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暗示にかけようとする質問~多重尋問の誤謬~

2011年07月28日03:22

4-33 多重尋問(complex question)

これは、思い込みをもとにした質問です。

「あなたは最近はもう女の子にいやがらせしてない?」
(以前はしていたと決め込んでいる)

 これは修辞的トリックであり、議論ではありません。
これはあることが真実であると思い込んでする質問なので、
その点ではcircular reasoningと似ています。

・議論に近い質問

「あなたはもう中学生なんだから、
女の子のスカートめくりはしなくなったわよね」

(返事「小学校のときだってしてないよ」

「あなたはどうしてあんな変な決定を下したんですか?」

これはcomplex questionです。
complex questionを議論中の文に書き換えると
次のようなタイプの文になります。

「なぜ彼はあのような愚かな決定をしたのであろうか。
それは△△だからである」


 こういう議論はよく見られますね。
注意すべき点は、
「その決定がなぜ愚かなのか」の理由が述べられずに
話が進んでいる
ことです。

このように書いてあると、
読み手が批判的に考えることができない人の場合、
なぜその決定をしたのかの部分にのみ関心が向いてしまい、
「それが愚かな決定であること」を
無意識かつ無批判に受け入れてしまうことになりがちです。

あることを前提としていて、
それが明言されていない場合、
批判的に考えられない人は、
その「低級テクニック」にうまくだまされてしまうので、
注意が必要です。


 このタイプの議論は、
議論上手な人にはバカバカしいだけの議論に見えるので、
あなたは使わないように気をつけましょう。

「なぜ彼はあのような愚かな決定を下したのであろうか。
それは△△だからである」のように
自分で答えるために問う質問が書かれている場合、
その質問中に当然とこと(正しいこと)と書き手がみなしている前提が
隠れていることがよくあります。
そのタイプの質問には注意しましょう。

(小野田博一著『正論なのに説得力のない人 ムチャクチャでも絶対に議論に勝つ人』日本実業出版社 第4章 説得力に乏しい「下手な詭弁」p124~125)



色々考えたいことはありますが、
タイムリーで分かりやすいところから取り上げていきたいと思います。
今回も非常に単純で分かりやすい例です。

以前に、「暗示にかけようとする表現」というトリックを
ご紹介しましたが、覚えていらっしゃると思います。

繰り返しになりますが、一部抜粋すると、

・論じたい点として主張を述べず、主張を前提とした別の論を書く
──これが第一の方法です。

このタイプの文章は、
批判精神の乏しい読み手には強い影響力があるので、
読み手には危険な書き方です。

たとえば、「女性が依存症を克服するにはどうしたらよいか」
という論があったとしましょう。
これには「女性には依存症がある」という前提が隠れています。


というものです。しかも、

批判精神の乏しい読み手がこれを読むと、
「女性には依存症がある」という考えを無意識のうちに持つことになります。
論理で納得して自分の考えとするのではなく、
無意識のうちに無批判に自分の考えとしてしまうことになるので、
これは読み手にとって非常に危険な方法です。


というものなので、知らず知らずに話し手の考えを刷り込むには
非常に有効な方法なのです。

この後に例示されていた三つの論、

a『なぜ私はこれほど聡明なのか』
b『**政策のどこが悪かったのか』
c『あなたはなぜ勉強の仕方が下手なのか』


で言えば、これを議論することは、

aなら「私は聡明だ」ということが前提にある議論となり、
bなら「**政策は悪かったのだ」ということが前提にある議論となり、
cなら「あなたの勉強の仕方は下手だ」ということが前提にある議論となる

ということです。
そこに気付かすに議論が始まってしまえば、
その前提が事実かどうかという検証はありません。
つまり、「私は聡明だ」「**政策は悪かった」
「あなたの勉強の仕方は下手だ」ということが
刷り込まれることになるのです。

これを応用して質問の形にしたものが、
冒頭の多重尋問(暗示にかけようとする質問)です。

さて、今回の本題の実例です。
飛雲 『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り28
にありました『顕真』7月号の「疑難と答え5」は、
答えを読まなくてもこの「疑難」の部分

弥陀の本願は矛盾か

(疑難)
「弥陀が十方衆生を煩悩具足・造悪不善の者と見抜いて十八願を建てられているのに、十九願で諸善を勧めていられるのは矛盾ではないか」



を一読するだけでこの多重尋問の誤謬だとわかります。

飛雲では答えの部分の間違いをわかりやすく解説されていますので、
私は論理の観点からもこの問い自体の誤りについて述べます。
といってもここまでのところを読まれて理解されていれば、
もう既にこの誤謬についてお気付きで、
私の説明も要らないのかも知れません。
しかし、自分の言葉で説明をするというのも、
考えたり理解の整理をするという上では大事なことなので、
やっていきます。
(自分の考えを書けば、間違っていれば教えてもらうこともできます。)

この疑難には、例に漏れずいくつかの「隠れた前提」があります。
まず一つには、
・「十九願で諸善を勧めていられるのは矛盾ではないか」という疑難がある
という前提です。

これはどのような意味で言っているのでしょうか。
「十九願は矛盾する」という疑難なら、ありません。
後から飛雲さんも
「18願と19願とが矛盾するとしきりに言っていますが、何も矛盾しません。
私が矛盾すると言っているのは、
悪人に19願を勧める高森理論が矛盾だと言っているのです。」
と書かれているように、
誰も“諸善について説かれた”十九願が矛盾するとは言っていません。
「親鸞会の『十九願に“諸善の勧め”がある』とする主張が矛盾する」と言っているのです。


ですから、ここからもう一つの前提と、
親鸞会の思惑が見えてきます。
ここに含まれている二つ目の隠れた前提は、
・「十九願に“諸善の勧め”がある」
ということです。
ここでいう諸善の勧めがあるとは、「諸善を説かれた」ということではなく、
(お釈迦様が定善散善について説かれたのは事実です)
親鸞会が言っている、
「実行させるために」諸善を説かれたという意味です。

これは、親鸞会独自の主張であって、
批判者は「十九願は諸善の勧めではない」と言っているのですから、
親鸞会だけに通用する前提です。

つまり、この疑難は「諸善の勧めがある」とする親鸞会自身が抱える、
自己矛盾に対する疑難なのです。
いわば自問自答です。
最初の引用の記事の中でいえば、
隠れた前提を正しいこととして暗示にかけようとする、
「自分で答えるために問う質問」なのです。
このような「低級テクニック」にだまされてはいけません。

言い換えれば、親鸞会の教えは
「十九願に“諸善の勧めがある”」とするから矛盾するのです。
ここで「諸善の勧めがあるとすると、矛盾するのではないか?」
と言っていますが、そのとおりなのです。
矛盾してしまう、お聖教にも説かれていない教えだから、
「諸善の勧めはない」と言っているのです。
ですから、親鸞会は「答え」の部分でも、
その自問自答にまともに答えることができていないのです。
元々答え(根拠)がないのですから当然です。

例えて言うなら、
「なぜ兎に角があるのか」
という問いに答えようとしているようなものです。
設問自体が誤りなのですから、
何を答えても誤りにしかなりませんし、
答えようとすれば支離滅裂になるのは当たり前なのです。

逆に言えば、
「十九願に諸善の勧めがある」を前提としている親鸞会員にとっては、
「十八願だけで救われる」という本来の浄土真宗の教えは、
矛盾に聞こえてしまうのでしょう。
だからこそこのような想定疑難が浮かんだとも言えます。

まとめますと、この疑難5の中には、
1、「十九願で諸善を勧めていられるのは矛盾ではないか」という疑難がある
という隠れた前提がありこれが間違いで、
さらにこの前提1の中には、
2、「十九願で諸善を勧められている」
という前提が含まれており、
これが間違いの根本だということです。
間違った前提から出発しているので、
本来の教えとは辻褄が合わなくなるのです。

この疑難と答え5を無批判に読むことができる人には、
・親鸞会を批判している者には「十九願が矛盾する」と言っている者がある
・十九願では諸善が“勧められている”
ということが刷り込まれる
ことになるのです。

正しくは、
・十九願が矛盾するのではなく、浄土真宗で
十九願に諸善の勧めがあるとする親鸞会が矛盾すると言っている
・十九願で諸善をやりなさいと勧められていると見るのは誤り
なのです。

【付記】
ついでなので、述べておきますと、
この多重尋問の誤謬は、親鸞会の『教学聖典』と言われるものの中で
多く使われ、効果を発揮していると考えられるものです。

つまり、「問い」自体に前提として作者(高森会長)の考えが含まれており、
その「誤った問い」に対して「答えがある形を示す」ことで、
その問題にあらかじめ含まれている根拠のない前提が
読む人に刷り込まれていくというものです。

こちらのサイト『TS会 教学○典の研究』
を参考にいくつか例を拾ってみました。
→の先で示したのが、その設問の中に含まれる作者の考えで、刷り込まれていく間違いです。(正しくはそのような内容ではない。)

『教学聖典』(1) 
問(12)
親鸞聖人の仰せは釈尊の直説である根拠をお聖教のご文で示せ。
答(12)
○更に親鸞珍らしき法をも弘めず、如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり。(御文章)

→親鸞聖人が「私の言っていることは釈尊の直説であるぞ」と言っている。

問(39)
「地獄へ堕ちてから、善知識の教えに従わなかったことを後悔する」と仰せられた善導大師のお言葉を書け。
答(39)
○一たび地獄に入りて長苦を受くる時、始めて人中の善知識を億う。

→「地獄へ堕ちてから、善知識の教えに従わなかったことを後悔する」と善導大師が仰っている。

問(43)
「善知識の教えに従わないから、永遠に苦しみ続けなければならぬのだ」と教えられた、釈尊のお言葉と、その根拠を示せ。
答(43)
○教語開示すれども信用する者は少し。生死休まず悪道絶えず。(大無量寿経)

→「善知識の教えに従わないから、永遠に苦しみ続けなければならぬのだ」と釈尊が教えられている。

問(50)
「人間に生まれてきたのは、仏法を聞き絶対の幸福になることだ」と教えられた、釈尊のお言葉を示せ。
答(50)
○人身受け難し、今已に受く。
 仏法聞き難し、今已に聞く。
 この身今生に向って度せずんば、さらにいずれの生に向ってか、この身を度せん。

→「人間に生まれてきたのは、仏法を聞き絶対の幸福になることだ」と釈尊が教えられている。

『教学聖典』(2)
問(27)
三業の善を勧められた善導大師のお言葉を書け。親鸞聖人はそれをどのように読み変えられたかも示せ。
答(27)
不得外現 賢善精進之相 内懐虚仮
○外に賢善精進の相を現じて、
 内に虚仮を懐くことを得ざれ。(善導大師)
○外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、
 内に虚仮を懐けばなり。(親鸞聖人)

→善導大師は三業の善を勧められている。

問(28)
「十方衆生に善人は一人もいない」と言われた親鸞聖人のお言葉と、その根拠を示せ。
答(28)
○一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し。(教行信証信巻)

→親鸞聖人は「十方衆生に善人は一人もいない」と言われている。

問(43)
苦しみの人生を、明るく楽しく渡すものが阿弥陀如来の本願であることを明言されている親鸞聖人のお言葉と、その根拠を書け。
答(43)
○難思の弘誓は難度の海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり。
 (教行信証総序)

→「難度の海を度する大船」とは、苦しみの人生を、明るく楽しく渡すものという意味である。

問(47)
「阿弥陀如来に救い摂られた人は絶対の幸福になれる」と明言されている『歎異抄』のお言葉を示せ。
答(47)
○念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし、罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなき故に無碍の一道なりと、云々。

→阿弥陀如来に救われるということは、絶対の幸福になれるということである。

『教学聖典』(3)
問(2)
自分の信心を謗る者のあることを、かえって喜ばれた親鸞聖人のお言葉と、その根拠を示せ。
答(2)
○「この法をば信ずる衆生もあり、謗る衆生もあるべし」と仏説きおかせ給いたることなれば、我はすでに信じたてまつる、また人ありて謗るにて「仏説まことなりけり」と知られ候。(歎異抄)

→親鸞聖人は自分の信心を謗られてかえって喜ばれている。

問(30)
阿弥陀如来に救い摂られると、ハッキリする、と教えられた釈尊のお言葉と、その根拠を示せ。
答(30)
○明信仏智(大無量寿経)

→釈尊が教えられた「明信仏智」とは、「阿弥陀如来に救い摂られるとハッキリする」ということである。

問(32)
阿弥陀如来の本願(お約束)の本意を、釈尊が明らかになされたものを『本願成就文』と言われるが、その『本願成就文』を記せ。
答(32)
諸有衆生聞其名号 諸有の衆生、其の名号を聞きて、
信心歓喜乃至一念 信心歓喜せんこと乃至一念せん。
至心廻向願生彼国 至心に廻向せしめたまえり。
         彼の国に生れんと願ずれば
即得往生住不退転 即ち往生を得、不退転に住す。
唯除五逆誹謗正法 唯五逆と正法を誹謗せんとをば除かん。

→『本願成就文』とは、阿弥陀如来の本願(お約束)の本意を釈尊が明らかになされたものである。

問(48)
阿弥陀如来の名号を聞く一念で、無上の功徳と一体になれると教えられた、釈尊のお言葉を『大無量寿経』で示せ。
答(48)
○仏、弥勒に語りたまわく「それ彼の仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍し、乃至一念すること有らん。当に知るべし。この人は大利を得と為す。すなわちこれ無上の功徳を具足するなり」。

→釈尊は、阿弥陀如来の名号を聞く一念で、無上の功徳と一体になれると教えられている。

『教学聖典』(5)
問(24)
「無宿善は絶対に助からぬ」と明言されている蓮如上人のお言葉と根拠を示せ。
答(24)
○いずれの経釈によるとも既に宿善に限れりと見えたり。(御文章)
○無宿善の機に至りては力及ばず。(御文章)

→蓮如上人は「無宿善は絶対に助からぬ」と明言されている。

問(26)
「宿善に厚薄あり」と言われた蓮如上人のお言葉と、その根拠を示せ。
答(26)
○宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり、弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く開くる人もあり。(御一代記聞書)

→蓮如上人が「宿善に厚薄あり」と言われた。

問(28)
「宿善」とはどんなことか。二通りの読み方を示せ。また宿善が厚くなる順から三つあげよ。
答(28)
○「宿世の善根」とか、「善が宿る」とも読む。
(1)熱心な聞法
(2)五正行の実践
(3)六度万行の実践

→宿善が厚くなる。

ここまで写して疲れました。
あとはご自身で確認してみてください。
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根拠と結論の関係~結論先にありきが生み出す矛盾~

2011年07月20日23:25

●論理の原則9【根拠をたどって結論を導く】

主張の書き方はわかったけど、
主張の中身そのものを考え出すにはどうしたら良いのか?
『論理の原則6』で説明したように、
因果関係の順序を追って考えましょう。
理由→根拠→結論の順序で考えれば良いのです。

(ここまでの【主張A】を使った説明では結論をはじめに書きましたが、
これはあくまでも話を分かりやすくするためでした。)

【主張A】の場合ならば

近頃犯罪率が増加している、なにか良い策はないだろうか? →色々と調べた結果、神奈川県では警察官を増員したら犯罪率が低下したという事実がある。→早速、我々も警察官の増員を検討しよう。


このような順序で考えます。

これが結論→理由→根拠の順序で考えるタイプの人だと・・・

警察官を増員しなければならない。だがいきなりそんなことを言っても誰も納得しないからな、何か正当な理由をくっつけないといけない。そうだ、たしか近頃犯罪率が増加していたな、理由(建前)はそれでいいや。それに、警察官を増員すれば犯罪率が低下するという仮説もくっつけて根拠にしよう。勿論そんなデータは無いから資料は出さないことにしよう。


こんなふうになります。

こうして後付けされた理由や根拠はいい加減なものであったり、
ひどいときには捏造される事もあるのです。

こうしたタイプの人は普通主張する内容とは別の目的を持っています。

例えば、この人は警察の役人で組織を大きくしたいがために
主張しているだけかもしれません。
こうした人は、
本当の理由や根拠を書くと誰も納得しない事が分かっているので、
本音とは別のもっともらしい理由や根拠を後付けするのです。

このタイプの人は、
議論されている議題について
利害関係色の濃い人である事が多いのですが、
そのことは第四章と第五章で詳しく書きます。

ちなみに、仮説は事実に比べると弱い根拠ですが、
それが仮説であると前置きをしたり、
語尾を推測系(~でしょう、~の可能性がある等)にして述べれば
なんら問題はありません。
「中学生からの論理的な議論の仕方」第一章 論理的な主張の仕方


前々回の続きです。

『顕真』6月号の「疑難と答え3」です。
一言で言えば、むちゃくちゃで不思議な文章です。
前回ご紹介した
『正論なのに説得力のない人 ムチャクチャでも絶対に議論に勝つ人』
では、第2章に「単なる論理間違いとムチャクチャな論理」が
書かれてあるのですが、その論理間違いにすら該当しません。
詳しく知りたい方はこの本を読んでみてください。
しかし、今回はそうした本の内容も
詭弁についても仏教も何も知らなくてもわかる、
論説自体の自己矛盾です。

それ程、この「疑難と答え3」は、
意味不明と言ったほうが近い内容です。
なにせ、延々と述べてきた自分たちの主張を否定して
根拠としているのですから、訳がわかりません。
例えば、

Aである。
なぜならば、Bだからである。(それで、Bの話を延々とする)
(その後で突如、Bではなく)Cなのである。(CはBを否定する内容。Cには根拠もない)
Cなのだから、Aなのである。


こんな文章があったらどうでしょうか?
意味がわかりませんね。
何一つ根拠として結論を支えているものがありません。
強弁というより、支離滅裂なのです。

Aであることの理由として、
Bであるからとその話を延々と述べておいて、
Bを否定するCの話を根拠もなく突如出してきて、
根拠のないままCであると断言し、
最後は、Cであることを理由に、Aであると結論づけているのです。

これが、実際の親鸞会の話です。
信じがたいのですが、下に全文を記載しますので、
読んでみてください。 注1)
論点の「善の勧めはあるのか」いう点に関して
この主張を要約をすれば以下のようになります。
(それ以外の枝葉末節についても間違いだらけですが
それは後回しにします。ここでは最も大きな
これだけで間違いとわかる全体としての矛盾について取り上げます。)

①十九願は、悪人に善を勧められたものである。(…A)

②なぜなら、それは観経を見ればわかる。
釈尊は、悪人の韋提希に「善のできないことを知らせる為に善を勧められた」からである。(…B)

③後生に驚き苦になって弥陀の救いを求めて初めて、「雑行」や「自力の心」は現れるのである。(…C)

④だから、十九願の善の勧めによってしか「雑行」は現れないのであるから、善の勧めは必要なのである。(…Cを根拠とした結論)


②の話は、観経のアニメを通して親鸞会が一貫してずっと主張してきたことです。
「自惚れて善ができると思っている韋提希に
善のできないことを知らせる為に善を勧められた」と高森会長は説いてきました。
親鸞会のアニメの物語もそのように描かれていますし、
この論説でもこの物語を2ページ余りにわたって述べているのです。

ところが、です。
そんな論述が終わって、すぐに、その物語を否定する話を始めるのです。
③の部分です。親鸞会の文章では

⑴「雑行」や「自力の心」と言われるものは、後生が問題になり、弥陀の救いを求めて初めて現れるものだ。
⑵だから、「雑行」は、弥陀の救いに諸善を勧める、十九願よりしか現れようがないのである。(←この論説の結論部分)


です。

上の論理の「だから、である」と言えるためには、
「隠れた前提」がなければならないことにお気づきでしょう。つまり、

※「善の勧めによって、後生が問題となり、弥陀の救いを求める心(自力の心)が起き、「雑行」が現れるのだ」

という前提です。
これがなければ、⑴から⑵は導けません。
これが正しいという前提があってはじめて、「⑴だから⑵である」と言えるのです。
つまり、この論説は、結論としてこのを理由に、
善の勧めが必要だと述べているのです。

しかし、思い出してください。
このすぐ前の部分に、長々と論じたアニメの韋提希の物語は
何だったのか。

善の勧めによって、韋提希は初めて後生が問題になったのですか?
→違います。
順序が逆です。
実際の『観経』でも、
韋提希は、自分の過去を見つめて苦を厭い、
お釈迦様に苦しみ悩みを訴えますが、
心が未来に向いて浄土を欣う心になったところで、
お釈迦さまは説法を始めるのです。
親鸞会のアニメでもそのように描かれているはずです。

つまり、と矛盾するのです。
「後生が苦になって問題になっている(実際には浄土往生を願う)のは、
定善・散善の説法の前だからです。

逆にが正しいとするなら、
この論説の中で延々と述べられている
②のアニメに基づいた『観経』の話は意味がありません。
②は「善の勧めによって、できないことを知らされた」という話であって、
この話の中でも「後生が問題になっているのは、善の勧めの前」だからです。

この陳腐な矛盾がわかるでしょうか。
他の詳しい話を知らなくても、
この短い論説を一読するだけでわかるおかしさです。

これに気付かないとすれば、会員は読んでいないのです。
読んでいるとしても親鸞会の教義の構成と同じく、
読んだり聞いたりするのも断章的に読む癖がついてしまっているのです。
だから、自分が知っていたり信じていたりする文章があれば、
もうそれで、「そうだ、そうだ、だから正しいのだ」
あるいは、何か知っている文言が書いてあればそれだけで、
「正しいことが書いてあるのだろう」
と安心して満足してしまうのです。
この文章に対してもそういうものなのでしょう。

それと、②の話と違うの話を出してもおかしいと思えないのは、
それはの中の
★「後生が苦になり驚いて問題になって初めて、雑行や自力の心が問題になる」
という、親鸞会独自の教義が、
(これは会長の「体験談」の「教学化」によるものですが)
会員内に浸透しているからです。

これ自体を信じているから、
直前に②でされている話も忘れてしまって、
韋提希は善の勧め(実際は定善・散善の説法)の前に、
往生を願っているのですから矛盾することがわかりそうなものなのに、
この独自の★の教義の前に「善の勧めによって」をくっつけて
「善の勧めによって、後生が苦になり問題となって初めて雑行は現れるのだから」
(「善の勧めによって」+★=
と自分が書いた『観経』の韋提希の物語までもを否定しているのです。

前にこのサイトで述べた、
「隠れた前提があって、しかもそれが自分の信じている内容であると気付きにくい」
というのはこのことです。

わかりますでしょうか。
今は、親鸞会の論理の矛盾を述べています。

つまり、この論説全体での親鸞会の理屈はこうです。
・善の勧めは必要だ。
・韋提希は善の勧めによって、善のできないことを知らされた。だから善の勧めは必要だ。
・善の勧めによって、初めて後生が問題になる。それで雑行や自力の心は現れる。だから善の勧めは必要だ。
2番目と3番目は矛盾していて、しかもどちらも間違いです。 注2)

要するに、親鸞会にとって理由は何でもいいのです。
仏法や浄土真宗に見せかけて会員を騙せそうなものならば。
はじめに「善の勧めはある」という親鸞会(高森会長)にとって
都合がよく必要な結論があって、
それに対してあちこちから根拠になれそうなものを
後付けでその都度引っ張ってくるのです。
ですから、根拠はころころ変わりますし、
前に出した根拠と違っていたり矛盾していたりしても平気です。

カルト化教団に共通する性質ややり方をここにも見ることができます。
最初に教祖の思いつきの結論があり、
その理由は後から付けて正当化を図るのです。
理由も思いつきですからその都度コロコロ変わったり矛盾したりします。
それを、なんだかよくわからないけど間違いはないのだと
「深い御心」なのだと都合よく解釈して誤魔化してまた正当化するのが
信者(私)のほうの分担だったのです。(続きます)


注1)
親鸞会『顕真』平成23年6月発行 「宿善と聴聞と善のすすめ─弥陀の救いに値うまで─」から
(下線と囲みは私が付けました。)

疑難と答え 3
「雑行を捨てよ」の意味(その2)

(疑難)
「親鸞聖人は、雑行を捨てよと教えられているのだから、諸善をする必要はない。善を勧めるのは間違いだ」

(答え)
「雑行」とは、「弥陀の救いを求めてする諸善万行」「自力の心で行う諸善」と前述した。
 では、我々に弥陀の救いを求める心(自力の心)がどうして起きるのか。弥陀はどのように救いたもうのか。
 その経緯を詳述されているのが、弥陀の十九願の意を解説された、釈迦の『観無量寿経』である。

 そこには、十方衆生の代表として、王舎城の悲劇のヒロイン、韋提希夫人を登場させ、ドラマチックに説かれている。
 吾が子欲しさに“とても3年は待てぬ”と夫・ビンバシャラ王を動かして、何の関係もない修行者を問答無用で殺害させ、権力者の冷酷さをムキだしにした韋提希。
 その結果、産んで育てた阿闍世によって牢獄に幽閉され悲泣悶絶、それまで釈迦から聞法してきたはずの因果の道理も反故にして、己の蒔いた種を一切忘れ、相手構わず八つ当たり、韋提希はこの世の地獄を現出する。

「私は何のために生まれてきたのか。こんな苦しい、おぞましい人生、この世から地獄です。来世は二度とこんな地獄は見たくない。どうかお釈迦さま、私を苦しみのない世界へ行かせてください
 こう訴えて、精も根も尽きた韋提希は泣き崩れる。
 釈迦は彼女の切なる希求に応えて、
「汝は、どの浄土へ往きたいか」
と、二百一十億の諸仏の国土を展望させられると、
「私は阿弥陀仏の浄土へ生まれとうございます。
どうすれば安養の浄土へ往けますか。仰せのとおりにいたします」。

 悪しかできぬ韋提希が、ぬけぬけとこう言ってのけるのだ。まさに我が身知らずの地獄必定の実相である。だが韋提希はまだそのことに気がつかない。

 十方衆生に“弥陀の浄土へ生まれたい願心”を起こさせるのが、十九の願を建てられた弥陀の目的である、釈迦出世の本懐だったから、釈迦は初めて会心の笑みをもらされる。

 かくして、「弥陀の浄土へ往きたくは、定善をせよ。弥陀に向かって端座して、この観法をすればよい」と、釈迦は、まず定善十三観を説かれている。
 釈迦の教えに従って、心を静めようとすればするほど“阿闍世のチクショウ”“提婆のガキ奴”の、怒りと憎しみばかりが荒れ狂う。
 これでは、定善どころでないと韋提希夫人は大ショック。

 教えの通りやってみた定善に絶望し、悲鳴をあげる韋提希に、
「心を静められねば、乱れたままで、精一杯、散善をやってみよ」
と釈迦は説かれる。
 散善とは、全ての人を上品上生から下品まで、善悪によって九品(九種類)に分けられて、“どの善ができるかな”と勧められている諸善のことである。

 これもできない、あれもできないと実地にやらせて定善、散善ともに落第。
 心想羸劣、造悪不善の韋提希を知らせ、かかる“助かる縁なき者を救いたもうは、弥陀一仏”と釈迦は教授なさるのだ。

 釈迦は、韋提希夫人に、できっこないことを百も千も知りながら、なぜ、定善、散善を勧められたのか。
 自惚れ強い「自力の心」を捨てさせて、弥陀の救いに値わせるための、浄土方便の善だと、親鸞聖人は明かされている。


「雑行」や「自力の心」と言われるものは、後生が問題になり、弥陀の救いを求めて初めて現れるものだから、後生も弥陀の本願も問題にならない信仰のレベルでは、チンプンカンプン分かるものではないのである。

 ちょうど、ヨチヨチ歩きの女の子には、産前はこうだ、産後はああだと言っても、チンプンカンプンと同じこと。
 後生が苦になり驚いて、弥陀の救いを求める心(自力の心)が起きるまで、信仰が進んでもいないのに、「雑行」を捨てよも、拾うもあったものではない。チンプンカンプン、そらごとたわごとでしかないのだ。

 だから「雑行」は、弥陀の救いに諸善を勧める、十九願よりしか現れようがないのである。


 その「雑行」が分からぬのは、十九の願の門戸にも立っていない証しであろう。
 この弥陀・釈迦の「方便の善」が分からねば、「雑行を捨てよ」を「諸善を捨てよ」「諸善は必要ない」と、誤解するのも無理からぬことといえよう。

 七高僧が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」ではなく、何とかすれば、何とか助かると思って、諸善万行をやっている「自力の心」のことである。

 弥陀に帰命する一念に「雑行・雑修・自力の心」が廃るとは、決して諸善万行や称名念仏をしなくなるということではない。
 廃るのは、あくまでも「自力の心」なのである。

 それは、親鸞聖人や蓮如上人の、弥陀に救われてからの言動を見れば明らかだろう。
 日野左衛門の門前で、石を枕に雪を褥の聖人のご苦労や、身命を賭しての弁円済度など、諸善や念仏は量り知れない。
 だか、それらを決して、雑行とも雑修をも言わないのは、「自力の心」の浄尽した仏恩報謝の行だからである。

 「雑行を捨てよ」とは断じて「善をするな」「諸善を捨てよ」ということではないことは明白であろう。



注2)
飛雲「韋提希が定善を試みたと説く聖教はない」
飛雲「『大無量寿経』『観無量寿経』も読んだこともなくて、善知識を演じられますか」

絶対に議論に勝つ人

2011年07月16日21:42

前回の続きについては次回にします。

今回は参考になる本の中から紹介したいと思います。
小野田博一著『正論なのに説得力のない人 ムチャクチャでも絶対に議論に勝つ人』日本実業団出版社 2004年 です。

“詭弁術”とありますが、実際の内容は詭弁を見抜いて
上手な議論ができるようになりましょうという内容です。
以前に挙げた香西秀信氏の言葉にもあった、
「自分を詭弁を使えなくなるほどに、詭弁を学ぶべきである」
(詭弁を本当に学んだなら、詭弁は使えなくなる)
ということだと思います。

印象に残る部分について簡単に紹介したいと思います。
内容の如何に問わず“説得力があるように見せかける”には、
次のようにすればよいということがわかります。
(これまでに取り上げた詭弁と重なるところもありますが
ご了承ください)
以下引用と本文から要約して説明します。

間違った解釈、歪んだ解釈

5-16 歪めてアタック(ダミー論証)
 アタックする対象の意見を歪め、
その加工された意見をアタックするものです。

 選挙運動のときに政治家がよく使うけれど、
政治家のみではなく、ほとんどだれも使う手法です。
英語ではstraw manと呼ばれています。

straw manは、中世で、フェンシングの練習の相手として
ワラ人形を使っていたことに由来している呼び名です。(p146~147)


これは、ある意見(A)に不賛成であり、
なぜ不賛成なのか述べようとするとき、
その意見Aがどのような意見であるかをまず
簡単に述べ、それから反論するときに用いられるものです。

つまり、Aを簡単に述べる際、
その意見を克明に紹介したりはせず、
攻撃したい部分を中心に述べるのです。

ところがそのAの紹介に際して、
歪み(解釈の歪み、圧縮の歪み、不適切な語の使用など)が
加わるのです。
そして、反論をなるべく簡単に済ませたいという
気持ちが強ければ強いほど、歪みはすさまじくなり、
同時に説得力を失うことになるというものです。

資料の歪み

 Aと主張したい人は、
その主張を支える資料を積極的に探すもので、
また、それに反する資料は無視したり、
見落としたり、例外扱いしやすいものです。

誠実な人であっても、
自分の主張を支える資料を挙げるときは、
多少の歪みは入ります。

概して、資料の歪みについては、
聞き手よりも述べ手のほうが盲目になりがちです。
というのは、述べ手には
「自分の主張を支えたい」という強い思いがあるので、
その思いで自分の目がくらまされてしまいがちだからです。

 歪んだ資料から間違った結論が導かれている場合、
そしてその結論が正しく見える場合、
それが間違っていることがわかるまでには長い時間がかかります。
「資料の歪みがもとになっている間違った議論」は
非常に説得力があるのです。

5-23 一般化(間違った資料による)
 わずかな資料、歪んだ資料などをもとに一般化を行う
(背後にある一般的な法則を導き出す)ことを
「性急な一般化(hasty generalization)」と言います。

 一般化によって議論を述べる場合、
「それに使っている資料が一般化を行うのに妥当であること」が、
その議論の説得力に直接つながります。

つまり、「この資料で(そんなことが結論できるの)?」
と読み手・聞き手に思わせてはならないのです。
(p153~154)


通常、例数は多ければ多いほど、
一般化の説得力は強まります。

そして、「資料が歪んでいたり偏っていたりする可能性がある」
と聞き手、読み手に思えるとき、
議論の説得力はほとんどなくなります。

たとえば、
・自分に都合のいい資料にのみ言及する
・偶然と思える一例や特殊な一例から一般化を行う
(偶然の虚偽)
・古い資料が使われている
(聞き手・読み手には、古い資料をわざわざ使う
なんてことはするはずがないという思い込みがある)
・典型的でないサンプルが選ばれている
(これも、聞き手・読み手の側に、典型的でないサンプルが
わざわざ選ばれているはずがないという思い込みがある)
等の場合です。

資料の歪み方には、
歪めるのが故意であろうとなかろうといろいろなタイプがあり、
見落としやすいので注意が必要だということです。

ポイントはずれの話題

5-1 そらす、避ける(幻惑論証)
 そらす方法はいろいろあります。
「別の話題や枝葉の問題(a side issue)を持ち出してそらす」
のは、その一つです。

この手法は英語ではred herringと呼ばれています。
red herringはニオイが強く、
猟犬の嗅覚を狂わせてしまう燻製ニシンのことで、
猟犬のトレーニング用に使われています。(p133)


これは「燻製ニシンの虚偽」といわれるものですね。
論点のすり替えともいわれます。

悪口

5-9 人身攻撃(ad hominem abusive)
形式:「A氏はBと主張している。
A氏はCである。したがってBは正しくない」
 
Cの部分はA氏の性格、行動のほか、性別、民族、社会的地位、
ほかさまざまです。

さらに、Cは必ずしも真実であるとはかぎらず、
誹謗、中傷であることもあります。

対人(ad hominem)論証の一種で、
議論そのものではなく人を攻撃するものです。(p140)


このタイプの議論はまったくの論点はずれで、
読むにたえない・聞くにたえない極めて不快なものが多いものです。

5-12 連座の誤謬(guilt by association)
形式:「A氏はBと主張している。
A氏の仲間(あるいは、Bの支持者)はCである。
したがってBは正しくない」

 対人(ad hominem)論証の一種。


例「ニーチェの超人思想はナチスに支持された。
だから超人思想は正しくない」
(これは説得力がない例)

露骨な悪口が説得力をもつことはあまりありませんが、
注意しなければならないのは、
悪口らしく見えない悪口だということです。

本からは以上です。
いかがですか。
詭弁とその使い方を知ると、
それまで説得力があるように感じていたものに
全く説得力がなくなったりします。
つまり、それだけ惑わされていたということです。

詭弁と言っても、詭弁だから間違いだとは言えません。
詭弁ですよと言っても、ただ、
もう一つ別の見方を示しているだけに過ぎないのです。
ある一方的な見方への誘導に対して、
「そうは言っても、こういう見方もある、
本当にそれは正しいのか(説得力があるのか)」と
別の見方をすることによって考えるということです。
それだけ、私達の思考の仕方や思い込みには共通した癖があり、
正しく判断しているつもりでもいい加減なものだということです。

それにつけても、最後の「対人論証」についても思うのは、
人の意見(広く捉えて話)には当然
その人の人格が表れるに違いないのですが、
意見(話)と人格は別物だということです。

これが、
絶対的な人間の存在を認め、
しかもその人一人が絶対的であり、
その人の話を絶対的なものとして聞くことをよしとし、
人そのものに依存することにむしろ自ら疑問をはさまないようにする
などといったことをしてきていると、
人格と話に区別をつけることが難しくなるのでしょう。
人が違えば意見が違って当たり前なのです。
(今は、“人間”の話をしています。真実の法とは別の話です。)

ところが、ある一人の話が絶対的(間違いのないもの)であるとすると、
その人の話にすべての人が同化することを他人や自らが要求します。
誰しも、“間違いのないもの”“真実”を信じたいという願望があるからです。
その願望を叶えてくれる“人間”がいるという勘違いを始めると、
つまり、「その“人”を疑わないようにして信じっていったら救われる」
という宗教が生まれると、
あたかもその人間が真実あるいは真実の付与者であるかのように、
その人間が信仰の対象になっていくのです。(いわゆる神格化です。)

そしてその一人の人間の境地を理想として、
その人が説くその人と同じ境地になることを目指すので、
すべてが正しいその人と同じことを言わなければならないとなって、
違ったことが言えないという思いや集団を生み出します。
ついには自分が主体性をもって考えることを忘れ、
人(の話)に“全面的に”依存をしようとするという
過ちを犯す(させる)ことにもなるのです。

接続詞のない文章②~隠す効果~

2011年07月09日10:21

4-36 隠す効果

 詩には行間(での表現)が必須です
(字面だけの意味しかなかったら、詩ではありません)。
しかし、論理的な表現に行間があってはなりません
(すべて述べつくすことが
──読み手に解釈をゆだねないことが──
少なくとも述べつくそうとしている姿勢が必要です)。

 では、詭弁に行間は?

 下手な詭弁には必要で、上手な詭弁には不要です。
 下手な詭弁の場合、理屈をすべて明言してしまうと
「間違い・欠陥」が歴然としていまうので、
議論の一部が行間に隠れていたほうが説得力があります。

この場合、読み手が説得力を感じるなら、それは
ごまかされたがゆえの説得力です。
ごまかされない人には効果はありません。


 上手な詭弁は、すべて語って、
その説得力でフェアに勝負するものです。
したがって、隠す部分は不要です。

☆すべて明言しないことの効果(知性の低い人にしか効かない)

 ソクラテス「みんなは食わんがために生きているが、
私は生きんがために食う、という点で違っているのだ」

 これを読んで多くの人は
──少なくとも読者のうちの数割くらいの人々は、
「なかなかうまいことを言うなあ」と思うでしょう。
ところで、「みんなは食わんがために生きている」の
暗示しているものが何かと言えば、
「低俗な生き方としての食べ方をしている」ということです。
一方、「私は生きんがために食う」の部分が暗示しているのは
「高尚な生き方としての食べ方をしている」ということです。

つまり、これらを明言してしまうと、

「みんなは食わんがために生きていて、
低俗な生き方としての食べ方をしているが、
私は生きんがために食う高尚な生き方としての食べ方をしている。
その点でみんなと私は違っているのだ」

となります。
こちらの明言版を呼んだ人のほとんどは「はー?」と思い、
「なかなかうまいことを言うなあ」と思う人は
だれもいないでしょう。

 暗示版を読んで、「なかなかうまいことを言うなあ」と思う人は
「高尚さの暗示」にごまかされているのです。

 暗示版を読んで名言版が見える人には、
暗示の効果は何もありません。
したがって、すべてを述べつくさないことで
(述べてしまうとキズが露見してしまう内容を隠すことで)
議論に説得力を加えようとする試みは
詭弁の低級テクニックです。

☆「したがって」や「ゆえに」がない

 「したがって」や「ゆえに」のない書き方は論文や論説文では、
致命的です(英語の小論文esseyでは大減点をまねきます)。
でも、雑談調の文章(「何かを論じている」という感じなしの文章)では、
有効であることは多いものです。

 

「株価が上がり始めてから買おうとすると高値で買って儲け損なう。
上がる前に買おうとすると、買ってから値段が下がって損をする。
株は儲からないものだ」

 この例文中の「株は儲からないものだ」の前に
「したがって」があると、論理が変なことが露見してしまいます。
「したがって」を使わないと、論理が変なことはわかりにくくなります。

 論理が変なことを承知の上で述べざるを得ないなら
(ほかのもっと有効な述べ方を思いつけないなら)、
「したがって」や「ゆえに」を省略するほうがよいのです
(でも、繰り返しますが、省略で議論に説得力を加えようとする試みは、
詭弁の低級テクニックです。上級者はこのようなことをしてはいけません)。

(小野田博一著『正論なのに説得力のない人ムチャクチャでも絶対に議論に勝つ人』日本実業出版社 2004年 
第4章 説得力に乏しい「下手な詭弁」p127~129)



前回(『顕真』6月号「疑難と答え」2)についての続きです。
文章がつながるように接続詞を入れて足りない語を赤字で補ってみます。

① 真宗の人びとに、疑難のような誤解が多い。
しかし、疑難のとおりなら、聖人の教えは怠け者を作る教えになる。なぜなら、雑行と言っても「仏法で説く諸善」だからだ。
② これは「雑行」というものを知らない人の発言であり、このような聞き誤りが多いのが現状である。
その元はどこにあるのか解明しよう。
③ まず、雑行とは弥陀の往生浄土の救いを求めてするもろもろの善をいう。
ではなぜ、仏教で説かれる「諸善」を「雑行」と嫌い捨てよと言われるのか。
④ それは自力の心で行うからである。「自力の心」さえ廃れば「雑行」ではなく「御恩報謝の行」である。
したがって、「自力の心で行うその雑行そのものを捨てよ」ということなのである。
⑤ 例えば、(結婚と離婚の例)
⑥ では、「自力の心」とは何か。弥陀の本願を疑う心である。
⑦ それは善ができると自惚れて、弥陀の本願に反している心である。
⑧ ではなぜ、「自力の心」が恐ろしいのか。
⑨ (5歳の男の子の例え話)
⑩ それは、弥陀は「どうかそのまま受け取ってくれ」と今現在叫び続けているのに反する心であるからである。
⑪ すなわち、その弥陀を疑う「自力の心」こそ、阿弥陀仏を殺す凶刃である。
⑫ したがって「雑行を捨てよ」とは、この「自力の心」を捨てよであって、もろもろの善を捨てよということではない。
⑬ (本願疑惑を戒めるご和讃)

いかがでしょうか。
青字の部分が論理的に変であることが露見してしまいます。

つまり、「雑行を捨てよとはいかなることであるか」の説明としては④の
したがって、「自力の心で行うその雑行そのものを捨てよ」ということなのである。
で終わっており、以下⑤は「自力の心」と「雑行」の関係の説明
(実際は適切な例えになっていない)
⑥~⑪は「自力の心」の恐ろしさの説明であって、
そこからは⑫のような親鸞会の結論は導き出されないのです。

その証拠に、親鸞会の主張に接続詞を加えてみると、
・「雑行」と言っても仏教で説く諸善である。
したがって、「雑行(諸善)を捨てよということではなく、自力の心を捨てよ」なのである。
(①~⑤の主張)
・「自力の心」とは阿弥陀仏を殺す凶刃の恐ろしい心である。
したがって、「諸善(雑行)を捨てよということではなく、自力の心を捨てよ」ということである。
(⑥~⑫の主張)

となって、親鸞会の「雑行=諸善」という前提が間違っていることが
わかりますね。

すなわち、親鸞会の説明の言葉をそのまま使えば、
仏教で説く諸善の、弥陀の救いに己の善を役立たせようという心で行う諸善のことを「雑行」という
のですから、訳のわからない理屈をつけずに、
浄土真宗の教えのとおり「雑行という諸善を捨てよ」でいいのです。
雑行を捨てようとしたら善いことができなくなるはずもなく、むしろ逆なのです。
それなのに親鸞会が浄土真宗の教えに従って正しい説明をしない、
できないのは、
自分の勧めている諸善が雑行になることが明らかになるからです。
それで、根拠もなく独自の定義で誤魔化そうとして無茶な論理になるのです。

繰り返しますがだからといって「雑行をすてよ」が親鸞会の反論のように
「善いことをしてはならない」とか「悪いことをしなさい」ということになってしまう
はずがありません。そのように言うのは浄土真宗を知らないのですから
きちんと浄土真宗を学んでくださいということです。

ついでに「疑難と答え」の1と3についても見てみましたが、
詭弁の特徴が表れていますから、次回に考えてみたいと思います。

参考までに、「接続詞」について詳細に解説された本から
その役割と意味について一部抜粋します。
親鸞会が本当に読み手のことを考えているのかどうか
それ以前に自分がわかって書いているのか
少し考えたほうがいいと思います。

 接続詞で問われているのは、
命題どうしの関係に内在する論理ではありません。
命題どうしの関係を書き手がどう意識し、
読み手がそれをどう理解するのかという解釈の論理です。

 もちろん、言語は、人に通じるものである以上、
固有の論理を備えています。
接続詞もまた言語の一部であり、「そして」には「そして」の、
「しかし」には「しかし」の固有の論理があります。
しかし、その論理は、論理学のような客観的な論理ではなく、
二者関係の背後にある論理をどう読み解くかを示唆する解釈の論理なのです。

 じつは、人間が言語を理解するときには、
文字から得られる情報だけを機械的に処理しているのではありません。
文字から得られる情報を手がかりに、文脈というものを駆使して
さまざまな推論をおこないながら理解しています。
わかりやすくいうと、文字情報の中に理解の答えはありません。
文字情報は理解のヒントにすぎず、
答えは常に人間が考えて、頭の中で出すものだということです。


(略)そして、接続詞は、文のなかの情報を伝えるのではなく、
文脈を使った推論の仕方を指示する役割を備えています。
 接続詞の論理は、論理のための論理ではなく、人のための論理なのです。

(石黒圭『文章は接続詞で決まる』光文社新書2008年
第一章 接続詞とは何かp31~32)


 接続詞は「書き手」のもの
 前章の終わりで、接続詞は人のための論理を担うものであることを確認しました。
だとしたら、接続詞は書き手のためのものなのでしょうか。
読み手のためのものなのでしょうか。

 結論からいうと、書き手のためのものでもあり、
読み手のためのものでもあります。
(略)このように接続詞は、複雑な内容を整理し、
書き手があらかじめ立てた計画に沿って確実に文章を展開させたいときに
力を発揮します。

 接続詞は「読み手」のもの
 一方、接続詞には「読み手のためのもの」としての側面もあります。
「側面がある」というよりも、接続詞は原則として
読み手のためにあると考えておいたほうがよいでしょう。


 本書の冒頭で井伏鱒二の言葉を引用しました。
その引用の中で、「尊敬する某作家」が推敲の段階で、
繰り返し接続詞に手をいれていたという事実がとくに重要です。

 文章というのは社会的な存在です。
読み手が読んで理解できるように書かなければなりません。
しかし、私たちが文章を書くと、どうしても自分の論理で書いてしまい、
その結果、その情報に初めて接する読み手が理解できなくなる
ということがしばしば起きます。
文章を書くということの難しさは、まさにそこにあります。

 書き手の論理で書いた文章は、しばらく寝かせて、
自分と切り離す必要があります。
そして、自分と切り離せた段階で、他者の眼でその文章を読みなおし、
他者の論理で推敲をする必要があるのです。

 自分の書いた文章を他者の眼できびしくチェックすることは
「言うは易く、行なうは難し」ですが、
優れた書き手は優れた読み手でもあり、
自分の書いた文章を読み手の視点からモニターすることに長けています。
……

(同著 第二章 接続詞の役割 p36~39)

『接続詞』のない文章~根拠がないことを見えにくくする~

2011年07月03日10:24

 文章の流れは接続詞によって決まります。なぜなら,接続詞は文章の方向性を決めるからです。読み手は接続詞の登場によって,文章がどの方向へ向かうかを知ります。例えば,下の二つの文を読んでみて下さい。

1.「今日は雨です。しかし私は○○(な)気持ちです」
2.「今日は雨です。だから私は○○(な)気持ちです」

 この文を読んで,皆さんは「○○」の部分にどのような言葉を思い浮かべたでしょうか。おそらく1の文章には「さわやかな」や「晴れ晴れとした」といった言葉を思い浮かべたのではないでしょうか。一方の2の文章には,「うっとうしい」や「どんよりした」などを思い浮かべたかもしれません。

 このように,後に続く文章の内容についておおよその予想がつくのは,「しかし」や「だから」といった接続詞があるからです。

 それにもかかわらず,私たちが普段文章を書くときに接続詞を意識することはあまりありません。感覚的に接続詞を選んでしまうことが多いのです。その理由は,日本語の特性によります。日本語は,英語などと比べて文の方向性をそれほど明確にしないで,文をただ続けていくだけで文章ができるという特性があります。このため,接続詞を意識しなくても「それなりの」文章が書けてしまいます。

 このことについては説明を始めると長くなってしまうので今回はここまでにしておきますが,この日本語の特性はビジネスにおいて大きな取り違えを起こす原因になります。特に,ITの世界のように正確さや明快さを重視する世界では,注意しなければならなでしょう。

 では,実際の例文を使って接続詞を効果的に使うためのトレーニングをしてみましょう。まず,以下の文章を読んで,何が問題かを考えてみてください。

どこが問題?

R社の会員システムを先週納品し,順調に稼働しているとの報告を受けていました。今朝R社からクレームの連絡が入りました。ログインエラーが多発しており会員からの問い合わせが殺到しているとのことです。調査したところ予想以上の同時ログインがあったためサーバーに負荷がかかっていることがわかり,ログインエラーを引き起こしているようです。先方にはまず謝罪し,システム改良,サーバーの増強を提案するつもりです。


ここが問題! 文章の方向性がわかりにくい

 この文章は,出来事が順番に語られています。一読すると内容はつかめそうです。ただ,何かしっくりこない印象を受けると思います。
 というのも,文章中に接続詞(またはつながりを示す副詞)がないために,一つひとつの文の内容のつながりが分かりにくくなっているからです。そのため読み手は,文章全体で何が言いたいのかが理解しにくい文章になっています。

これで解決! 接続詞を正しく使う

 このような場合,文の前後の意味を考えながら接続詞(またはつながりを示す副詞)を入れていくと,文章全体の流れがはっきりして読みやすくなります。

改善後

R社の会員システムを先週納品し,順調に稼働しているとの報告を受けていました。ところが今朝R社からクレームの連絡が入りました。それによるとログインエラーが多発しており会員からの問い合わせが殺到しているとのことです。そこで,調査したところ予想以上の同時ログインがあったためサーバーに負荷がかかっていることがわかりました。これによってログインエラーを引き起こしているようです。ですから先方にはまず謝罪し,システム改良またはサーバーの増強を提案するつもりです。


 文と文の間に接続詞を置き,文の流れを示す言葉を補ったことで,後に続く文の内容の方向性を予測でき,文章全体が読みやすくなりました。このように,文章を書くときに接続詞を意識すると,文章の分かりやすさが飛躍的にアップします。
「悪文と良文から学ぶロジカル・ライティング」接続詞を効果的に使う


前回は『顕真』平成23年6月号の「疑難と答え」の記事について取り上げましたが、
ここにも親鸞会の文章・話の特徴が如実に表れていますので、
ついでに考えてみたいと思います。

以前にも指摘されていたことですが、親鸞会の文章には
「接続詞がない」
という特徴があります。
なぜそうなるのかということと、それが読む方にもたらす効果について考えてみると
そこからまた親鸞会のトリックが見えてきます。

普通、何かを説明する文章なら、
「しかし」「つまり」「それは」「ところで」「さて」
等の接続詞が使われているのが普通です。
ところが、親鸞会の文章には極端に少ないのです。

わずかにあるにはあっても、
それはその文章の中の例え話の中での接続詞であったりして、
全体の論旨に対しての接続詞ではないのです。

接続詞には何の役割があるのかと言えば、
それ自体には意味はないけれども、その後に続く内容の方向性を示すものです。
つまり、”テーマ”に対してどのような位置づけ(視点)の内容の
文章が続くのかを示してくれるから、よりわかりやすく、
論旨がはっきりするものなのです。

例えば、
「しかし」とあれば、逆説だなとわかる訳ですし、
「例えば」とあれば例示、
「なぜならば」とあれば根拠、
「よって・ゆえに」とあれば根拠から導かれるとされた結論
と見えるのです。

ところがこれらがないとなれば、その論旨の中での
位置づけがわかりにくい訳ですから、
全体としてもやっぱりよくわからない文章になります。

仮に、一つ一つの段落で言っていることが正しくても、
それが全体の主張の根拠になっていなければ、
全体としての説得力はない訳です。

例えば
「梅雨に入った。今日は晴れだ。傘を持っていこう。梅雨時は雨が多い。」
という文章があるとします。
これは、事実を時系列で述べただけのものです。
それぞれは事実ですから間違いではなく、
言いたいことはわからないでもないですが、やはりわかりにくいのです。

接続詞を入れて足りない言葉を補ってみます。
「梅雨に入った。ところが今日は晴れだ。けれども傘を持っていこう。なぜなら梅雨時は雨が多いからだ。」
これでよくわかって言いたいこともはっきりします。
事実とそれに対する行動、その根拠、という形で示されているからです。

接続詞があれば、文章の順番を変えても同じ意味を伝えることができます。
「今日は晴れだ。しかし傘を持っていこう。なぜなら梅雨に入ったからだ。梅雨時は雨が多い。」
となりますが、ではこの接続詞を抜いてしまったらどうでしょうか。
「今日は晴れだ。傘をもっていこう。梅雨に入った。梅雨時は雨が多い。」
全体として何が言いたいのかわかりますか?
傘をもって行ったということが言いたいのか、
梅雨時は雨が多いということがいいたいのか、よく分からない文章になることが
分かるでしょう。「それで何がいいたいの?」という文章です。

しかし、上の引用にもありますが、日本語はこのような接続詞のない文章でも
成り立ってしまうという特徴があります。
また、接続詞がないような文章の世界もありますね。
『詩』です。
高森会長の文章について「詩のようだ」と言われた方がありましたが、
それも一理あるのです。
自由に思いついたことを、自分の感性の世界で表現して、
読む方も想像を交えながら、書き手と読み手の感性で
お互いの世界を共有する言葉の世界とも言えるのが詩なのですから、
接続詞はなくてもいいのです。

しかし、いつも述べているように、
「間違って伝えてはならない」とか「わかりやすく伝える」
と言っているものが、実際は接続詞も付けられないような
非論理的なものであっては伝わらないということです。

前置きが長くなりましたが、実例です。
『顕真』平成23年6月号P7~P11

疑難と答え2

「雑行を捨てよ」の意味(その1)
(疑難)
「親鸞聖人は、雑行を捨てよと教えられているのだから、諸善をする必要はない。善を勧めるのは間違いだ」

(答え)
 真宗の人々に、こんな誤解が多い。もし、これが浄土真宗の教えならば、布施(親切)や精進(努力)、父母の孝養などは、必要ないからするなという、放逸無慚な怠け者を作るのが親鸞聖人の教えになるだろう。
 これらはみな、仏法で説く諸善であるからだ。

 これは全く、「雑行」というものを知らない人の発言であることは明らかだが、こんな聞き誤りが、結構多いのが現状である。
 その元は、どこにあるのか解明しよう。

「雑行」とは、「弥陀の往生浄土の救いを求めてする、もろもろの善」をいうのである。
 仏教で説かれる「諸善」が、悪いはずがないのだが、なぜその「諸善」を、「雑行」と嫌い、捨てよと言われるのか。

 それは「自力の心」で行うからである。「自力の心」さえ廃れば、「諸善」は「雑行」とも言われず、捨て物でもなく、「御恩報謝の行」となり、身を粉に骨砕きてもの、恩徳讃の活動になるのだ。

 例えば、「一緒にいたい」と思う心の高揚が結婚となり、「一緒にいたくない」と思う心の高揚が離婚となるようなものである。
「結婚」と「離婚」は反対だが、「一緒にいたいか、いたくないか」の心で分かれる。
「もろもろの善」が「雑行」となるか、「報謝の行」となるかは、「自力の心」が廃ったか、どうか、の一点によって分かれるのだ。

 では、「自力の心」とは何か。それは弥陀の本願を疑っている心である。
「弥陀の救いに、己の善を役立たせようとする心」であり、「役立つと、思っている心」だ。
 例えば、”これだけ善いことをしているから””善いこと言っているから””善いこと思っているから””悪を慎み、善に努めているから””朝晩、お勤め欠かさないから””真剣に聞いているから””本願を疑っていないから””阿弥陀さまを深く信じているから””後生、助けてくださるだろうなどと、自分の、身・口・意の三業を善くして、弥陀の救いに値おうとしている心である。

”悪しかできない十方衆生だから、われを たのめ、そのまま救う”と弥陀は誓われているのに、その本願を疑って、悪しかできない己とは毛頭、思えず、善ができると自惚れているのだから、弥陀の本願に反発している心だ。
 ゆえに、親鸞聖人は「仏智疑う罪深し」と、この”自力の心ほど恐ろしい罪はないのだよ”と教戒されているのである。

 ではなぜ、弥陀の本願を疑う心(自力の心)がそんなに恐ろしいと仰るのか。
 常識では分からぬことだから、一つの喩えを挙げてみよう。
…(略)… 

  微塵の善もできず、十方諸仏に見捨てられた極悪人と知り抜いた弥陀が、「われ一人助けん」と立ち上がり、「われを たのめ、必ず救う」と誓われて、幾億兆年の修行の末、十方世界の善根を南無阿弥陀仏の中に結実し、「どうか、そのまま受け取ってくれ、お前一人のために創ったのだ」と、今現在、叫び続けられているのである。

 その弥陀の本願を疑い、悪しかできぬ者とは微塵も思えず、何とかすれば、何とかなれると自惚れている心を「自力の心」というのである。
 古より、「弥陀を殺すに刃は要らぬ、腐った頭で考える」といわれる。
「弥陀の救いに、己の善を役立たせよう」とする「自力の心」こそが、阿弥陀仏を殺す凶刃なのである。

「雑行を捨てよ」とは、この「自力の心」を捨てよということであって、「もろもろの善をするな」「諸善を捨てよ」ということでは断じてないことを牢記しなければならない。

(原文)
 【仏智うたがう罪ふかし
  この心おもいしるならば
  くゆる心をむねとして
  仏智の不思議をたのむべし】
         (正像末和讃)
(意訳)
 「弥陀の本願を疑うほど
  恐ろしい大罪はなし
  その罪をふかく懺悔して
  本願の不思議を信ずべし」


赤字で示した部分が接続詞ですが、
いずれも、表題の「疑難」に対する主張の方向性を示したものではありません。

ここでは文章全体の論理構造を見るために
細かい部分の間違いは置いておくとして、
わかりやすくするために段落ごとの主張を要約してみます。

① 真宗の人びとに、疑難のような誤解が多い。
疑難のとおりなら、聖人の教えは怠け者を作る教えになる。「仏法で説く諸善」だからだ。
② これは「雑行」というものを知らない人の発言であり、このような聞き誤りが多いのが現状である。
その元はどこにあるのか解明しよう。
③ 雑行とは弥陀の往生浄土の救いを求めてするもろもろの善をいう。
仏教で説かれる「諸善」を「雑行」と嫌い捨てよと言われるのか。
④ それは自力の心で行うからである。「自力の心」さえ廃れば「雑行」ではなく「御恩報謝の行」である。
⑤ 例えば、(結婚と離婚の例)
⑥ では、「自力の心」とは何か。弥陀の本願を疑う心である。
⑦ それは善ができると自惚れて、弥陀の本願に反している心である。
⑧ ではなぜ、「自力の心」が恐ろしいのか。
⑨ (5歳の男の子の例え話)
⑩ 弥陀は「どうかそのまま受け取ってくれ」と今現在叫び続けている。
⑪ その弥陀を疑う「自力の心」こそ、阿弥陀仏を殺す凶刃である。
⑫ 「雑行を捨てよ」とは、この「自力の心」を捨てよであって、もろもろの善を捨てよということではない。
⑬ (本願疑惑を戒めるご和讃)


この文章全体で言うべきことは何だったのでしょう。
接続詞でなくても、はっきりと文章の方向性や論旨を言えばいいのですが、
それが第2段落目の「その元はどこにあるのか解明しよう」です。
「疑難のような主張は聞き誤りだから、その原因は何か解明しよう」
ということで、表題も『「雑行を捨てよ」の意味』と題して
疑難に答えるものなのですから、親鸞会としてはそのテーマに沿って
「雑行を捨てよであって、善を捨てよではない」ということの主張でなければなりません。
つまり、聞き誤りの元を示しながら、結論として言いたいことの
根拠を示していかなければならないはずなのです。
結論は示されていますが、根拠はどこにあるのでしょうか。
よく読めば、どこにも結論の根拠がないことが分かるのです。
それを感じにくくするトリックが、接続詞のない文章なのです。

論点の外れない説明をした上で、
さらに例示の説明をするのであれば「例えば」であり、
順接の内容ならば、「すると」「そして」と続くのであったり、
逆説の内容を出すのならば「しかし」と加え、
補足するならば「ただし」「つまり」等と繋がっていくものなのです。

前後の文章に繋がりがあるか、論点は何かということに注意しながら
段落ごとに何が書かれてあるか見てみると、

①…疑難が間違いであるという理由。
②…①のような現状であるということとこれから書くこと。(聞き誤りの元を解明するということ。)
③…雑行の説明。「諸善」は「雑行」であり、嫌い捨てよと言われる。
④…③の理由。
⑤…③の例えのつもり。(実際は例えになっていない)
⑥…自力の心の説明。
⑦…⑥の補足説明。
⑧…⑥のさらに補足説明。
⑨…⑧の例え話。
⑩…⑥の続き、補足。
⑪…⑥の結論。
⑫…全体の結論。
⑬…⑥の補足(本願疑惑を戒めるご和讃)

となっているのです。
①で、疑難の主張が間違いであるのは
「雑行と言っても仏教で説く諸善だからである」という”理由”を述べていながら、
以降でその”根拠”は何も示されていないことがわかります。

②は現状とこれから書くことを述べたに過ぎません。
③はいつもの親鸞会の、お聖教に基づかない独自の「雑行」の定義です。
④⑤は③の説明であって、②の説明になっていません。
⑥~⑪は自力の心(の恐ろしさ)の説明であって、
やはり「諸善を捨てよではないという主張の根拠」ではありません。
それで根拠のないまま⑫で唐突に結論として断定をしているという”強弁”です。
いわば関係のない話、論点とは違った話が
延々とポンポンと差し込まれているだけで、
文章に繋がりがないのです。だから接続詞で繋げられないのです。

無理矢理にでも①から⑬を接続詞でつなぐとしたらどうなるか
考えてみてください。
長くなりましたので続きは次回にします。

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