親鸞会の誤り、陥った過ちをとおして見えてくるもの

2012年02月07日19:22

「一つの決勝点はまた新たなスタートである」

年末にあるオリンピック金メダリストが、
職場であり教育の現場での不祥事により
法に触れたという容疑で検挙されるという事案が報道されました。
それについてある関係者は、
「オリンピックの金メダルは取ってからの生き方が大事だというのに」と
残念そうに述べていました。

さて、私がこのサイトで訴えたいこと、それは何か。
S会やそこに関わる人の悪辣さか
そこに気付かず騙されてしまう人の愚かさか。
それだけではないのです。

カルト(カリスマ的指導者を中心とする小規模で熱狂的な信者の集まり)
と言われる集団には、共通点があります。
カルトの特徴とでも検索すればいくらでも出てくるので、
それを見れば、カルトと関わったことがある人なら
どれもなるほどと頷くものばかりでしょう。

なぜ同じような特徴を持つのか。
それは、その統率者と周りの人間の行動に共通の特徴があるからです。
その中の一つとして、
大抵、統率者はその集団内において素晴らしい人格者として
称賛され崇められているということがあります。
ところが、その集団を離れた人は
「そんな人間ではなかった」と、
つまりは化けの皮が剥がれた現実の姿を知って、
自分も何らかの形で騙されていたことを自覚するのです。

考えてみれば、不思議で不可解なことです。
自分の都合で嘘をつき、人を騙して平気であるような人が、
教団内では最高の人格者として崇められている。
どうしてそんなことになるのでしょう。

ここで思い出してください。
統率者の側にはいつも、側近が何人もいたことを。
狡猾な統率者は、いつも、自分がやっていると見せかけて実は肝心なことは、
「自分ではやらない」のです。
つまり、「自分の『本当の』意思を伝える行為をする」のは
いつも側近や部下であり、
いつしか自分が指示をしなくとも、部下が「御心を汲んで」
先周りしてやってくれるようになっている
そういう組織が出来ているのです。
究極の「責任転嫁」の構造です。

あれ?…何かおかしい…どこか変…一貫しない…
そんなところがあっても、すべて周りの側近や部下が補ってくれるのです。
自分では答えられなくても、周りが先回りして回答してくれる。
あるいは、他人に先に答えさせて、自分はそれを判定あるいは承認する形をとる。
見ている人には常に、
「この先生だけが言っているのではない、先生には賛同者が何人もいる。
(納得のいく話なのだ。納得ができないとしたら
それは納得できない人のほうがおかしいのだ。)」
ということが無意識の中に刷り込まれていく形になっています。
さらには、よくわからないことでも先に答えてくれるブレーンに合わせて、
後から「〇〇君の言う通りだ」と言っておけば
いくらでも知ったかぶりもできるのです。

側近や部下はいつも説明してくれます。
「それは〇〇先生の深い御心であって(私どもには理解できなくとも)」…。
そのうちいつしか、個々の信者の中で、疑問が起こっても、
「深い御心であって…きっと、こうだ…」と良い様に解釈するようになります。
そんなおかしなことがあるはずがない、と思うからです。
自分の中で矛盾を解消しなければ
信じ続けることができなくなるからです。

「信心決定している会長先生が間違ったことを説くなんて、
そんなおかしなことがあるはずがない」
「これまで50年、間違っていたなんてあるはずがない」
「これだけ多くの人が間違いないと言っているのに間違っているはずがない」
「そんな嘘の教えを広めるなんてできるはずがない」
そうですね、自分が…と考えたら、できませんね、そんなこと。
まともな人ほど、そんな人がいるとは考えられません。
だから、そんなことあるはずがないと
現実との間にできそうなギャップを埋めるための理屈を頭の中で考えるのです。
「それ(現実)は、きっと(想像)こういう深い御心で…」

異常さも、矛盾も、不足も、疑問も、
全部自分の頭の中で自動的に補ってしまうのです。
かくして、全てを完璧に備えた素晴らしい人格者が、
個々の信者の脳内に確立されるのです。

どこかの会だけに存在する構造でしょうか?
いいえ、巷にはこんなものが、溢れているのです。
決して、人を信じるのが悪いのではありません。
依存するのが悪いのでもありません。
会や集まりをつくるのが悪いのでもありません。
何事も、程度の問題です。
どこでも、最初からそんな風ではなかったのです。

さて、あなたの近くにもいませんか?
実はいつも足りないところを誰か他人がフォローしている。
(曖昧な話や一貫性のないところを、いつも他人がフォローしなければならない。
周囲が知らぬ間にさせられている。)
それまで自分からは動かない。(動けない。)
それでいて、なぜかフォローさせられている人たちが過度に称賛して
本人はそれを黙って承認している。

見ているとそんな、第二、第三の親鸞会のような構造は
もう既にいくつかあるようです。
再度同じような集団や関係を作ってしまうのは傾向として仕方ないにしても
残念なことだと思うのです。
誰しも騙される危険性は潜在的にもっているのであり、
騙された人はむしろ、また再び同じことに陥る危険性があるのです。

早く間違いに気付いて欲しいということで
親鸞会の誤りを指摘することは当然のこととして、
誤りを知ることを通して、
自分も他人も再び同じ過ちに陥らないようにすること、
これこそが大事なことなのです。
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Author:lonli
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