以前に「言葉の定義」について触れました。
言葉で伝えるということは、「言葉の意味を共有している」ということが大前提です。
英語を知らない人に英語で話しても伝わらないのは、
一方しかその意味を理解していないからです。
しかし、言葉の意味には範囲があります。
同じ言葉・単語でも、
場面や場所に応じてその指し示す範囲は異なったり変わったりするものです。
それを、話す方は前後の言葉や文脈で補うことによって
より相手に自分が伝えたいところの意味を伝えようとし、
また聞く方もそうしてより相手と同じ意味で理解しようとする
そしてお互いが理解の一致に至るように努力する、
つまりは、
聞いた方が「相手の言っているのはこういう意味なのだな」と理解したものが、
話し手の「私が伝えたいと思っている内容」と一致できている
このような状態なら分かり合えているのです。
言葉や説明を尽くしてより一致するように努力するのです。
そうしてお互いに同じものを理解できていることを、「共有」というのです。
ところが、
「言葉は、場面や場所に応じてその指し示す意味は異なったり変わったりする」
と述べたように、言葉には「曖昧さ」というものが必ず存在します。
親鸞会はそこを利用するのです。
簡単な遊びの例を挙げましょう。
「アルファベットの最後の文字は何でしょう?」
英語でも有名ななぞなぞですが、ここでは日本語で。
何と答えるでしょうか。「Z」ですね。普通はそうだと思います。
しかしなぞなぞでははずれです。「ト」です。
おわかりだと思います。
「アルファベット」という単語の指す意味は二種類に捉えることができるのです。
一つは、「AからZの26種類の文字を伝統的な順番に並べたもの全体を示すもの」
もう一つは文字どおりの「アルファベットという一つの単語」です。
前後に説明もなく、アルファベットと言われれば普通は前者のように捉えるのが一般的だから、なぞなぞとして成立するのです。
本題に入ります。
親鸞会の教義は、それはそれで成り立っています。
内部では矛盾のない完璧なものとして、
これこそが本当の浄土真宗なのだと主張もし、自信ももっています。
のめり込んで深みに嵌まってしまっていた人も、嵌まりそうになるところだった人も、
何らかのきっかけで、膨らむ矛盾や疑問に堪えられなくなり、
幸運にもその誤りと嘘に気付いた人はたいてい、
どこがどうおかしくて間違っていたのか教義面でも整理を試みようとします。
すると、おかしなところだらけだということが露わになっていきます。
端から見たら、どうしてこんなものを信じるのかと言われても仕方のない
酷い程度だと知らされて、
少なからずのショックと憤慨の感情を抱くことになります。
しかし、どうしてこんなものを信じるのか、
こんなものを信じるのは余程愚かか特殊な人間だというのは、
何も知らない人の言うことです。
その巧みさだけでなく周りに存在する様々な影響力の行使も相まって、
してやられてしまうのです。
これは誰しも陥る可能性のある話なのです。
親鸞会の教義とは一体何だったのかと考える時、
一つには、「浄土真宗の言葉(単語)を使った、全く別の教え」
であったということがあります。
「全く別の教え」というのは、根本的なところでという意味で、
結局は浄土真宗とは別のものを目指している教え、
つまり親鸞会の好きな「目的」という言葉を使って言えば、
親鸞会の示す目的(救い)は浄土真宗の目的(救い)とは違ったものになってしまい、
結局浄土真宗ではない、という意味での「全く別」という意味です。
親鸞会の救いと浄土真宗の救いは全く違うものであるということで、
こうなると教えの本質は「救い」なのですから、
別の教えということになってしまうのです。
親鸞会が浄土真宗で使われる言葉や話を使っている以上、
浄土真宗の教えと当然重なる部分や共通する部分もあるのです。
ただ、結論として親鸞会の会員の大多数が理解すべき理想の形
「善に励んで宿善を厚くしたら信仰が進む。信仰が進まなかったら救われない。
だからそこ(救いの決勝点)に向かって善に励まねばならない。」
という教えは、浄土真宗ではないのです。
誰でもこの親鸞会的結論にすぐに至る訳ではありません。
親鸞会の教えでいけば会員獲得が最大の宿善になるのですから、
それを信じた熱心な先輩会員達によって、
内部で経験により培われた育成法により、
情熱的かつ継続的に徐々に信じ込まされていくのです。
ですから、先にも述べたように、
会(員)の中では教えは完成しているのです。
疑問にも想定された答えはいくつも用意されていて、
自他の疑問にはたいていすべて対処できてしまいます。
(実際はできていないのですが、できているように錯覚させられてしまう
それが詭弁による誤魔化しです)
そんな風にして中にいるときは教えは完璧なものに思えたのですが、
実は親鸞会の教義というものは、
【「浄土真宗あるいは宗教的に使われる用語」の意味を都合よく独自に変えて使って語られたもの】
ですから、それによって構成された教義は全く別のものになっていたのです。
「」の部分を「他人の文章」に変えても当てはまります。
浄土真宗と言っても、言葉の意味が違うのです。
雑行、善(善人)、宿善、信心決定、帰命、悪人、等々、
本来親鸞聖人が説かれた意味とは異なるのです。
親鸞会でのお聖教の読み方はどのようなものでしょうか。
前後を無視して切り取ってしまえば、いくらでも意味を変えてしまうことはできます。
まさによく指摘される「断章取義」です。
また、本来浄土真宗では使われないような独自の言葉というものも多くあります。
(カルトグループの特徴でもあります。)
求道、信仰、人生の目的、絶対の幸福、相対の幸福、
決勝点、必堕無間、光に向かう、親鸞学徒、真実の自己、法謗罪等々。
こう言った独自の用語を繰り返し繰り返し使って、
独自の教理に染めていきます。
聞く方もいつしか条件反射のようになっていきます。
人生の目的と言われればすべてに優先するという意味、
後生、地獄の苦しみに比べればと言われれば
どんなことにも耐えなければならないという意味、
法謗罪と言われれば恐ろしいから黙らなければならないというように──。
結局、独自の意味に改変された真宗用語と、
独自の教団用語で組み立てられた教義は、
教団独自の教理になるのは当然の成り行きです。
もはや真宗の土俵の上で説明をしようにも、言葉が通じないのです。
言葉が通じないことには誤りを理解することもできません。
親鸞会のように一方の情報ばかりを与えられ(選び)、
偏った考えに染められてしまうということは、
非常に危険なことなのです。
ここで、一つ問題です。
親鸞会で、「信仰には卒業がある」とよく聞かされました。
親鸞会及びその関係者による布教サイトでも「平生業成」の説明として、
「信仰には完成がある、仏教には卒業がある」
と書いています。
(例)http://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/kansei-sotsugyou-shinjin01.htm(親鸞会)
http://sinshu.blog.shinobi.jp/Entry/624/(親鸞会広宣部)
http://shinshublog.seesaa.net/article/80437759.html(会員)
親鸞会のサイトでは「卒業、完成のある『信心』」となっていますが、
他のサイトにあるように法話では「信仰に卒業がある」という言い方をして強調しています。
私も何度も聞きました。
さてこの「信仰には卒業(完成)がある」という言い方ですが、
正しいのでしょうか?
正しくないとすればどこがどのように、
またこのような言い方をすることで生じる効果は何だったのでしょうか。
考えてみてください。
次回述べたいと思います。
言葉で伝えるということは、「言葉の意味を共有している」ということが大前提です。
英語を知らない人に英語で話しても伝わらないのは、
一方しかその意味を理解していないからです。
しかし、言葉の意味には範囲があります。
同じ言葉・単語でも、
場面や場所に応じてその指し示す範囲は異なったり変わったりするものです。
それを、話す方は前後の言葉や文脈で補うことによって
より相手に自分が伝えたいところの意味を伝えようとし、
また聞く方もそうしてより相手と同じ意味で理解しようとする
そしてお互いが理解の一致に至るように努力する、
つまりは、
聞いた方が「相手の言っているのはこういう意味なのだな」と理解したものが、
話し手の「私が伝えたいと思っている内容」と一致できている
このような状態なら分かり合えているのです。
言葉や説明を尽くしてより一致するように努力するのです。
そうしてお互いに同じものを理解できていることを、「共有」というのです。
ところが、
「言葉は、場面や場所に応じてその指し示す意味は異なったり変わったりする」
と述べたように、言葉には「曖昧さ」というものが必ず存在します。
親鸞会はそこを利用するのです。
簡単な遊びの例を挙げましょう。
「アルファベットの最後の文字は何でしょう?」
英語でも有名ななぞなぞですが、ここでは日本語で。
何と答えるでしょうか。「Z」ですね。普通はそうだと思います。
しかしなぞなぞでははずれです。「ト」です。
おわかりだと思います。
「アルファベット」という単語の指す意味は二種類に捉えることができるのです。
一つは、「AからZの26種類の文字を伝統的な順番に並べたもの全体を示すもの」
もう一つは文字どおりの「アルファベットという一つの単語」です。
前後に説明もなく、アルファベットと言われれば普通は前者のように捉えるのが一般的だから、なぞなぞとして成立するのです。
本題に入ります。
親鸞会の教義は、それはそれで成り立っています。
内部では矛盾のない完璧なものとして、
これこそが本当の浄土真宗なのだと主張もし、自信ももっています。
のめり込んで深みに嵌まってしまっていた人も、嵌まりそうになるところだった人も、
何らかのきっかけで、膨らむ矛盾や疑問に堪えられなくなり、
幸運にもその誤りと嘘に気付いた人はたいてい、
どこがどうおかしくて間違っていたのか教義面でも整理を試みようとします。
すると、おかしなところだらけだということが露わになっていきます。
端から見たら、どうしてこんなものを信じるのかと言われても仕方のない
酷い程度だと知らされて、
少なからずのショックと憤慨の感情を抱くことになります。
しかし、どうしてこんなものを信じるのか、
こんなものを信じるのは余程愚かか特殊な人間だというのは、
何も知らない人の言うことです。
その巧みさだけでなく周りに存在する様々な影響力の行使も相まって、
してやられてしまうのです。
これは誰しも陥る可能性のある話なのです。
親鸞会の教義とは一体何だったのかと考える時、
一つには、「浄土真宗の言葉(単語)を使った、全く別の教え」
であったということがあります。
「全く別の教え」というのは、根本的なところでという意味で、
結局は浄土真宗とは別のものを目指している教え、
つまり親鸞会の好きな「目的」という言葉を使って言えば、
親鸞会の示す目的(救い)は浄土真宗の目的(救い)とは違ったものになってしまい、
結局浄土真宗ではない、という意味での「全く別」という意味です。
親鸞会の救いと浄土真宗の救いは全く違うものであるということで、
こうなると教えの本質は「救い」なのですから、
別の教えということになってしまうのです。
親鸞会が浄土真宗で使われる言葉や話を使っている以上、
浄土真宗の教えと当然重なる部分や共通する部分もあるのです。
ただ、結論として親鸞会の会員の大多数が理解すべき理想の形
「善に励んで宿善を厚くしたら信仰が進む。信仰が進まなかったら救われない。
だからそこ(救いの決勝点)に向かって善に励まねばならない。」
という教えは、浄土真宗ではないのです。
誰でもこの親鸞会的結論にすぐに至る訳ではありません。
親鸞会の教えでいけば会員獲得が最大の宿善になるのですから、
それを信じた熱心な先輩会員達によって、
内部で経験により培われた育成法により、
情熱的かつ継続的に徐々に信じ込まされていくのです。
ですから、先にも述べたように、
会(員)の中では教えは完成しているのです。
疑問にも想定された答えはいくつも用意されていて、
自他の疑問にはたいていすべて対処できてしまいます。
(実際はできていないのですが、できているように錯覚させられてしまう
それが詭弁による誤魔化しです)
そんな風にして中にいるときは教えは完璧なものに思えたのですが、
実は親鸞会の教義というものは、
【「浄土真宗あるいは宗教的に使われる用語」の意味を都合よく独自に変えて使って語られたもの】
ですから、それによって構成された教義は全く別のものになっていたのです。
「」の部分を「他人の文章」に変えても当てはまります。
浄土真宗と言っても、言葉の意味が違うのです。
雑行、善(善人)、宿善、信心決定、帰命、悪人、等々、
本来親鸞聖人が説かれた意味とは異なるのです。
親鸞会でのお聖教の読み方はどのようなものでしょうか。
前後を無視して切り取ってしまえば、いくらでも意味を変えてしまうことはできます。
まさによく指摘される「断章取義」です。
また、本来浄土真宗では使われないような独自の言葉というものも多くあります。
(カルトグループの特徴でもあります。)
求道、信仰、人生の目的、絶対の幸福、相対の幸福、
決勝点、必堕無間、光に向かう、親鸞学徒、真実の自己、法謗罪等々。
こう言った独自の用語を繰り返し繰り返し使って、
独自の教理に染めていきます。
聞く方もいつしか条件反射のようになっていきます。
人生の目的と言われればすべてに優先するという意味、
後生、地獄の苦しみに比べればと言われれば
どんなことにも耐えなければならないという意味、
法謗罪と言われれば恐ろしいから黙らなければならないというように──。
結局、独自の意味に改変された真宗用語と、
独自の教団用語で組み立てられた教義は、
教団独自の教理になるのは当然の成り行きです。
もはや真宗の土俵の上で説明をしようにも、言葉が通じないのです。
言葉が通じないことには誤りを理解することもできません。
親鸞会のように一方の情報ばかりを与えられ(選び)、
偏った考えに染められてしまうということは、
非常に危険なことなのです。
ここで、一つ問題です。
親鸞会で、「信仰には卒業がある」とよく聞かされました。
親鸞会及びその関係者による布教サイトでも「平生業成」の説明として、
「信仰には完成がある、仏教には卒業がある」
と書いています。
(例)http://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/kansei-sotsugyou-shinjin01.htm(親鸞会)
http://sinshu.blog.shinobi.jp/Entry/624/(親鸞会広宣部)
http://shinshublog.seesaa.net/article/80437759.html(会員)
親鸞会のサイトでは「卒業、完成のある『信心』」となっていますが、
他のサイトにあるように法話では「信仰に卒業がある」という言い方をして強調しています。
私も何度も聞きました。
さてこの「信仰には卒業(完成)がある」という言い方ですが、
正しいのでしょうか?
正しくないとすればどこがどのように、
またこのような言い方をすることで生じる効果は何だったのでしょうか。
考えてみてください。
次回述べたいと思います。
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