表現の単純化~「簡潔」と「必要な説明が欠落している」は異なる~

2012年05月29日02:45

前々回の記事についてコメントをいただきました。一部ご紹介します。

信心と信仰の違いについての考察もできそうです。例えば信心は卑近な語感があり、信仰は「いと高きところにまします」と仰ぎ見る語感があるというように。

しかし両者は類似の概念として論理的問題にしぼって、
①卒業(完成)のある信仰
②信仰には卒業(完成)がある
のように単純化すると、

①では、「卒業のある信仰と卒業のない信仰があり、私達は卒業のある信仰を求めている。」となり、
②では、「卒業のない信仰はあり得ない。信仰とは必ず卒業があるものである。卒業のないのは信仰とは呼べないもので、間違い者である。」となります。

言い換えれば、①は色々な立場を認めた上で自分達の立場を打ち出している姿勢、②は自分達の立場以外は論外という姿勢であると思います。正確に言えば、卒業があるのは会の信仰だけという暗黙の了解が必要ですが。

また、「卒業のある信心」と「信仰には卒業がある」として信心と信仰を使い分けるなら、信心は世間一般のものも会のものも包括する概念、信仰は会のものだけを表す概念となりますね。これも、先の暗黙の了解の部分を差し引いて論理的正確さを追求すれば、「信心には卒業のあるものとないものがあり、信仰には卒業のあるものしかない。」というべきです。

どうもくどくなってしまってすみません。日本語の特性というより、正確に言おうとするとどこの国語でもくどくなるでは、と疑っています。



有難うございました。
私とはまた若干違った角度から素晴らしい分析をしてくださいました。

少し整理させていただくと、
記事にも書かせていただいたように、
親鸞会は①の意味でも②の意味でも用いていて、
①から入っていって②を強調する、②が結論となっている形だと思います。

世間でいう求道には完成がないという話から、
卒業(完成)がなければ救い(浄土真宗)じゃないという話まで
含んだ意味として使っているということです。

>卒業があるのは会の信仰だけという暗黙の了解が必要ですが
の「暗黙の了解」というのが、
私の述べたところの「前提」ということです。

>信心は世間一般のものも会のものも包括する概念、信仰は会のものだけを表す概念となりますね。
そうですね。親鸞会の言いたいことは、
「信心は皆が求めているものだけれども、
卒業のある信仰は親鸞会だけが説いている」
ということなのです。

>論理的正確さを追求すれば、「信心には卒業のあるものとないものがあり、信仰には卒業のあるものしかない。」というべきです。
そうです。しかしこう言ってしまうと、
「信仰には卒業のあるものしかない」
↑この部分が、本当にそうですか?となります。
そうでないないなら、論理破綻です。

>どうもくどくなってしまってすみません。日本語の特性というより、正確に言おうとするとどこの国語でもくどくなるでは、と疑っています。
これもそのとおりで、大事なことが含まれていると思います。
今回はこの点も絡めて考えてみたいと思います。

さて、このサイトで何度かご紹介した香西秀信氏は
著書『レトリックと詭弁』ちくま書房 の中で、
宇佐美寛氏の「問いの構造」という論文を紹介しています。

香西氏はこの宇佐美氏について、

 宇佐美氏は、論争の達人として、
教育学界ではその名を知らない人はいないほど畏敬されている研究者です。
当該の論文は、公共の図書館にはたいてい備えられている雑誌に掲載されておりますので、
巻末の引用文献表を頼りにぜひ検索され、
一読のみならず、二読、三読をお勧めいたします。
 何度も言うようですが、質の悪い問いを跳ね返す方法を学ぶのに、
これ以上役に立つ文献はありません。


と述べています。

この論文は、
論争相手の吉田氏の「引っ掛け」と言える“質の悪い問い”に対して、
これでもかこれでもかと
ひたすら理詰めで吉田氏の主張を破壊していくものです。
これ以上のないくどさです。

これについては宇佐美氏が自ら著書
(『「議論の力」をどう鍛えるか』 明治図書)
の中でさらに詳しく解説をしていました。

簡単なことほど詳しく説明するのは難しいので、
わかってもらおうとするとくどくなるということがあります。
宇佐美氏にとっては議論のルールとして当たり前のことが
吉田氏には理解されていない(共有されていない)ので、
とことん理詰めで説明しなければならないということなのでしょう。

わかるようにしかも正確に説明しようとすれば、
相手のわからないところにまで立ち戻って説明しなければならず、
その地点で言い換えた言葉にまた説明が必要であれば
またそこで説明しなければならないといった具合です。

しかし、筋の通った正しい話なら、
どんなにくどく説明しようとしても論理が破綻することはありません。

逆に、どこかで矛盾する話は詳細にしようとすると
自ら破綻します。崩壊してしまいます。
詳しく追求すると論理的にボロが出てきてしまうからもたないのです。
つまり、くどい説明をしようとしてもできないのです。

親鸞会は詳しく説明するということをしません。できません。
同じ話を何度も繰り返すだけです。
前にも述べたように、親鸞会が推奨する
「文章は簡潔に、余計なところはなるべく削って」というのは、
矛盾していたり論理破綻していたり
途中で話や言葉の意味が変わってしまっていたりする正確さに欠けた話を
誤魔化すのに好都合なのです。

以前の記事「接続詞のない文章②~隠す効果~」
で紹介した「4-36 隠す効果」とも関連する、
その続きに挙げられていた詭弁が以下のものです。
さらにその後のコラムも紹介します。

4-37 表現を過剰に単純化する

 「詳しく述べたらどこが変かバレてしまうので、
詳しく述べない」のがこの方法です。
 詳しい説明を聞きなれていて、
いつでも詳しい説明を求めている人には、
説得力がまったくありません。

 文章の簡潔さ(コラム)

 日本人は俳句や和歌に深くなじんでいて、
「簡素な表現がよい」という意識が強く、
理詰めの表現は、
多くの日本人には必要以上に長く感じられるものです。

理詰めに正確に書けば数ページかかる内容でも、
「要するに何か」の部分は1、2行で書けるので、
「数ページ費やすのはくどいだけで数行で終わらせるのがよい」
と考えていて、
説明を1、2行で済ませてしまう人がたくさんいます。
「それが簡潔でよい」という考えゆえなのです。

 でも、それは実は「簡潔ではなく」、
単に「必要な説明が欠落しているだけ」です。
同じことを述べる場合に、
語数の多い版と少ない版がある場合、
少ないほうを簡潔と呼びます。

何かが欠落していて語数が少ないものを簡潔と呼ぶのは
間違いです。

不要なものは欠落していてよい
──不要なものがある文章は冗漫と呼ぶ──のですが、
必要な説明は欠落していてはいけません。



削って足りなかったりよく分からなかったりする部分は、
会員が勝手に都合のよいように補ってくれます。
「察してくれよ」「察してしまう」の関係で
お互いに都合の悪い部分は排除できるのです。

今改めて親鸞会の文章を読んでみると、
素直に読んでみようとすればするほど、
何が書かれてあるのか言いたいのか、本当によくわかりません。

何度も聞かされてきたセンテンスが淡々と接続詞もなく、
短い文章で区切られて繰り返されているだけです。
いかに自分が、繰り返し聞かされていた話で
その隙間(行間)を埋めて読んでいたのかを実感させられます。

いわば、記号や暗号に近いのです。
会員だけに通用するという意味でもそう言えるでしょう。
真に人に訴えよう、伝えようという心のこもった誠実な文章、
心に訴える力のある本物の文章ではないのです。

それでも会員には心地よいのです。
聞き慣れた言葉、単語、文章、
この「絶対に間違いのない真実」でいつも自分に暗示をかけて
「間違っているはずがない」のですから、
考えることも、判断することも要らない、
もう考えなくてよいから楽です。

ここはこう言うと覚える・人に説明する。
考えなくとも、与えられるものだけを暗記をしていけばいいのです。
丸写しの正確さで覚えることがいいことです。
カルトにとっていかに正確に話せるかという正確さとは、
教祖と一言一句違わないでという意味であって、
つまりコピーできているかという意味での正確さなのです。

こんなことを続けていると、
だんだん文章が読めなくなります。
読めても、考えることが苦手・苦痛になります。
ますます依存的になり、悪循環(カルトには好都合)に陥ります。
脱するのにも時間がかかります。

考える力を取り戻すには、一つには
自分の言葉で語ることを試みることです。
それも長くなってもできるだけ詳しく(理詰めで正確に)。
詳しく語ろうとすれば、筋の通らない話は破綻します。
日本語のおかしさも露呈します。

たいていのカルトの教祖は
自分で咀嚼した上での自分の言葉で語れない人でしょう。
そんな人物の下にいれば同じようになっていきますし、
自分の言葉で語らせない・考えさせないほうが、
従わせるにも好都合なのです。
スポンサーサイト



「信仰には卒業(完成)がある」という言い方について

2012年05月21日03:24

前回の続きです。非常に簡単な話ですが
できる限り詳しく(くどく)述べてみたいと思います。


 「〇〇のある~~」という言い方について

例えば、このような言い方をします。
「自覚症状のない歯周病」
これには二通りの使い方(意味合い・ニュアンス)があります。
1)「自覚症状のある歯周病」と「自覚症状のない歯周病」があって、
そのうちの一方である後者を示す場合。
2)歯周病には自覚症状がないのが普通であるが
「自覚症状がないことを強調して」歯周病のことを紹介したい場合。

1)は自覚症状があるものとないものがあるという意味になりますから、
2)の使い方をするとむしろ1)とは反対の意味合いになります。
日本語は難しいですね。
しかしそのどちらであるかは
その前後の説明なりを読めば自ずと判明することでしょう。
そのような曖昧さを排して2)の意味を示したいなら、
「歯周病には自覚症状がない」
と言えば正確になります。


 「信仰には卒業がある」という言い方に隠された前提

さて、本題の
「信仰には卒業がある」ですが、
ここで「信仰には卒業がある」と言えば、
・「すべての信仰には卒業がある」ことを改めて述べたもの
・「一般に考えられている信仰や他で説かれてきた信仰には卒業はないが、
 これから説こうとする信仰には卒業がある」ことを強調したいもの
の二通りが考えられます。

前者と後者では、その前提が異なります。
前者のように用いるのは、
「どんな信仰にも卒業がある」ことが前提で、
しかしそのことが一般に知られていなかったりする場合に、
そのことを改めて詳しく説明したい場合です。

しかし、ここでの親鸞会の話は、
「信仰に卒業があるなど知らなかった(説かれてなかった)」
「親鸞会で信仰に卒業があると知った」
という話ですから、これには当てはまりません。
「これから説こうとする親鸞会の信仰には卒業がある」
という内容ですから、後者になります。

後者は、「信仰に卒業なんてあるのか」「そんな話は聞いたことがない」
ということが前提になっているのです。
つまり、前者と後者では前提が逆、要するに
話の出発点が反対なのです。

そして、「これから説こうとする卒業のある親鸞会の信仰」、
「卒業のある信仰」が正しい救いなのだから聞き求めなさいという意味です。

ここでまた「卒業のある信仰が正しい」ということが前提になっているのですが、
これにも二つの意味合いがあって、
・世間一般の求道には卒業がないが親鸞会で説く救いには
信心決定という完成がある
という意味(卒業があるのが救いという問題)と、
・本願寺で説かれている信仰には卒業や完成がないが、親鸞会にはある
という意味(信仰とはどういうものかという問題)があるのです。
「本願寺で説かれている教えには信心決定という卒業がないが
親鸞会で説いている教えには信心決定という卒業がある(から正しいのだ)」
という主張です。

つまり、この話には隠された前提があるのです。
前提1)信仰には卒業のあるものとないものがある
前提2)そのうちの卒業のある信仰(を説いているの)が正しい

です。

前提が崩れればその主張の正しさは崩れるという話は
何度かしてきました。
さて、この主張は正しいのでしょうか。


 「信仰」の示す意味で違ってくる

まず、前提1)について考えてみます。
よく考えてみると、これも変なのです。
そもそもここで親鸞会はこの信仰という言葉を、
どういう意味で使っているのでしょうか。
親鸞会の説明を読めばわかるように*1)
「信仰を卒業したとき、それが信心決定(縦の線)」
なので、ここでいう親鸞会の信仰とは、
「信心決定するまで」のことを指しています。

親鸞会では世間一般の求道を指して卒業がないと言いますが、
それはいいとしても、
では浄土真宗の視点ではどうなのでしょう。
決勝点のその後(信後)は何なのでしょうか?
親鸞会では「御恩報謝」と言っています。それ自体は間違いではないです。
ではしかし、信後の御恩報謝の暮しは「信仰」に入らないのでしょうか。
もうお分かりだと思います。
「親鸞会では信後は信仰のうちに入らない・入れていない」のです。
親鸞会の「卒業のある信仰」とは、信前の「求道」のことを示すのです。
(前々回お話した「曖昧独自な言葉の定義」)

同じ意味で「親鸞会の求道には完成がある、卒業がある」
と言い換えることができることからも、
この主張の「信仰」が「求道」のことを示していることはお分かりになると思います。

ですから、このような言い方は、
「信仰」=「信前の求道」なら正しいのですが、
一般的に、特に浄土真宗で信仰とは信前の求道のことを示すものなのでしょうか。

信仰という言葉は浄土真宗ではあまり用いられないのですが、*2)
むしろ浄土真宗の信心の意味からすれば、
信後の御恩報謝のほうが信仰といえるのです。
だとすれば、親鸞会でも「御恩報謝に卒業はない」と言っているように、
信仰にも卒業はないということになります。

この信仰には卒業があるという話の中で、
信仰に卒業があると説いた後に寺の人が
「信仰に卒業があるなんてはずがない」と抗議にやって来て諭した後、
「卒業なんてあるはずがないというのは
御恩報謝のことと間違えておられるのではないですか?
確かに、御恩報謝には卒業はありませんよ」
といって助け船を出して、寺の人も「そうだったそうだった」と納得する
というくだりがありましたが、
・信後も信仰の中に含めるなら信仰に卒業はない
・信仰とは信前のことだけを指す(親鸞会独自の定義)なら卒業がある
これだけのことです。


 「卒業のある信仰と卒業のない信仰」

前提2)そのうちの卒業のある信仰(を説いているもの)のみが正しい
のか?についてです。
ここまでで、「信仰」という言葉の使い方(親鸞会独自の定義)に
問題があるということがわかりましたから、
これについては説明するまでもありません。

・信仰が信前の求道だけを指すなら卒業はある(信心決定ということがある)
・信仰に信後の御恩報謝も含めるなら卒業はない(御恩報謝に卒業はない)
どちらも正しいのです。

親鸞会の言い方はこのうち前者だけに意味を固定して、
勝手に独自性を作り出して
唯一の正当性を醸し出そうとしているに過ぎないのです。

繰り返しになりますが、親鸞会で
>弥陀の本願に一念で救い摂られ、報土往生が
>ハッキリと定まったことを、「業事成弁」略して「業成」と
>言われています。そのときが、信仰の卒業であり、決勝点であります。
といっているように*3)
親鸞会では「信仰」=「信心決定するまでの求道」であり、

そして、「信仰の卒業」とは
「一念で救い摂られること」「報土往生がハッキリと定まったこと」
を示しますから、
親鸞会で「信仰の卒業」とは
一念で救いとられる、報土往生がハッキリと定まる、つまり「信心決定」を示します。
要するによく読めば、親鸞会で言っていることは
「信心決定ということがある」ということであって、
これを独自に「『信仰の卒業点』と定義している」だけです。
ですから、「信仰に卒業があるとする親鸞会の教え」だけが
信心決定できる正しい教えということではないのです。
(信心決定する、できる、このような言い方を好んで
強調するのも親鸞会の特徴です。
このあたりのことも考察してみるとよいかも知れません)

「卒業・完成のある信仰」という言い方で、
あたかも、親鸞会だけが完成・卒業のある信心を説いている、もしくは
親鸞会だけが卒業・完成(信心決定)ができるという印象を与えたいのです。


まとめ
ここでの親鸞会のトリック

・「信仰」を「信心決定までの求道」という意味に限定して
求道に完成がある→信仰に完成がある
とした。

・はじめから「信仰」という言葉を「卒業のあるもの」としての意味で
定義し直して用いている。
(「信心決定するまでの求道」の意味で使っている)
 それなら当然信仰に卒業があるとなって当たり前だが、
浄土真宗で「信仰」とは「信心決定するまでの求道」に限られるのか?(違う)

・あたかも「卒業のある信仰」を説いているのは親鸞会だけだといいたいのだが、
確かに余所では「信仰の卒業」という言い方はしない。しかし、ここで
「信仰の卒業」とは「一念で救い摂られること」「一念で救い摂られること」「報土往生がハッキリと定まったこと」をいっているのに他ならない。
「一念の救い」「報土往生がはっきり定まること」が説かれているのが浄土真宗であるから
それは親鸞会だけで説かれていることではない。
むしろその内容になれば親鸞会では正しく説かれていないといっていい。

*1)http://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/kansei-sotsugyou-shinjin01.htm
*2)http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-380.html
*3)http://sinshu.blog.shinobi.jp/Entry/624/

お知らせ

最新記事

最新トラックバック

カレンダー

04 | 2012/05 | 06
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

プロフィール

エッシャー作 『無限階段』

lonli

Author:lonli
元親鸞会会員。

全記事表示リンク

検索フォーム

QRコード

QR