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暗示にかけようとする表現~『顕真』6月号から~

2011年06月24日21:07

暗示にかけようとしている文章

「主張」とは少し話がそれますが、
暗示にかけようとしている文を使った、
フェアでない書き方の最たる例をここに書いておきましょう。

 暗示にかけようとしている文を使った、
フェアでない書き方の代表的なっものは、
形式面での操作と表現面での操作の次の二つがあります。

・論じたい点として主張を述べず、主張を前提とした別の論を書く
──これが第一の方法です。

このタイプの文章は、
批判精神の乏しい読み手には強い影響力があるので
読み手には危険な書き方です。

たとえば、「女性が依存症を克服するにはどうしたらよいか」
という論があったとしましょう。
これには「女性には依存症がある」という前提が隠れています

批判精神の乏しい読み手がこれを読むと、
「女性には依存症がある」という考えを無意識のうちに持つことになります。
論理で納得して自分の考えとするのではなく、
無意識のうちに無批判に自分の考えとしてしまうことになるので、
これは読み手にとって非常に危険な方法です。

・形容する部分に論じたいものをまぎれこませる。
──これが第二の方法です。

 たとえば、「押しつけられた性役割」というように書くのがこの例です。
これは読み手に「押しつけは悪い、ゆえに性役割は悪い」と
考えさせようとしている表現です。

 読み手を自分と同じ意見にしたいと強く望む者は、
無意識のうちにこの手法をとる傾向があり、
ことに大衆の意見を操作しようとする者がよく使います。


考えて──『暗示の手法』

次の三つの論があなたの目の前にあったとしましょう。

a『なぜ私はこれほど聡明なのか』
b『**政策のどこが悪かったのか』
c『あなたはなぜ勉強の仕方が下手なのか』

 これらにはどんなことが書いてあるか、あなたは想像できますね。
 さて、これらは、その論を書く事自体が目的の場合はもちろんありますが、
そうでない場合もあります。
では、そうでない場合とはどんな場合でしょう?

小野田博一『論理的に書く方法』日本実業出版社p44~46


詭弁や心理的作用を利用した影響力の行使等について調べていると
思い当たる節が多すぎて考えさせられることばかりです。
いろいろ書きたいことがあり過ぎて整理が追いつきませんが、
ここまででもある程度詭弁というものがどういうものかわかっていただけたと思います。

詭弁とは決して難しいものではなく、故意にも限りません。
日常ではむしろ詭弁的な言い方を便利に利用しているのです。
”遠まわしの言い方”や”濁した言い方”、”煙にまく”
こういったことは人間関係上の会話においてはむしろ必要で誰しもしていることです。
ですからそこまでも用いてはならないとは思っていませんが、
少なくとも”論じる文”や”相手に正確に伝えなければならない話”において
誤魔化しは必要ありませんし、あっては害になるだけです。

さて今回は、飛雲様『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り24
でも取り上げられていた『顕真』6月号の雑行についての記事について
リクエストをいただきましたので、実習も兼ねて考えてみたいと思います。
教義の上からの誤りについては飛雲様で詳しく説明されていますので、
それでよくわかります。
論理上の観点から言えば、「根拠がない」ということに尽きます。
全体としてもそれだけです。
以下、引用から考えてみます。

「親鸞聖人は、雑行を捨てよと教えられているのだから、諸善をする必要はない。善を勧めるのは間違いだ」

(答え)
 真宗の人々に、こんな誤解が多い。
もし、これが浄土真宗の教えならば、布施(親切)や精進(努力)、父母の孝養などは、必要ないからするなという、放逸無慚な怠け者を作るのが親鸞聖人の教えになるだろう。

←なりません。「諸善をする必要がない」と「諸善をするな」とは違います。
勝手な決め付け、すり替えに加えて、
「暗示にかけようとする文章」という詭弁が加わっています。
「疑難の主張では放逸無慚な怠け者を作る教えになる」
という暗示にかけようとしているのです。

これらはみな、仏法で説く諸善であるからだ。

←先の主張の根拠であるかのように述べているところが最大の間違いです。
上で述べていることの根拠になっていませんし、なりません。
この親鸞会の文章は、
「雑行とは仏法で説く諸善のことであるから、やるよう勧められているのだ」
と言っているのですが、全く逆です。
「諸善」を往生の為の行として用いようと行う
「仏法で説かれている善い行為」のことを「雑行」というのですから、
雑行という諸善を捨てよ」なのに、
親鸞会の「諸善だからやれ」ではそれこそ全く「雑行」というものを知らないのです。
仏法を読んでいないから、
「仏法で説かれている善」と「雑行」の関係がわからないのです。

 これは全く、「雑行」というものを知らない人の発言であることは明らかだが、こんな聞き誤りが、結構多いのが現状である。

←「~~であることは明らかだが」と決め付けていますが、
このような文言が「感情の充填された語」です。少しも明らかではないのです。
「聞き誤りだ」という印象さえ与えられればいいという表現です。
「多いのが現状である」にも根拠がなく、「暗示にかけようとする表現」です。
 

その元は、どこにあるのか解明しよう。
「雑行」とは、「弥陀の往生浄土の救いを求めてする、もろもろの善」をいうのである。
 仏教で説かれる「諸善」が、悪いはずがないのだが、なぜその「諸善」を、「雑行」と嫌い、捨てよと言われるのか。
 それは「自力の心」で行うからでである。「自力の心」さえ廃れば、「諸善」は「雑行」とも言われず、捨て物でもなく、「御恩報謝の行」となり、身を粉に骨砕きてもの、恩徳讃の活動になるのだ。

←『こんなことが知りたい』や
チューリップ企画の冊子『雑行・雑修自力の心』と変らない、
何十年前からと同じ「説明になっていない説明」の繰り返しです。

「解明しよう」とある割には、何も解明されていないのですが、
この記事には続きもあるということで、
実際の『顕真』の記事を見せていただきました。
この後は例え話で説明されていますが、
やはり文証での根拠が挙げられないからなのです。
雑行については、お聖教に基づいた根拠で話がなされていないのです。
それをしたら、親鸞会の「善の勧め」が「雑行の勧め」であり
助からない教えであることが知られてしまうからです。

参考までに、例えの話も見てみます。
例えというものは、全部が合う訳ではないので注意が必要です。
その話と言わんとしている肝心なところが合っていなければ、
(論理の言葉で言えば、観点が違えば正誤も変わってくるように)
つまり適切に例えられていなければ
例えも話をわかりやすくする為ではなく、
誤魔化しの道具としての詭弁となってしまいます。
例えを聞くときは、何が例えられていて、
適切に例えられているの考えることが必要です。
以下、『顕真』の続きです。

 例えば、「一緒にいたい」と思う心の高揚が結婚となり、「一緒にいたくない」と思う心の高揚が離婚となるようなものである。
「結婚」と「離婚」は反対だが、「一緒にいたいか、いたくないか」の心で分かれる。
「もろもろの善」が「雑行」となるか、「報謝の行」となるかは、「自力の心」が廃ったか、どうか、の一点によって分かれるのだ。

←何なのでしょうか。この例えは。
「となるようなものである。」と言っていますが、違います。

前の説明や、後半部分の説明では、
「善をしている」という外面に表れている行為が同じ「善」という行為であっても、
まったく同じ行為をして外見上にも全く同じ行為に見えるけれども、
その「心がけ」の違いによって「雑行」と「報謝」という別の行為になってしまうのだ、
という説明でした。
行為は同じでも、心が違うから、行為としての名前も違ってくるというものです。

ところがこの結婚の例えでは
「結婚」→婚姻して一緒に暮し生計を共にする行為
「離婚」→分かれて別の世帯になる行為
というものですから、心も違えば外見上の行為も全く違うものです。
「雑行」の何を例えているのかわかりませんし、
何も例えられていません。

心の高揚があろうがなかろうが、
・「一緒にいたいという心」で「一緒に暮し生計を共にするという行為」→結婚
・「一緒にいたくないという心」で「別れるという行為」→離婚
なのですから、「心」も「行為」も異なっているものです。
何も「雑行」と「報謝」の関係性と重なるところが無く、例えになっていません。
「心の高揚」という訳のわからない言葉を挟んでいますが、
心の高揚が何だというのでしょう。
心という単語を無理矢理入れることによって、
自力の心の有る無しと関連づけさせたいのかもしれませんが、
自力の心は「心の高揚」といったものとはむしろ正反対の関係のないものですから
ここでは意味がありません。

その意味では、以前によく聞いた
「菓子箱(賄賂とお礼)の例え」のほうが
まだ例えとしては合っている部分があるのですが、
この例えで善を勧めることの破綻を以前に記事にしたので
(http://lonli.blog60.fc2.com/blog-entry-17.html)
変えたのでしょうか。それにしても以前より悪くなっています。

この後は、文証に基づかない親鸞会独自のいつもの「自力の心」の説明が続き、
また例え話が出てきます。
しかし、「聞き誤りの元を解明する」と言った内容ではなく、
「自力の心の恐ろしさ」を例えも使って説明する内容です。
大雑把に見て「自力の心の罪」(18願を疑う罪)ということなら
これはこれでいいでしょう。

しかし、その結論として最後に唐突に

「雑行を捨てよ」とは、この「自力の心」を捨てよということであって、「もろもろの善をするな」「諸善を捨てよ」ということでは断じてないことを牢記しなければならない。


といつもの説明で結論づけていますが、
この前に述べられていたことは「自力の心の恐ろしさ」であって、
「諸善を捨てよではないということの根拠」ではありませんでした。

根拠のないことを印象づけなければならない為に、
「断じてない」とか「牢記しなければ」といった
”大げさな言い回し”で表現しなければならないのです。
苦しい主張なのです。

結局、この『顕真』の説明は最初に言ったように、
最初から最後まで、「善の勧め」について”根拠のない”記事でした。
「後生の解決の為に善の勧めがある」とする親鸞会の主張には根拠がないことを
ここでも示す形になってしまいました。


【付記】
親鸞会の話では、上にあるように、実際は雑行であるものを実行させたいが為に、
「雑行は捨てずに自力の心だけを捨てなさい」というような話を聞いて信じているから
自力の心が廃ることがないのです。
雑行には自力の心がつきものなのですから。

例え話をするなら、前述のようによく考えましょう。
ゴミの話で恐縮ですが、私の地区では指定のごみ袋にゴミを入れて出すことになっています。
ごみ袋はきれいなものです。捨てたいのは、中身のゴミです。
嫌われて捨てたいのはゴミですが、一旦ゴミをごみ袋に入れたら、
ごみ袋ごとゴミです。ゴミを入れるからごみ袋と言います
ゴミを入れていなければ、単なる綺麗なビニール袋です。その状態で捨てる人はありません。

今、ゴミが入っているから袋も一緒に捨てられるべきごみ(袋)となりました
これを、「汚いゴミを入れたから、ゴミ袋も捨てられるのだ。捨てるべきゴミが入っているから袋も捨てられる」
と言うのはいいとして、
「だから、ゴミ捨て場に行ったら中身のゴミだけを捨てなさい」と言う人がありますか?
捨てるためにごみ袋に入れたのです。ゴミを入れる為にあるからごみ袋というのです。
(自力の心があるから善い行為であっても雑行と言うのです。)

「ゴミ袋は捨てるなよ、中身だけ捨てよ」と言われたら、
捨てられませんから、いつまでもゴミの入ったゴミ袋をぶら下げて
ゴミ集積所でどうしたらいいのだろう?と考え続けたところで
捨てられないだけで答えはありません。

捨てられないごみ袋をいくつ積み重ねたら、
捨てられないことに気付くというのでしょうか?
親鸞会では「まだまだ、積み重ねようが足りないのだ」と言われ続けるだけで、
その親鸞会の教えを信じて「もっと積んだらきっと」と信じ続けて積み重ねようとしている限りは
このままでは捨てることができないと気付くこともないから
救われないのです。
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大げさな表現を多用する~「感情が充填された語」~

2011年06月13日10:07

「感情が充填された語」とは、
ネガティブな、あるいは大げさな印象を読み手に与える言葉を使用し、
読み手の受ける感情が書き手にとって都合の良いものになるよう操作する詭弁です。
たんに「充填された語」とも呼ばれます。


論理的に述べることが出来ない人は、
充填された語に頼った主張を頻繁に行います。


◇なぜ充填された語を使うのか?

充填された語を使わずに主張を書くと、
論理の構造が丸見えになってしまいます。
そこで論理的な主張ができない人は充填された語を使い、
論理構造を覆い隠すのです。
そうすれば論理に欠陥があっても、正しいように見せかけることができる
からです。

しかし充填された語は論理的な人の目をごまかすことまではできません。
ゆえに、論理構造が丸見えになっていても、
反対論者からの批判に耐えうる主張を構築しましょう。


(いずれも、「中学生からの論理的な議論の仕方 ●詭弁【ネガティブな言葉の印象に頼る (感情が充填された語)】」より)


親鸞会から離れてみると、
親鸞会の中では独特の言い回しが使われていたことに気付きます。

例えば、
「~~ずにおれません」「~ずにおれない」。

「聞かせていただけることを喜ばずにおれません」
「叫ばずにおれない」
「感謝せずにおれません」等。

会の中では皆で当たり前に使われていて、
知らず知らずのうちに自分もいつも使うようになっていたのですが、
今この言い回しを聞くと親鸞会的だなと思わずに「おれません」。
他ではこの言い方が使われないとまでは言いませんが、
ここまで多用されていないからです。

今、自分が使うとしても、
「~~せずにはいられない」ですね。
世間的にもこちらのほうが一般的だと思います。

他にも、知らず知らずのうちに慣らされていたのか、
今読むと妙な感じのするものが少なくありません。
そして親鸞会の文章や話には、独特の特徴があることに気付きます。

その中の一つが「感情の充填された語」です。
つまり、親鸞会の文章には
「感情の充填された語が多い」ことに気付くのです。

◇「感情の充填された語」の例

「それは悪魔の論理だ」…(背徳的な印象を与える)
「~に破壊的な影響を与える」…(大げさな印象を与える)
「~は~の極みである」…(大げさな印象を与える)
「~という考え方には違和感を覚える」…(大げさな印象を与える)
「~という意見が多いことに驚かされる」…(大げさな印象を与える)
「~は言語道断である」…(大げさな印象を与える)
「信じられないことに~」…(大げさな印象を与える)
「~などとは論外だ」…(大げさな印象を与える)
「国の教育費はわずか4兆円にすぎない」…(少ないような印象を与える)
「国の公共事業費は10兆円にものぼった」…(多いような印象を与える)

◇人々の思い込みを利用した「充填された語」の一覧.

『~は社会主義だ。』…(社会主義は悪い。)
『~の考え方は宗教と同じだ。』…(宗教は悪い。)
『~は贅沢だ。』…(贅沢は悪い。)
『~は伝統を破壊しようとしている。』…(伝統は無条件に正しい。)

◇他にも色々ある大げさな表現.

『~を感じずにはいられない。』…(『感じる』と同じ意味。)
『~せざる得ない。』…(『する』と同じ意味。『~を得ない』系は様々な場面で使われています。)
『~という気がしてならない。』…(『気がする』と同じ意味。)

同サイトより)



一例として、親鸞会公式HP「論説 現代に生きる仏説 自力とは何か」
を見てみます。
人によって感性は異なると思いますが、
「感情の充填された語」と感じるところに色を付けてみました。

 ある新興宗教の者が、こんなことを言っていた。

「うちの先祖は真宗だが、寺では他力だからとあまり掃除もしない。こっちの宗教は、掃除、身の回りや身だしなみをきれいにして、徳を積むことを教えている。だから真宗からこっちに変えた」

 何と情けない話だろう。
 親鸞聖人の教えは他力だからと善の勧めを疎かにし、掃除さえもろくにしない寺が、門徒に愛想を尽かされて新興宗教へと迷っているのだ。

 親鸞聖人のみ教えは「捨自帰他」(自力を捨てて他力に帰せよ)以外にない。
「自力を捨てよ、捨てようとする心も自力だから捨てよ」と徹底して厳しいのは、自力を捨てなければ、阿弥陀仏の本願力(他力)に帰することは絶対不可能だからである。

 現今の浄土真宗は、捨てよと教えられるこの自力を、努力する行為そのものと誤解しているから、
「親鸞聖人に善の勧めはない」
「自力は捨て物ではないか」
「頭燃を灸うが如く努めてみても、雑毒雑修の善ではないか」
「そんな善を勧める必要がどこにある」
「善を勧めるのは大間違いだ」
と、やりたい放題、したい放題、言いたい放題

 外道よりもあさましい生きざまをさらしてきたから、親鸞聖人の教えは悪人製造の宗教だとそしられ、冒頭のような惨状にまで至らしめたのである

 無気力で、消極的、退嬰的な「善を勧めぬ浄土真宗」は、かくて崩落の一途を驀進しているのだが、当人たちは一向にその真因が分からず目が覚めない
 捨てなければ助からぬ自力とは何か、全く分かっていないところにあるのである。 

後生助かろうとする心を捨てよ

 自力とは、「後生助かろうとする心」をいうのだ。
 だから「自力を捨てよ」とは、「善を捨てよ」「善をするな」ということでは絶対なく、「善で後生助かろうとする心」を捨てよ、ということである。

 因果の道理は宇宙の真理。善因善果、悪因悪果、自因自果は、仏さまでも曲げることはできない。
 もし、人間の努力そのものが自力なら、自力が廃って他力に帰すれば、全く努力しない人間になることになる。そんな馬鹿なことが、どうして考えられようか

 親鸞聖人の救われてからの大活躍を見よ
 世界の名著『教行信証』のご執筆は、一切経を何度も読破する努力なくしてありえただろうか
 法友との三大諍論も、弥陀の救いを明らかにするための聖人の決死の精進努力の表れではないか
 信行両座の諍論で、同じく信の座に入った法友で親鸞聖人と比較できる人があるだろうか
  聖人の努力は際立っておられる。

「自力を捨てよ」は「努力するな」「善を捨てよ」ということでは絶対なく、「それで後生助かろうとする心を捨てよ」ということなのである。


内容についての論評は、こちら
21世紀の浄土真宗を考える会ブログ 「顕正新聞を読んで④」
が参考になります。

小野田博一著『論理的に書く方法』日本実業出版社1997年には、
「感情的な文章」について二つの欠点を指摘し、
論理的な文章を書くための注意点が述べられています。(p100~102)

主張や根拠を表現する上での重要点─感情的になるな

「感情的になるな」──これは広い意味をもちます。
「情緒に訴える書き方をするな」とか、
「文学気分に走った書き方をするな」とか、
「熱く語るな」などなど、
いろいろに分けられます。
「感情的になるな」が何を意味するかについて、
これらを細かく見る必要はないでしょう。
ここでは、ただ、次の二点だけ述べておきます。

▷つねにクールに◁

「熱っぽく語ることが説得力を生む」と考えている人がいます。
でも、それは誤解です。
そのような書き方では、もともと同じ考えの者の同意を得るだけで、
異なる考えの者の同意は得られません。

そのことは、次の例を見ればよくわかることでしょう。
~(略)~

 この文章には大きな欠点があります。
それは「大げささ」を目指している点です。
(略)
この書き方では、異なる意見の人々の賛同を決して得られません
──著者の意見に賛成か否かを考える前に、
読み手は拒否感を感じてしまうからです
(私はこの文章で著者が
「男の大学教授は女子学生に誘惑の言動をとってはならない」と
言いたいことはわかりますし、それに賛成でもありますが、
それでもなおかつ、この文章は「ばかなことを書いているだけの文章」
にしか見えません。
感情的な文章は、読み手にそういう反応を起こさせるものなのです。)(略)

この調子の文章を読んだときはたいてい、
読み手は文章に書かれている内容を考える前に、
書き手に対する軽蔑の思いを持つことになるでしょう。
このような文章を書くのは避けるべきなのです
──書いても、書き手にとって損なだけなのです。

※この例の教訓──正しいことを書いても、感情的に書いたら
「ぶち壊し」


▷文学的気分に走った、意味不明の文を書くな。気分で語を選ぶな◁

 日本では学校教育で情緒的に書く訓練が十分なされているので、
日本人は「文学的気分に走った、意味不明の文を書かないこと」には
十分注意が必要です。

 文学的気分に走ると、次のような文章を書くことになります。
これは極端な例ですが、程度の差はあれ、
だいたいは似たようなものになるとも言えるでしょう。

 パリから届くファッション写真は、ゴージャスなドレスを着くずす危うさを演出し、不条理に見える状況設定を行いながら、そこから大人のセクシーな魅力を紡ぎ出すといった手法をとることが多い。


 これはまったく意味不明の文章です。
パリから誰に届くというのでしょう?
着くずす危うさとは何でしょう?
写真が状況設定を行うこともありませんし、
写真がある種の手法をとることもありません。
不条理とは理に合わないばかばかしさのことですから、
ファッション写真(?)の状況設定が不条理というのは、
具体的にはどんなばかばかしい設定のことを指しているのか、
それも明確ではありません。

これは何かを論じた文ではありませんが、
このような書き方では何かを論じられないことは
十分にわかる例であるはずです。



この注意点の一点目には「正しいことを書いてもぶち壊しになる」とありますが、
親鸞会の場合は、記事冒頭に挙げた引用の中にあるように、
”論理的な主張ができない為に充填された語を使い、論理構造を覆い隠している。
そうして論理に欠陥があっても、正しいように見せかけようとする”
ものですから、ぶち壊しになるというよりも、
元々間違っている教義内容を正しく見せかけようとしているだけで、
最初から構築されていないのです。
ですから、親鸞会の「感情の充填された語」の多用に頼る大げさな表現は、
裏を返せば”自信のなさの表れ”なのです。

二点目の「感情的気分に走った、意味不明の文」というのも
親鸞会の文章を彷彿とさせます。

先に紹介した「21世紀の浄土真宗を考える会ブログ」の論評にもあるように、
・文章の最初と最後が適切に繋がっていない
例えば
・「何が」(主語)が抜けて文章をなしていない
・「どうした」(述語)の部分も何のことを指しているのかがわからない
というものが多いのです。

親鸞会の思考(文章)に慣らされてしまっていると、
退会後も文法的にもおかしな文章を書いたり読んだりしていても平気で
抵抗がなくなってしまっていることがありますから注意が必要です。
前述の小野田博一氏の著書にも書かれていますが、
元々日本人というのは情緒的な文章に慣らされて好む傾向もありますから、
論理的な文章や思考というものは苦手なのです。
しかし、教訓を得たならそこから学ぶことができます。
言葉によって人を騙したり騙されたりする過ちを繰り返さないためには
同じ徹は踏まないようにしなければなりません。

要するに、親鸞会の文章は
・感情に訴えているだけであったり
・よく読むと何が言いたいのかわからない
意味不明の文章なのです。

書き手の側から言えば、
・自分の感情や連想にまかせて浮かんだことを、何やら単語や文章を羅列して主張した気分になっている
という文章です。
相手に伝えようという真の誠実さに欠けるのです。

小野田氏は感情のこもった文章そのものまで否定しているようですが、
私はそこまでは思わないにしても、小野田氏がここまで言う意味は理解できます。
なぜそれが問題なのかといえば、他の詭弁にも言えることですが、
「感情の充填された語の多用によって、
論理性・非論理性が覆い隠されてしまう
からなのです。その危険性を危惧するからなのです。
私というものは、理屈より元々の感情のほうを優先しがちですから、
印象に引っ張られて中身が見えなくなる(理屈なんかどうでもよくなる)、
つまり、騙しの危険性を含むということです。

ですから、クールな文でありさえすればいいというものではありません。
クールであれば論理的であるとは限りませんから、
クールであっても非論理的な文章や話などいくらでもありますし
むしろこちらのほうが多いと思います。

要は、「その主張は本当に筋が通っているか」という観点や疑問をもつ
ということが大事なのです。
「言いたいことの中身は、本当に相手に伝わるような論理で構築されているか?」
ということです。

親鸞会の場合は、実際は中身のないものを、感情の充填された語に頼り、
他の詭弁的手法とも合わせてこれによって非論理性を覆い隠し、
「何かこれが正しいのだろう」という【印象】を与えるようなものに過ぎなかった
のです。
親鸞会の論理が、こういった詭弁に頼らざるを得ない虚構の論理であるからです。
”虚偽の理屈を正しいというように印象づける手法”を駆使したものであり、
この手法のことを、”詭弁”というのです。

論理性のないものは、よく読めば「だから何?」と言いたくなるものなのです。
ですから文章を読むときや話を聞く際には相手の主張に対して
「だから何?」と突っ込んで考える習慣をつけることが大事です。

親鸞会ではむしろある時から、
「疑問をもつのは悪」「よくわからないがそういうことなんだ」
とそれ以上考えることを止めてしまうようになったために、
非論理性を覆い隠すための詭弁に騙されてしまったのですから。

そして文章を書く際には「だから何?」というような
意味不明な文章になっていないかどうか考えながら書くことです。
それが論理的文章(思考)を書く(する)ことに繋がっていくでしょう。
努めていきたいと思います。

これらに限らず、親鸞会の文章や話には他にも詭弁的特徴があります。
以後でまた考察したいと思います。

[大げさな表現を多用する~「感情が充填された語」~]の続きを読む

定義の中の前提~前提に誤りがあれば結論も誤る~

2011年06月06日00:16

簡単な頭の体操です。
香西秀信著『レトリックと詭弁』ちくま文庫 のあとがきに
次のような話が載っています。

 小学校の算術書には次のような問題がよく出ている。大工四人で三ヶ月かかって建てる家を、大工六人で建てたならば、何ヶ月かかるかという類であるが、計算の結果二ヶ月という答えを得て誰も満足している。同じ論法で進めば、一二人でならば1ヶ月に、三百六十人ならば一日に、八千六百四十人でならば一時間に、三千百十万四千人でならば一秒に一軒の家が建つ勘定になる。論法に誤りはないゆえ、初めの答えが正しければ、終わりの答えも同じく正しいはずであるに、一秒で家が建つという計算は誰も笑うて、真面目に取り上げぬ。…(略)…浅丘次郎「固形の論理」



この話を出して、著者は、一秒で建つという結論には誰もが笑うであろうが、
ならば大工四人で三ヶ月ならば大工六人で二ヶ月という結論にも
笑わなければならないと言います。なぜなら結論を導き出した論理は
両者とも全く同じものだからであると述べます。

確かにそのとおりです。では、この論法の誤りはどこにあるのか。
著者とは違った切り口で考えてみました。
ここにも「隠れた前提」があって、その前提に誤りがあるのです。

「この話には『人数が倍になれば、作業能率も二倍になる(二倍の早さになる)』
という前提があって、これがどの段階でも通用する訳ではないからだ。」

答えは一つではないと思います。

さて、前回、視点によって正しさは変わるということについて
考えてみましたが、これは言い換えれば、
「定義が変われば当然そこに含まれている前提も違う。
前提が変われば、結論(正誤)も変わってしまう。」

ということです。

数字の話の例で言えば、
今「偶数」について話をしているのなら、それは当然
・奇数であるものはない
・すべて整数である
という前提で話をしているということです。
この前提自体が、「奇数の【定義】に含まれているもの」だからです。

「整数」について話をしているのであるなら、
・奇数もあるが、全部が奇数ではない
とまた前提も変わってきます。

しかし、もし偶数や整数について正確に知らないでいると、
定義によって当然含まれる前提も知らない訳ですから、
2の倍数の中には3の倍数であるものが存在するように、
偶数の中に奇数であるものが存在すると間違えてしまう人も
あるかも知れません。
そのような時は正しい意味を教えてあげて
定義を踏まえた正しい前提で話をするようにしなければなりません。
また、そのような誤りをなくすために、正しい定義(意味)を
知るよう努力しなければなりません。

この例では
共通の要素の存在する関係と交わりのない関係では、
関係性が違うということなのですが、
そういった関係性も踏まえた正しい定義を知ることが大事なのです。
定義の中には、【関係性】というものも含まれているのです。

前回の話の繰り返しになりますが、浄土真宗ならば、
仏教の中の浄土門なのですから、
聖道門との関係性を正しく踏まえた上での話でなければ
訳がわからなくなるのは当然なのです。

そして、誤った定義(理解)による
誤った前提での話は、結論も誤るということです。
その誤った前提が隠れている場合、
以前にも考察した、「隠れた前提」による間違いになるのです。

親鸞会でよく使われている話には、
前提が誤りのものが非常に多いということです。
例を挙げれば、

・二河白道の「白道」とは「信前の求道」という前提
・弥陀の救済にあうには「信仰(の進み具合)」というものが関係あるという前提
・「信仰」が進むということがあるという前提
・「信仰」が進んだかどうかわかるという前提
・何かに励んだら信仰が進むという前提
・信仰が進むために勧められている行為があるという前提
・全ての人が「瀬戸物の茶碗を持てると自惚れている」という前提
・宿善薄い者が厚くなるという前提
・獲信のために善が勧められているという前提
・三願転入とはこれから私が19願の実践から入っていくことであるという前提
等々。
(この辺りの表現はもう少し工夫が必要かと思いますが、
必要があれば補足、修正します。)

よく見て考えてみればわかりますが、
これらの前提に共通してあるのは、つまり何が根底にあるかと言えば、
本来浄土真宗では嫌われ捨てるべき「自力」です。
何かしていったら、進んだら、あれをしたら進むのでは、
進んだら助かるのでは、何もせんとただで助かる訳なかろう、
だからそれが19願の善だと会員は思い込まされています。
以前の記事でも取り上げた会員の信心の沙汰の中での
「後生の一大事が問題にならねば、「雑行」は絶対に分からない (4/6)」
会員の発言の中にも、親鸞会の善の勧めに対する批判への反論として
「19願の善は勧めないのに、念仏を勧めるのはおかしい」
という頓珍漢な発言がありましたが、 注1)
浄土真宗で勧められている念仏は、
「念仏を称えた私の功で信心決定できる(あるいは死んだらお助け)
という自力念仏(雑行)の意味ではない」のは当然のことなのです。

ところが、そんな浄土真宗の基本を聞かず、知らず、
「信心決定するために何かしなければならないに決まっている」注2)
という【自力を前提にした】話を混ぜていつしかそこばかり強調され、
聞いているほうもそんな発想しかなくなるから
「じゃあ善をして助かるでないなら、念仏したら助かるというのか」
という発言が出るのです。

心情はわかります。
私には、どうしたらいいのか、ああしたらいいのか、こうなったらいいのか、
ああなればいいのかの自力の心しかないのです。離れ難いのです。捨て難いのです。
だからこそ、他力の謂われを聞かなければ救われないのです。
浄土真宗は、聞いて救われる教えなのです。
「自力から他力になる」「自力が他力になる」ではなく、
往生においては「初めから他力」「他力のみ」「自力捨てよ」を聞いたのが浄土真宗なのです。

親鸞会は、会員の自力の心を利用した・するのに都合のよい、
独自の浄土真宗の定義による前提に基づいた話なのです。
そしていつまでも自力(雑行)にしがみつかせるのです。
(「独自の浄土真宗の定義」となった時点で、それは浄土真宗ではないのですが。)

(付記)

改めてこの親鸞会HP
「後生の一大事が問題にならねば、「雑行」は絶対に分からない」
を読むと、至る所に「親鸞会教義による誤った前提(隠れているもの、隠れていないもの)」が
含まれていることが読み取れます。
出してみると誤りがよくわかっていいかも知れません。

注1)
講師:十九願から二十願へ導き、そして、真実の十八願へ転入させる。
阿弥陀仏が「十方衆生」と誓われたのは、この三願のみです。
この三願によって救う、という三願転入が、私たちを救うための阿弥陀如来の遠大なご計画なのです。すべては、阿弥陀さまのお計らいなのですよ。
学徒:親鸞会を非難する人たちは、それを勝手に計らって、「18願だけでいいんだ」と言うらしいですね。
学徒:「19願は、聖道門の人を浄土門に導くためのものだから、18願の救いを求める人には関係ない」と言っているそうですよ。
学徒:へー、19、20の方便願は、自分には不要とでも思っているのでしょうか?
学徒:方便は卒業したと思っているのかな?
学徒:とんでもないうぬぼれですねえ。
講師:18願だけで素直に聞ける自分だと思っているからでしょう。
学徒:ところがおかしなことに、念仏を称えることは勧めるそうですよ。
学徒:19願は不要だが、20願は必要ということ?
学徒:それじゃあ、二願転入だ。

注2)
ここで「何かする」のするというのは、「自分のすることを獲信の為に間に合わせようとして」という意味で、
親鸞会でいうところの「宿善を厚くするために」という意味です。

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