事の関係性を知らずに無視する親鸞会は
この点も曖昧なまま利用するのです。
その都度都合のよい立場に立って話をします。
「雑行を捨てよとは善を捨てよではない」も、
雑行と善が同値(同義)ではないことを利用しているのです。
正しい雑行の意味を知れば、
雑行⇔善ではないことは明らかですから、
「雑行を捨てよとは善を捨てよではない」では全く曖昧で説明不足です。
善と雑行を混同させるだけです。

つまり、話をするならどの視点に立って話しているのか
ということです。
論点、立場と言ってもいいでしょう。
視点が変われば正誤も善悪も変わるのですから、
視点・論点がコロコロ変わるような話では議論になりませんし
よくわからないのです。
浄土真宗であるなら、いつでも「(仏教の中の)浄土真宗では」という
立場に立って話をしなければならないのです。

視点が変わればどちらが正しいかも変わるのです。
諺でも、反対の意味のものが多くあります。
いくつか挙げてみると、
・「善は急げ」←→「せいては事を仕損じる」
・「三人寄れば文殊の知恵」←→「船頭多くして船山に上る」
・「渡る世間に鬼はなし」←→「人を見たら泥棒と思え」
・「二度あることは三度ある」←→「柳の下のどじょう」又は「三度目の正直」
・「一石二鳥」←→「二兎を追うものは一兎を得ず」又は「虻蜂取らず」
・「危ない橋を渡る」←→「石橋をたたいて渡る」
等。
それぞれに真理を表しているから諺として使われてきたのであって、
どちらも正しいのです。

親鸞会で善を勧める根拠となっている考え方として、
「できるかできないかは体験してみなければわからない」
というものがあります。
親鸞会でよく聞いた母親が子供に瀬戸物を持たせる譬え話でも、
(『本願寺なぜ答えぬ』P127~130、飛雲様にも取り上げられています)
「合点と体験は大ちがい」と題されているように、
「できないことを体験させる為に諸善を勧める」
と言っています。

しかし、一方で高森会長は、
体験しなければわからない人間は、
この寒苦鳥のようにおろかなものだよ、畜生にも劣る人間だね。
とも言っているのです。 注1)

この、相反する二つの事
・「体験しなければわからない。」(やってみなければ、わからない)
・「体験しなければわからないようでは愚かである。」(やってみなくても、わかる)
はどちらが正しいのでしょうか?
反対の意味の諺のごとく、どちらも正しいのです。時と場合によるのです。

野球の試合毎日やっていますが、どちらが勝つか、
あるプロ野球選手が打てるかどうかは、「やってみなければわかりません。」

しかし、普通の高校球児がプロ野球で投げて
完投勝利ができるかといえばできません。
プロ選手になっても高卒ですぐ活躍するのは難しいのです。
「やらなくてもわかるでしょう。」

ある人が受験勉強に励んでますが、模擬試験の合否判定は微妙なところです。
こんな人は合格できるかどうかは「やってみなければわかりません。」

しかし、偏差値が65以上必要と言われる難関校に合格するのに、
自分の偏差値が45程度の状態では、大抵は受験しても無理だと思うから
相応の大学を受験するのです。「やらなくてもわかる」のです。
(中には受験して合格する場合もあることは否定しません。)

私が善に励んで、その善で往生できるかは私にとって
「やってみなければわからないこと」なのでしょうか?
浄土真宗は、どちらの立場に立つのでしょうか。
「濁世の道 俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。」(親鸞聖人)
真実の善はできないと言われる言葉を受け入れないのなら、
聖道門を行くということです。
真宗的には進んでいるどころか、逆行です。

仏教には、聖道門と浄土門がありますが、
往生成仏を目指すという点では同じです。
しかし、何によってなされるのか。その点では
自力と他力の全くの違いがあるのです。

浄土門の話のはずなのに、
ある時は聖道門に立って、例えば
「後生の一大事を解決するのは大宇宙を持ち上げるより重いのだ」
と言ってみたり、 注2)
善の勧めの根拠として七仏通誡偈を出してみたり。 注3
散々言われていることですが、
親鸞会は、聖道門と浄土門の関係を知らないのです。

今、どこの立場で、上の図なら、
①~④のどの関係にあって、AとBのどこの位置に立って、
何について何に対して話しているのか、話すべきなのか
が前提として定まっていなければなりません。
そこが定まっていないと、議論ならかみ合いませんし、
話ならよくわからない話になります。
視点によって、正誤は変わるからです。

そしてもう一つ注意しなければならないことは、
両方とも正しいこと、同等のことでも日本語の場合は、
後に置かれたものに重点が置かれるということです。
言いたいことは後に置かれ、聞いたほうもそのように受け止めるのです。

先の例を使って言えば、
「『善は急げ』とは言えど、『せいては事を仕損じる』だ。」
と言えば、「せいてはいけない、慎重にやろう」というニュアンスになりますし、
「『せいては事を仕損じる』とは言えど、『善は急げ』だ。」
と言えば、「急いだほうがいい」というニュアンスになります。
同じ言葉の前後の順番を変えただけです。

同様に、「善を捨てよではなく、雑行を捨てよである」とは言わず、
「雑行を捨てよであって、善を捨てよではない」と言うのは、
何か捨てさせたくない意図があるのです。
「善で助かるのではないが、善をしなければ善果が来ない」
も然りです。


注1)「そうだね。ヒマラヤの寒苦鳥は、日が出ていて暖かい時は遊んでばかりいて、寒い夜が来ると寒い寒いと泣き毎日そのくりかえしをしているそうだよ。体験しなければわからない人間は、この寒苦鳥のようにおろかなものだよ、畜生にも劣る人間だね。」顕正新聞昭和48年8月20日発行

注2)親鸞会公式HP『龍樹菩薩と弥陀の本願』

注3)『親鸞会は諸行往生10』
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言霊の幸ふ国~言葉と思考と論理学~

2011年05月22日23:20

Ⅰ 言霊の幸ふ国 
─論理と集合ことはじめ─

  コドダマノサキハウクニ

 むかしから、未開な社会では、言葉には人智の及ばない不思議な力が宿っていると信じられてきました。これを言霊ことだま信仰というのですが、ご多分にもれず古代の日本人も、言霊に対する信仰は厚く、ひとたび言葉で表現すると、それは言霊の力によって現実になると信じられていたようです。万葉集でも「そらみつ大和やまとの国は言霊のさきはふ国と語りつぎ言いつがひけり」と言霊に敬意をはらっているくらいです。

 言葉に表すと即、実現するというのはちょっと信じ難いし、もしそれがほんとうなら、「私は億万長者だ」と下品なことを叫びたい心境です。しかし、言葉即現実でないにしても、少なくとも言葉がなければ'概念'も存在しないようには思われます。たとえば'美'という言葉が存在しないと思ってみてください。私たちは豊かな自然の風景を眺めると感動するし、すぐれた工芸品や生け花に接しても感動を覚えますが、さて、これらの感動を呼び起こしたものはなんでしょうか。

 それはきっと'美'というものなのでしょうが、なにしろ'美'という言葉がないのですから統一された美の概念も存在できないように思えます。多くの人に共通の概念が発生し、それが美という言葉を生んだとも考えられないことはありませんが、少なくとも美という言葉が誕生しないことには概念が万人のものとして認知されないことも、また事実でしょう。まさに、はじめに言葉ありき、なのです。

 言葉はこれほど重大なのですから、間違いなく、きちんと使われなければなりません。言葉が異なれば意味する概念も現象も明らかに異なるからです。それにもかかわらず、現実にはずいぶん無造作に使われるために意味があいまいであることが少なくありません。近年よく指摘される「言葉の乱れ」について言っているのではありません。古来、名言といわれているものの中にも意味の不確かなものが少なくないのです。たとえば……。

~(中略)~

 せっかく、言霊の幸ふ国に生を受けた私たちとしては、言葉の使われ方がこのようなていたらくでは、危なっかしくて夜もおちおち眠れない心境です。(大村平著『論理と集合のはなし』日科技連 1981年 p1~2)



この文章は、ある本の冒頭に書かれていたものです。
以前に記事の中で触れた
言葉の定義・曖昧さということにも関連した話なのですが、
これが何の本の最初に書かれてあるのかというと、
国語の本ではないのです。
「論理と集合」について書かれた数学の本なのです。
(著者はこのシリーズで数学の本を何冊か出していますが
アマゾンのレビューを見ても好評のようです。)

話術や論述に関する議論術や詭弁に関する本を見ても、
大抵、形式としての論理即ち
高校の数学で学んだ「集合」や「逆・裏・対偶」といった
論理学ついてかなりの誌面を割いて説明がされています。

つまり、言葉を正しく使うことと、
論理(学)とは切り離せない関係にあるのです。

この著者はこの後に論語の
「巧言令色すくなし仁」という一節は
「巧言and令色には仁が少ない」 注1)のかそれとも
「巧言or令色には仁が少ない」 注2)なのか、
この場合は「巧言or令色には仁が少ない」と言っているのである
という例や、

「議員の半数はバカである」を否定すると
「議員の半数はバカでない」になるのか?
という例を出しています。
(なりませんね。同じことを言っているだけです。)

そして続いて、

 '論理'という日常用語があります。彼の思考は論理的だとか、彼の議論は論理が通っている、というように使われることからもわかるように、思考の筋道を意味するのでしょう。そして、論理的であるためには、「議員の半数はバカ」の否定が「議員の半数はバカではない」ではく、「議員の全員がバカではない」か「議員の全員がバカ」であることや、「巧言or令色」と「巧言and令色」とが異なることなどが、きちんと理解されていなければなりません。そこで、正しい思考の形式や法則を体系づけた学問が必要になります。これを論理学といいます。ときには、学を省略して論理ということもあり、この本の'論理'はこの意味です。(同p6~7) 注3)


と述べ、論理とは思考の筋道を意味すること、
そして正しい思考の形式や法則を体系づけた学問が論理学である
ことを述べています。

小野田博一著『論理的に話す方法』(日本実業出版社1996年)にも

 「論理的に正しい」とは、ラフな言い方をすると、形式が正しいことを意味します。 
 より正確にいえば、発言の論理的正しさは、内容ではなく形式にかかわるのです。(p40) 


 …論理的な正しさは、それでもなお非常に重要なのです。
真実をいくつ積み重ねても、組み立て方が正しくなければ、得られる結論は真であるとはかぎりません。(p44)


とあり、「論理的な正しさ」を正確に判断できるようになることが
詭弁を見破ることには欠かせないことを述べています。 注4)

そしてこのあと、論理的な正しさを正確に判断できるようになるための
トレーニングの第一として、
「対偶」について扱われています。
この「命題」の問題は大抵どの本にも扱われており、
やはり論理的思考の基本であると思います。
二、三挙げてみます。

☆対偶
 論理的な発言をするためには、論理学に関する知識はほとんど何も知らなくても大丈夫ですが、おそらく誰もが知っている3段論法以外には、高1の数学で学ぶ対偶(contrapositive)に関する知識はぜひともあったほうがいいでしょう。[なお、本書ではベン(Venn)図は扱いませんが、推論をする際、ベン図を使う練習をしておくと役に立つこともあります(少なくとも頭のトレーニングにはなります)。ベン図の使い方については拙著『挑戦!論理パズル』を参照してください。]

 命題「AならばB」に対し「BでないならAではない」を対偶と呼びます。
 
 命題とその対偶は、論理的に同値です。したがって、命題が真ならその対偶も真で、命題が偽ならその対偶も偽です。いくつかの命題とその対偶を示しましょう。(同著p46~)



この後に命題とその対偶の例が挙げられているのですが、
若干分かりにくいので、別の本から例を挙げます。
文章にすると難しく感じるかも知れませんが、
至って簡単なことです。

 主張の言いかえ

 はじめは当たり前だと思っていた話が、途中からだんだんおかしくなる、というのは決して珍しい話ではない。へんだな、と思いながらも、理クツにヨワい男性や、すなおな女性が、まんまと術中に陥ったりする。
 「術」のひとつは、「犯しやすい推論上の誤り」を逆用することである。誰もが犯しやすい誤りなら、わざと犯したところで、見破られる可能性は小さいであろう。幸か不幸か、推論上の誤りは、アリストテレスの時代から分類・整理されているから、しばらくその分類にしたがって、詭弁術に使えそうな「術」をひろってみることにしよう。

 正しい言いかえ

 ひとつの同じ主張(論理学の言葉では、命題)でも、いろいろと言いかえることができる。たとえば、
  AはBである。
という主張は、
  BではないものはAではない。
と言いかえられる。
  猿は尻が赤い。
を言いかえれば、
  尻が赤くないものは猿ではない。
という要領である。もちろん前者(言いかえるまえ)が正しければ後者(言いかえたあと)も正しく、一方が誤りなら他方も誤りである。同じように、
  CはBではない。(例、夫は女ではない)
を言いかえれば、
  BはCではない。(例、女は夫ではない)
となる。ここまでは正しい。

 逆は必ずしも真ならず

 主張「AはBである」に対して、
「BではないものはAではない」は、もとの主張の対偶と呼ばれる。また「BはAである」を(もとの主張の)逆「AでないものはBではない」を裏という。次に、ひとつの主張
  AはBである。
と、その逆の主張
  BはAである。
の真偽を考えてみよう。たとえば、
  1たす1は2である。
の逆は、
  2は1たす1である。
となるが、これはどちらも正しい。しかし、
  猿は尻が赤い。
からと言って、
  尻が赤いものは猿である。
とはいえない(赤エンピツ、まっ赤なスポーツ・カーなど、つまらない例がいくつもある)。このことをさして「逆は必ずしも真ならず」という。昔から有名な例は、
  英雄は色を好む。
である。これが正しいとしても、
  色を好むものは英雄である。
とはいえそうもない。浮気がバレた亭主が、「ナニこれはおれが英雄であることの証明なのだ」などとがんばっても、それは詭弁にすぎないのである。
(野崎昭弘著『詭弁論理学』中公新書1976年初版 p79~82)



まとめると、

一つの命題
「(すべての)Aは(必ず)Bである」に対して、

「BでないものはAでない」を対偶、

「BはAである」を逆、

「AでないものはBではない」を裏



ということです。

このうち大事なことは、

・命題が真なら「対偶」も真
(ある命題は対偶の形でなら言い替えられる)

・命題が真であっても「逆」は真であるとは限らない
(逆の形では言い替えられない)



です。ベン図で示すと、
すべてのAはBである
ということです。

AがBに含まれているとき、つまり
「AならばB」のとき、
「BならばA」とは必ずしも言えません。
(「BであってもAではない」ものがある)

しかしこのとき、同時に必ず
「BでないならばAではない」←対偶
は言えます。

(例)A:私の妻 B:女性…(私の妻は女に含まれている)
「私の妻は女性である」のとき、
×「女性ならば妻である」←必ずしも言えない。
〇「女性でないならば私の妻でない」←言える。

これ一つを理解するだけでも、
親鸞会の詭弁はかなり見抜けるようになるように思います。

前回の、
「雑行を捨てよとは、善を捨てよではない」という親鸞会の主張は
善という言葉の語義の曖昧さを利用した虚偽ですが、
すべての善が雑行ではないけれども、
往生に間に合わせようと思ってする善ならば雑行である」
ということを考えれば、この親鸞会の言い方は
善知識方がなされたせっかくの「雑行」という言葉の定義を
台無しにしてしまう説明だということが分かるでしょう。

(余談)
上で取り上げた小野田博一著『論理的に話す方法』(日本実業出版社1996年)
は、トレーニング形式の本でわかりやすいのでお奨めです。
その本の最初に、『考えて!』と題して、
どれくらい論理的であるか知るためのいわば論理度テストのような
質問がいくつか書かれてあります。

その最初の質問は以下でした。

 あなた(Y)はZ氏と時間的・空間的に距離を置いて──たとえば紙上で──論戦をしているとします。Z氏があなたの発言に対して次にように述べました。
「Y氏は事実を歪めている。私の考えを誤解し、自分に都合のいい事実しか述べていない」
 今、あなたは新聞記者のインタビューを受けています。ここであなたが、
「Z氏の意見は根拠のないたわごとだ」
と述べるのは、論理的な発言という観点からは、、、、、、、、、、、、、理想にはほど遠い発言である
ことがわかりますか?
 あなたならZ氏にどう発言しますか?



注1)
「巧言and令色には仁が少ない」の「and」とは、「且つ」の意味で、「巧言and令色」とは巧言であって令色であるという二つの条件を両方とも満たしているという意味。

注2)
「巧言or令色には仁が少ない」の「or]は、「または、もしくは」という意味で、「巧言or令色」とは、巧言か令色どちらか一方でも当てはまっていればいいということ。

注3)
この後さらに著者は、論理学には「認識論的論理学」と「形式論理学」の2種類があり、ここで取り扱う論理学が「形式論理学」であることを述べている。

注4)
 「論理的な発言をするためには、あなたは「論理的な正しさ」を正確に判断できるようにトレーニングしなければなりません。ただし、論理学の練習問題の難問を解けるところまで到達する必要はありません。論理学を学んだことのない人でも難なく理解できるような超基本問題が正しく解ければいいのです。これはいわば基礎トレーニングなので、「論理的な強い反論をする」とか「詭弁を論破する」など論理的な発言をするためには欠かせないものといえるでしょう。」(同著p44)

話し手と聞き手の問題・ダミー論証~「信仰が進むから、善をしなさい」② ~

2011年05月13日11:13

一(論理的な書き方).結論は明言し、根拠は余す所なく十分に書く。読み手に“推察させる”余地を残さない。

二(論理的な読み方).書き手が明言していない事柄を想像で補完してはいけない。


(「論理的に考えるメリット」)



上の引用は「論理的な議論の仕方」の序章
「論理的に考えるメリット」からのものです。
全文は以下、論理的な書き方と論理的な読み方について
平易な文章で書かれてあるので読んでみてください。

◇ 「小説」の書き方と、「論じる文」の書き方は異なる。

小説では、作者の意図を明確に表現することをあえて避けて、
暗に含ませるような表現法で、読者に、
登場人物や作者の気持ちを推察させる手法が取られますが、
このような手法は“論じる文章”の書き方としては不適切です。
(”論じる文章”とは、自分の意見を言語化して、
他者を説得するために書く文章のこと)。

しかしながら、私たち日本人は、
学校教育においては文学を中心とした国語教育を受けてきており、
その反面、“論じる文章”の読み書きの仕方に関してはほとんど教育されておりませんでした。

それゆえ、私たちは、“論じる文章”を書こうとするさいに、
つい文学的な手法を転用してしまいがちです。
しかし、“論じる文章”を読み書きするさいに、
文学的な手法を用いると、主に、次の二つのような問題が生じます。

一 (書き手の側の問題).
書き手が、主張の重要な構成要素である「根拠」を十分に書かずに、
読み手の推察力に頼ってしまうことがある。
さらに、自分の意図が正しく伝わらないと、
それを読み手の読解力のせいにすることがある。


このような方法だと、書き手の真の意図を理解できる者は、
もともと書き手に近い意見を持つ、
予備知識と読解力に長けた人物に限られてしまいます。
特に、異なる意見を持つ人に対する説得力は格段に低下します。

二 (読み手の側の問題).
書き手の落ち度により根拠が書き落とされている場合でも、
読み手は、書き手の意図が理解できないのは自分のせいであると誤解してしまう。
そのため、読み手は想像力を働かせて、足りない根拠を埋めようとして、
書き手が意図していないことまで勝手に色々と推察してしまい、その結果、
本来は書き手の意図でないことまで書き手が意図しているものだと決め付けてしまう。
この方法は、論理の世界では「ダミー論証」と呼ばれる詭弁の一種です。
(詭弁とは、誤った論法のこと)。

具体例を見てみましょう。

A氏 「私は子どもが道路で遊ぶのは危険だと思う。」
B氏 「そうは思わない、子どもが外で遊ぶのは良いことだ。
A氏は子どもを一日中家に閉じ込めておけというが、
果たしてそれは正しい子育てなのだろうか。」


ここでA氏は、「子供を一日中家に閉じ込めておくべきだ」とは
言っていません。
もしかしたら、B氏は、学校の国語授業で習った
“相手の気持ちを推察する技術”を応用したのかもしれませんが、
これではダミー論証です。

ここまで説明すれば、
論理的な読み書きの仕方というものがどういうものであるかが
漠然と分かってきたと思います。それは、次の二つです。

一(論理的な書き方).
結論は明言し、根拠は余す所なく十分に書く。読み手に“推察させる”余地を残さない。

二(論理的な読み方).
書き手が明言していない事柄を想像で補完してはいけない。



この文章は「書き手」を「話し手」に、
「読み手」を「聞き手」に言い換えることができるでしょう。
自由な解釈が許される詩や小説ならいざ知らず、
間違って伝わってはならない話や文章ならどうするべきか
またどう聞く(読む)べきか
考えさせられるものがあると思います。

非論理的になってしまったり、詭弁を使ってしまうというのは
故意に限りません。
しかし、文中にあるこの

一 (書き手の側の問題).
書き手が、主張の重要な構成要素である「根拠」を十分に書かずに、
読み手の推察力に頼ってしまうことがある。
さらに、自分の意図が正しく伝わらないと、
それを読み手の読解力のせいにすることがある。


これを故意に利用しようとすれば、

話し手は、主張の重要な構成要素である「根拠」を曖昧にして、
聞き手の推察力に頼ってしまえばいい。

それによって話し手に対して聞き手から疑問や批判があっても
それは、自分の意図が正しく伝わっていないだけだと
読み手の推察(理解・読解)力のせいにすればいい。

「それはあなたの聞き誤りだ」(あなたの理解が足りない)
ということにすればいいのだ。


ということになりませんか。

そして、

二 (読み手の側の問題).
書き手の落ち度により根拠が書き落とされている場合でも、
読み手は、書き手の意図が理解できないのは
自分のせいであると誤解してしまう。


そのため、読み手は想像力を働かせて、
足りない根拠を埋めようとして、
書き手が意図していないことまで勝手に色々と推察してしまい、
その結果、本来は書き手の意図でないことまで
書き手が意図しているものだと決め付けてしまう。


についても

話し手の落ち度により根拠が書き落とされている場合でも、
聞き手は、
書き手の意図が理解できないのは自分のせいであると誤解してしまう。

そのため、読み手は想像力を働かせて、
足りない根拠を埋めようとして、
書き手が言っていないことまで勝手に色々と推察せざるを得ず、
その結果、
本来は話し手が言っていないことを、
実際は相手の言っていることだと理解している。

ということが思い当たります。

曖昧でわからない話というのは気持ちが悪いのです。
本来人間は論理的であろうとするため、足りない部分を
自分のこれまでの経験や理解で想像して埋めようとするのです。
上の文章でいう”推察”です。

「どういうことなんだろう?」
→→→→(推察)→→→→→
「きっと、こういうことだろう」

自分が否定したくない内容のときには、
当然良いように推察は働きます。
思い出します…「深い御心なんだろう」…

話し手と聞き手の問題に戻りますが、一つの例で考えてみましょう。
親鸞会の根本教義とも言える
「善が間にあって助かるのではない。
しかし、善をしなければ信仰が進まない。
信仰が進まなければ助からない。」
という教え。
これも推察力を働かせざるを得ない物言いである
ということがわかるでしょう。

「善をしなければ助からないとは言ってない」
と高森会長は言っています。
しかしこれを聞いた会員は
「信仰が進まなかったら助からないのだから
善をしなければ助からない」と”推察”するのです。
曖昧だったり論理矛盾した言い方によって起こされる
このような理解がいくつもあるのです。

しかしそれを口や文章に出して言ってしまえば「聞き誤りだ」と言われますから、
講師や会員はどうするか。

皆判で押したようにそっくりそのままの曖昧意味不明の
会長の言説を丸暗記や丸写しで繰り返すのです。
それこそ間違いのない唯一の確かなものとして。
それはそうです。そのまま言ってさえいれば教団内では間違いないのですから。
ですからカルト化した宗教の信者は
自分の言葉で語ることができなくなるのです。

さて、以上を踏まえて、
詭弁のダミー論証についてです。

ダミー論証とは、詭弁の一種で、
相手が主張していないことを自分の都合の良いように表現しなおし、
さも主張しているかのように取り上げ論破することで、
相手の主張を論破したかのように見せかける手法です。
別名「わら人形論法」、「架空の論法」、
「ストローマン」とも呼ばれます。

ダミー論証は、
「Aである」とする主張に対して「Bではない」と述べる形式の誤りです。
論理的でない人は無意識にダミー論証を行うことがありますが、
そういう人を見かけたら優しく教えてあげてください。

「反論の禁じ手」)



引用の中で挙げた具体例で言えば、
Aさんの「子どもが道路で遊ぶのは危険だ」とういう主張を、
Bさんは勝手に「子供を一日中家に閉じ込めておくべきだ」という主張に
変えてそれに対して反論しているという誤りです。

相手の主張していない「架空の主張」を相手に見立てて
攻撃していることから、その架空の主張を藁人形に見立てて
藁人形論法と言われるのです。

ストローマン(英語:straw man)は、
議論において対抗する者の意見を正しく引用しなかったり、
歪められた内容に基づいて反論するという誤った論法、
あるいはその歪められた架空の意見そのものを指す。
藁人形論法ともいう。
語源は仕立て上げられた架空の存在を藁人形に見立てたことからである。
Wikipedia:「ストローマン」


これで前回と合わせて
・隠れた前提
・ダミー論証
について紹介しました。

そこで前回の続きです。まず最初の問題

阿弥陀仏に救われるためには
「信仰が進むから、善をしなさい」


の論理構造は以下のようになっています。

(隠れた)前提1:阿弥陀仏に救われるには信仰が進まなければならない。(信仰が進むということがある。)
前提2:善をしたら、信仰が進む。
よって、前提1と2から:救われるためには、信仰が進むから、善をしなさい。←(結論)

隠れているのは前提1です。上の結論は
前提1と2が両方成り立ってはじめて導かれます。
しかしまず前提1が間違いです。
平生業成の浄土真宗にはあてはまりません。 注1)

これだけで結論の根拠は崩れましたが、もっと言えば
前提2にも根拠がなく間違いです 注2)からこの主張には何も根拠がないということです。

よく浄土真宗を聞いてくださいというしかありません。

これも踏まえて、二つ目の問題です。

『信仰が進むから善をしなさい』とどこに勧められているか」と言ってきたら、

「では、『信仰が進むから悪をしなさい』と書かれていますか。
『善をするな、やめよ』とどこにおっしゃっていますか」


と、ズバッと言えばいいでしょう。


親鸞会に対する批判
『信仰が進むから善をしなさい』とどこに勧められているか」
に対する、親鸞会講師の

①「では、『信仰が進むから悪をしなさい』と書かれていますか。」
②「『善をするな、やめよ』とどこにおっしゃっていますか。」

という二つの反論についてです。
まず①の主張には親鸞会の考えによる隠れた前提が二つあります。

隠れた前提1:阿弥陀仏に救われるためには信仰が進まなければならない。
隠れた前提2:何もせずに信仰が進むということはないから何かをしなければならないに決まっている。善の勧めがないというなら悪の勧めだ。

です。
隠れた前提1は一つ目の問題のところで述べたように間違いです。

隠れた前提2は、主張①がダミー論証になっている原因である
親鸞会の誤った考えも同時に示しています。

親鸞会に対する批判は
『信仰が進むから善をしなさい』とどこに勧められているか」です。
これを親鸞会講師は「信仰が進むから悪をしなさい」という主張に
勝手に歪めてこれに対して反論しています。

隠れた前提1も2もまとめて言えば、親鸞会の定義で言っても
・信仰を進めたら救われると思ってする善
・何かをしたら信仰が進んで助かるだろうと思ってするすべての行為(善も悪も)
のことをすべて「雑行」というのですから、
「雑行は捨てよ」から両方とも間違いです。

もう一つここでわかることは、前々回も述べたように、
親鸞会の「善・悪」という言葉の使い方のおかしいことです。
これについては後で述べたいと思います。

以上からわかるように、①の反論は
・隠れた前提があり、その隠れた前提がいずれも間違い。
・ダミー論証であり、反論になっていない
ということです。

次に②「『善をするな、やめよ』とどこにおっしゃっていますか。」
についてですが、
ここで言っている「善」とは何でしょう。

「雑行を捨てよであって、"善"を捨てよではない」
が親鸞会の主張でした。

ではここで言われている「善」(善い事)の定義を考えましょう。
前々回で取り上げた『浄土真宗を学ぶ 雑行雑修自力の心』
にもあるとおり、親鸞会は
「阿弥陀仏に救われようと思ってするすべての"善い"行為が雑行である」
と言っています。

この説明の中の「善い」とは「自分が善いと思っている」もしくは
「世間一般に善いとされている」という意味です。
「親孝行」「親切」「慈善事業」「忍辱」などの諸善万行は皆そうです。

しかし阿弥陀仏に救われようと思ってするこれらの善い行為が何かと言えば
「雑行」になります。ですから、
「往生のためにと思ってする善い行為」=「善」
という意味では、「善」とは行為のことである「雑行」ですから、
「善を捨てよ」が浄土真宗ということになります。

親鸞会は、「善」の意味をその時々で変えて
カモフラージュしようとしているのですが、
噛み砕いて言いますと、

「善」=単なる善いこと
という意味なら、この場合の「善」は雑行ではありませんから、
親鸞会のいうとおり、「雑行を捨てよとは善を捨てよではない」です。
しかしこの場合の「善」とは、倫理や道徳などの世間の話であって、
今は仏教の目的である出世間について、
つまり浄土真宗の往生について(弥陀の救済について)問題にしているのですから、
この「善」の意味なら関係がないのです。

「善」=往生のためになると思ってする善い行為
を指すならこの「善」は雑行に含まれますから、
「雑行を捨てよ」とは即ち「善を捨てよ」です。

当たり前過ぎる、簡単なことを書いています。

即ち「雑行を捨てよ」とは「助かろうと思っての善(の行為)をやめよ」です。
その意味での『善をするな、やめよ』の教えが浄土真宗なのですから
そこらじゅうにおっしゃっています。

飛雲様も記事で書いてくださいました。ありがとうございます。参考にさせていただきます。
「後生のためには「善をするな、やめよ」と仰った善知識方のお言葉」

よって、親鸞会講師の反論は①も②も間違いです。

もし、親鸞会の言葉の使い方で正確に言おうとすれば、
「これによって阿弥陀仏に救われようと思ってするならば、
(自分が)善(と思っているもの)だろうが悪(と思っているもの)だろうが、
すべての行為が雑行」

なのです。

「雑行を捨てよとは、雑行を捨てよ」であって、善という言葉を使いたいなら
「雑行を捨てよとは、雑行になる善は捨てよ」
「善でも雑行なら捨てよ」なのです。

親鸞会はここでもまた
・善の意味、雑行の意味を知らないから、
・善と雑行の関係を知らない。(浄土真宗上の区別がついていない。)
ということです。

(付記)善と雑行について

親鸞会では、「飛雲」様にもあるように
雑行=善い行為+自力の心
と説明されているそうです。

悪いのは「自力の心」だけであり、
雑行という行為を捨てなくていいと思わせるつもりなのでしょうか。

それでは、親鸞会の
『浄土真宗を学ぶ 雑行雑修自力の心』
に従って、雑行の説明にあてはめてみます。

雑行=善い行為+自力の心
   =善い行為+善をあて力にして助かろうとしている心
   =善い行為+阿弥陀仏の御心に反する悪い心 
   =善い行為+阿弥陀仏の御胸にくぎを打ちつけている恐ろしい仏敵の心


となります。
これを見ても疑問に思うのは
「善い」とはどういう意味で言っているのかということです。
定義の仕方がおかしいことがわかります。

繰り返しになりますが、親鸞会の定義では
雑行=すべての行為(獲信と関係づける心でする)
なのです。
ですから「悪をせよ」でも当然なく、
仮に親鸞会のように「善」・「悪」が自分の行為のことを指すなら
これで助かろうと思ってする「善もすてよ」「悪もすてよ」です。

「ならばボサーと何もせんでいいのか」と言う人は
「他力」と「無力」の区別がついていないのです。
何もせんでよかった無駄骨だったと「聞」かせてもらってくださいとしか
言いようがありません。

注1)注2)
「信仰という言葉」
「なぜ救われないのか」について考える(草案の草案の草案)
「看板と中身の違いを知った人から退会するー平生業成の10分説法から」
「死期の迫った人に、何を勧めるのか?」
「八万四千の法門、この捷径にしくなしー 願はくは深く無常を念じて、いたづらに後悔を貽すことなかれ」
「漸教と放言する親鸞会」
「これをみている親鸞会の会員さんは少し考えて見て下さい」
「親鸞会は竪出ですか、 いいえ外道です」
「不可解な言葉に関する考察 その1「善をしなければ 信仰は進みませんよ」
「不可解な言葉に関する考察 その1「善をしなければ 信仰は進みませんよ」②」

隠れた前提~「信仰が進むから、善をしなさい」①~

2011年05月09日19:19

隠れた前提があると論理飛躍が起きる



隠れた前提とは、
主張の中で明言されていないが、
真実として扱われている(真実でないと主張が成り立たなくなる)前提
のことを指します。


「論理的な主張の仕方」



隠れた前提を根拠として述べている主張は、
その隠れた前提が真でないならば
その結論は真とは言えなくなります。

以前の記事で、信じるということと根拠の関係について述べました。

同じく上の引用先には

「論じる文章を書くためには5W3Hの他にも、
『理由』・『根拠』・『視点』という三つの前提と、
理由と根拠を支える『事実』が必要なのです。」
「論理的な主張の仕方と文章の書き方」)

と述べられていますが、
主張(結論)を支えているものが、「理由」と「根拠」です。
理由と根拠のしっかりしたものが、説得力のある話です。

そしてその「理由」と「根拠」は、
ある「視点」が前提になっている
ということです。つまり、
前提としての「論点」に立ったものでなければならない
ということです。
今している話でいうなら、
「浄土真宗では」という前提で話をしているのですから、
「浄土真宗では」という視点・論点で話をしなければならない
ということです。

今回はその三つの前提の中の
「根拠」が「隠れた前提」になっている話についてです。
まず、同サイトから「隠れた前提」が含まれている例文を見てみます。

『ソクラテスは死ぬ。なぜなら、ソクラテスは人間だからだ。』

ここに隠れている前提は、「人間は死ぬ」です。
上の例文は言い換えれば、

『ソクラテスは人間だから、死ぬ』

です。これが正しいと言えるためには、
「人間が死ぬ」という前提がなければなりません。
この前提は正しいので、例文にも問題はありません。

簡単過ぎてかえって分かりにくいでしょうか。

では別の例文ではどうでしょう。

『彼はイライラしてる。疲れてるんだろうね。』

考えてみましょう。
『彼はニコニコしている。疲れているんだろうね』
とはあまり言いません。また、
『彼はイライラしている。急いでいるんだろうね』
と言える場面もあります。すると、上の例文は

「疲れるとイライラする」という前提で
話をしていることがわかります。
この前提は場合によっては正しいと言えるでしょう。
疲れていてもイライラしない人もいるでしょうから。

他にもにいくつか例が挙げられていましたので
隠れている前提を考えてみてください。答えは下です。
私はすべて即答できました。

『理香は髪を切った。だからきっと理香は失恋したのだろう』


→隠れた前提.(    ①     )

『テングタケは毒キノコだ。だからテングダケは食べられない。』


→隠れた前提.(     ②       )

「『キルビル』(映画の題名)にはメッセージ性がない。
ゆえに、『キルビル』は駄作だ。」


→隠れた前提.(       ③         )

『ポルノの出版を規制するべきだ。
なぜなら、有害なものは規制しなければならないからだ。』


→隠れた前提.(    ④     )

『今の若者は権利ばかり主張して、義務の履行はさっぱりだ。(言外の意:若者に権利を与える必要はない。)』


→隠れた前提.(          ⑤             )

『東国原宮崎県知事はタレント出身だ。
知事の仕事は、政治の知識と経験が豊富でないと務まらない。
だから、東国原氏は知事としてふさわしくない。』


→隠れた前提.(          ⑥             )

A氏 「さっき彼と碁を打ってたろ。勝った?」
B氏 「いや、勝てなかった。」
A氏 「なんだ。負けたのか。」


→隠れた前提.(         ⑦           )

このいくつかの例でもわかるように、
隠れた前提が正しい場合、
もしくは自分が正しいと思っている場合ほど、
隠れた前提には気付きにくいということがあります。


隠れた前提が正しい場合はそれでよいのですが、
真でない場合には、
その隠れた前提を根拠としているのですから
当然その話の「根拠はない」ということになって
正当性は崩れます。

くどいですが誤解のないように付け加えますが、
「隠れた前提がある」こと自体が間違いということではありません。
隠れた前提があるだけでその話が間違いになるということではなく、
話の中に隠れた前提があって、且つその前提が間違っていたら
根拠が崩れるということです。

隠れているが故に気付きにくいということです。

さて、実例です。
ここに、信心の沙汰ということで
親鸞会の講師と会員の話が公開されています。
親鸞会HP『後生の一大事が問題にならねば、「雑行」は絶対に分からない』

《非難》
蓮如上人も「雑行(ぞうぎょう)を捨てよ」とは、書かれているが「信仰が進むから、善をしなさい」とは、書いておられないのではないか。
だから、善を勧める親鸞会は間違いであり、善をすれば助かるという諸行往生だ。

「雑行雑修自力の心のある間は、絶対に阿弥陀仏の無上の救済には値えない」と説き続ける親鸞会に対し、「親鸞会が善を勧めるのは、善をすれば助かるという諸行往生だ」との非難である。

甚だしい事実誤認であり、無知である。あるいは、ためにする誹謗であろう。
そのことを、親鸞会の会員が集って行われた信心の沙汰から明らかにしたい。

親鸞会の講師:「蓮如上人も『雑行を捨てよ』とは書かれているが、『信仰が進むから善をしなさい』とどこに勧められているか」と言ってきたら、「では、『信仰が進むから悪をしなさい』と書かれていますか。
『善をするな、やめよ』とどこにおっしゃっていますか」と、ズバッと言えばいいでしょう。…(以下略)



ここで、一~二行目と親鸞会講師の言葉の中と二回、
非難の対象となっている親鸞会の善の勧めの言葉として
「信仰が進むから、善をしなさい」
が挙げられていますが、これに対して
「そのようなことは主張していない」とは反論していないことからも
わかるようにこれが親鸞会の主張です。まずこの

阿弥陀仏に救われるためには
「信仰が進むから、善をしなさい」



という親鸞会の主張には、隠れた前提があります。
その隠れた前提が間違いなら、この主張は根拠がなくなります。

それから、非難に対する親鸞会の反論として

親鸞会の講師:「蓮如上人も『雑行を捨てよ』とは書かれているが、
『信仰が進むから善をしなさい』とどこに勧められているか」と言ってきたら、

「では、『信仰が進むから悪をしなさい』と書かれていますか。
『善をするな、やめよ』とどこにおっしゃっていますか」


と、ズバッと言えばいいでしょう。



と親鸞会講師はおっしゃっていますが、
ここまでズバッと詭弁を言われてもこちらが恥ずかしくなります。
本気で言っているのだろうかと思いましたが、
おそらく上から言われたことを何も考えずに鵜呑みにして
受け売りで言っていれば間違いないと思っているのでしょう。
そうでなければ多少なりとも考えることをしたなら
こんな反論はできません。
しかしわかりやすい例なので、取り上げました。

「では、『信仰が進むから悪をしなさい』と書かれていますか。
『善をするな、やめよ』とどこにおっしゃっていますか」


の主張には、少なくとも二つの論理上の虚偽があります。
一つは上でも述べた、隠れた前提の間違い。
もう一つは、ダミー論証(藁人形攻撃)です。
説明は次回にします。

【隠れた前提 答え】
①失恋したら髪を切る。
②毒キノコは食べられない。
③メッセージ性のない映画は駄作だ。
④ポルノは有害である。
⑤義務を履行しない者には権利を与える必要はない。
⑥タレント出身者は政治の知識と経験が豊富でない。
⑦碁に引き分けはない(=勝てなかったら、負けになる)

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