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暗示にかけようとする表現~『顕真』6月号から~

2011年06月24日21:07

暗示にかけようとしている文章

「主張」とは少し話がそれますが、
暗示にかけようとしている文を使った、
フェアでない書き方の最たる例をここに書いておきましょう。

 暗示にかけようとしている文を使った、
フェアでない書き方の代表的なっものは、
形式面での操作と表現面での操作の次の二つがあります。

・論じたい点として主張を述べず、主張を前提とした別の論を書く
──これが第一の方法です。

このタイプの文章は、
批判精神の乏しい読み手には強い影響力があるので
読み手には危険な書き方です。

たとえば、「女性が依存症を克服するにはどうしたらよいか」
という論があったとしましょう。
これには「女性には依存症がある」という前提が隠れています

批判精神の乏しい読み手がこれを読むと、
「女性には依存症がある」という考えを無意識のうちに持つことになります。
論理で納得して自分の考えとするのではなく、
無意識のうちに無批判に自分の考えとしてしまうことになるので、
これは読み手にとって非常に危険な方法です。

・形容する部分に論じたいものをまぎれこませる。
──これが第二の方法です。

 たとえば、「押しつけられた性役割」というように書くのがこの例です。
これは読み手に「押しつけは悪い、ゆえに性役割は悪い」と
考えさせようとしている表現です。

 読み手を自分と同じ意見にしたいと強く望む者は、
無意識のうちにこの手法をとる傾向があり、
ことに大衆の意見を操作しようとする者がよく使います。


考えて──『暗示の手法』

次の三つの論があなたの目の前にあったとしましょう。

a『なぜ私はこれほど聡明なのか』
b『**政策のどこが悪かったのか』
c『あなたはなぜ勉強の仕方が下手なのか』

 これらにはどんなことが書いてあるか、あなたは想像できますね。
 さて、これらは、その論を書く事自体が目的の場合はもちろんありますが、
そうでない場合もあります。
では、そうでない場合とはどんな場合でしょう?

小野田博一『論理的に書く方法』日本実業出版社p44~46


詭弁や心理的作用を利用した影響力の行使等について調べていると
思い当たる節が多すぎて考えさせられることばかりです。
いろいろ書きたいことがあり過ぎて整理が追いつきませんが、
ここまででもある程度詭弁というものがどういうものかわかっていただけたと思います。

詭弁とは決して難しいものではなく、故意にも限りません。
日常ではむしろ詭弁的な言い方を便利に利用しているのです。
”遠まわしの言い方”や”濁した言い方”、”煙にまく”
こういったことは人間関係上の会話においてはむしろ必要で誰しもしていることです。
ですからそこまでも用いてはならないとは思っていませんが、
少なくとも”論じる文”や”相手に正確に伝えなければならない話”において
誤魔化しは必要ありませんし、あっては害になるだけです。

さて今回は、飛雲様『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り24
でも取り上げられていた『顕真』6月号の雑行についての記事について
リクエストをいただきましたので、実習も兼ねて考えてみたいと思います。
教義の上からの誤りについては飛雲様で詳しく説明されていますので、
それでよくわかります。
論理上の観点から言えば、「根拠がない」ということに尽きます。
全体としてもそれだけです。
以下、引用から考えてみます。

「親鸞聖人は、雑行を捨てよと教えられているのだから、諸善をする必要はない。善を勧めるのは間違いだ」

(答え)
 真宗の人々に、こんな誤解が多い。
もし、これが浄土真宗の教えならば、布施(親切)や精進(努力)、父母の孝養などは、必要ないからするなという、放逸無慚な怠け者を作るのが親鸞聖人の教えになるだろう。

←なりません。「諸善をする必要がない」と「諸善をするな」とは違います。
勝手な決め付け、すり替えに加えて、
「暗示にかけようとする文章」という詭弁が加わっています。
「疑難の主張では放逸無慚な怠け者を作る教えになる」
という暗示にかけようとしているのです。

これらはみな、仏法で説く諸善であるからだ。

←先の主張の根拠であるかのように述べているところが最大の間違いです。
上で述べていることの根拠になっていませんし、なりません。
この親鸞会の文章は、
「雑行とは仏法で説く諸善のことであるから、やるよう勧められているのだ」
と言っているのですが、全く逆です。
「諸善」を往生の為の行として用いようと行う
「仏法で説かれている善い行為」のことを「雑行」というのですから、
雑行という諸善を捨てよ」なのに、
親鸞会の「諸善だからやれ」ではそれこそ全く「雑行」というものを知らないのです。
仏法を読んでいないから、
「仏法で説かれている善」と「雑行」の関係がわからないのです。

 これは全く、「雑行」というものを知らない人の発言であることは明らかだが、こんな聞き誤りが、結構多いのが現状である。

←「~~であることは明らかだが」と決め付けていますが、
このような文言が「感情の充填された語」です。少しも明らかではないのです。
「聞き誤りだ」という印象さえ与えられればいいという表現です。
「多いのが現状である」にも根拠がなく、「暗示にかけようとする表現」です。
 

その元は、どこにあるのか解明しよう。
「雑行」とは、「弥陀の往生浄土の救いを求めてする、もろもろの善」をいうのである。
 仏教で説かれる「諸善」が、悪いはずがないのだが、なぜその「諸善」を、「雑行」と嫌い、捨てよと言われるのか。
 それは「自力の心」で行うからでである。「自力の心」さえ廃れば、「諸善」は「雑行」とも言われず、捨て物でもなく、「御恩報謝の行」となり、身を粉に骨砕きてもの、恩徳讃の活動になるのだ。

←『こんなことが知りたい』や
チューリップ企画の冊子『雑行・雑修自力の心』と変らない、
何十年前からと同じ「説明になっていない説明」の繰り返しです。

「解明しよう」とある割には、何も解明されていないのですが、
この記事には続きもあるということで、
実際の『顕真』の記事を見せていただきました。
この後は例え話で説明されていますが、
やはり文証での根拠が挙げられないからなのです。
雑行については、お聖教に基づいた根拠で話がなされていないのです。
それをしたら、親鸞会の「善の勧め」が「雑行の勧め」であり
助からない教えであることが知られてしまうからです。

参考までに、例えの話も見てみます。
例えというものは、全部が合う訳ではないので注意が必要です。
その話と言わんとしている肝心なところが合っていなければ、
(論理の言葉で言えば、観点が違えば正誤も変わってくるように)
つまり適切に例えられていなければ
例えも話をわかりやすくする為ではなく、
誤魔化しの道具としての詭弁となってしまいます。
例えを聞くときは、何が例えられていて、
適切に例えられているの考えることが必要です。
以下、『顕真』の続きです。

 例えば、「一緒にいたい」と思う心の高揚が結婚となり、「一緒にいたくない」と思う心の高揚が離婚となるようなものである。
「結婚」と「離婚」は反対だが、「一緒にいたいか、いたくないか」の心で分かれる。
「もろもろの善」が「雑行」となるか、「報謝の行」となるかは、「自力の心」が廃ったか、どうか、の一点によって分かれるのだ。

←何なのでしょうか。この例えは。
「となるようなものである。」と言っていますが、違います。

前の説明や、後半部分の説明では、
「善をしている」という外面に表れている行為が同じ「善」という行為であっても、
まったく同じ行為をして外見上にも全く同じ行為に見えるけれども、
その「心がけ」の違いによって「雑行」と「報謝」という別の行為になってしまうのだ、
という説明でした。
行為は同じでも、心が違うから、行為としての名前も違ってくるというものです。

ところがこの結婚の例えでは
「結婚」→婚姻して一緒に暮し生計を共にする行為
「離婚」→分かれて別の世帯になる行為
というものですから、心も違えば外見上の行為も全く違うものです。
「雑行」の何を例えているのかわかりませんし、
何も例えられていません。

心の高揚があろうがなかろうが、
・「一緒にいたいという心」で「一緒に暮し生計を共にするという行為」→結婚
・「一緒にいたくないという心」で「別れるという行為」→離婚
なのですから、「心」も「行為」も異なっているものです。
何も「雑行」と「報謝」の関係性と重なるところが無く、例えになっていません。
「心の高揚」という訳のわからない言葉を挟んでいますが、
心の高揚が何だというのでしょう。
心という単語を無理矢理入れることによって、
自力の心の有る無しと関連づけさせたいのかもしれませんが、
自力の心は「心の高揚」といったものとはむしろ正反対の関係のないものですから
ここでは意味がありません。

その意味では、以前によく聞いた
「菓子箱(賄賂とお礼)の例え」のほうが
まだ例えとしては合っている部分があるのですが、
この例えで善を勧めることの破綻を以前に記事にしたので
(http://lonli.blog60.fc2.com/blog-entry-17.html)
変えたのでしょうか。それにしても以前より悪くなっています。

この後は、文証に基づかない親鸞会独自のいつもの「自力の心」の説明が続き、
また例え話が出てきます。
しかし、「聞き誤りの元を解明する」と言った内容ではなく、
「自力の心の恐ろしさ」を例えも使って説明する内容です。
大雑把に見て「自力の心の罪」(18願を疑う罪)ということなら
これはこれでいいでしょう。

しかし、その結論として最後に唐突に

「雑行を捨てよ」とは、この「自力の心」を捨てよということであって、「もろもろの善をするな」「諸善を捨てよ」ということでは断じてないことを牢記しなければならない。


といつもの説明で結論づけていますが、
この前に述べられていたことは「自力の心の恐ろしさ」であって、
「諸善を捨てよではないということの根拠」ではありませんでした。

根拠のないことを印象づけなければならない為に、
「断じてない」とか「牢記しなければ」といった
”大げさな言い回し”で表現しなければならないのです。
苦しい主張なのです。

結局、この『顕真』の説明は最初に言ったように、
最初から最後まで、「善の勧め」について”根拠のない”記事でした。
「後生の解決の為に善の勧めがある」とする親鸞会の主張には根拠がないことを
ここでも示す形になってしまいました。


【付記】
親鸞会の話では、上にあるように、実際は雑行であるものを実行させたいが為に、
「雑行は捨てずに自力の心だけを捨てなさい」というような話を聞いて信じているから
自力の心が廃ることがないのです。
雑行には自力の心がつきものなのですから。

例え話をするなら、前述のようによく考えましょう。
ゴミの話で恐縮ですが、私の地区では指定のごみ袋にゴミを入れて出すことになっています。
ごみ袋はきれいなものです。捨てたいのは、中身のゴミです。
嫌われて捨てたいのはゴミですが、一旦ゴミをごみ袋に入れたら、
ごみ袋ごとゴミです。ゴミを入れるからごみ袋と言います
ゴミを入れていなければ、単なる綺麗なビニール袋です。その状態で捨てる人はありません。

今、ゴミが入っているから袋も一緒に捨てられるべきごみ(袋)となりました
これを、「汚いゴミを入れたから、ゴミ袋も捨てられるのだ。捨てるべきゴミが入っているから袋も捨てられる」
と言うのはいいとして、
「だから、ゴミ捨て場に行ったら中身のゴミだけを捨てなさい」と言う人がありますか?
捨てるためにごみ袋に入れたのです。ゴミを入れる為にあるからごみ袋というのです。
(自力の心があるから善い行為であっても雑行と言うのです。)

「ゴミ袋は捨てるなよ、中身だけ捨てよ」と言われたら、
捨てられませんから、いつまでもゴミの入ったゴミ袋をぶら下げて
ゴミ集積所でどうしたらいいのだろう?と考え続けたところで
捨てられないだけで答えはありません。

捨てられないごみ袋をいくつ積み重ねたら、
捨てられないことに気付くというのでしょうか?
親鸞会では「まだまだ、積み重ねようが足りないのだ」と言われ続けるだけで、
その親鸞会の教えを信じて「もっと積んだらきっと」と信じ続けて積み重ねようとしている限りは
このままでは捨てることができないと気付くこともないから
救われないのです。
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コメント

No title

いつも大変勉強になります。
付記にある譬えはナイスですね。でも親鸞会会員には理解不能ですかね。
それにしましても、「報謝の行」とは彼らはいつから言い出したのでしょうか。

  • 2011年06月25日 16:43 |
  • 雑草 URL :
  • 編集
Re: No title

> でも親鸞会会員には理解不能ですかね。
理解できると思いますよ。むしろこちらのほうが筋が通っているのですから簡単です。
会では見当違いの方向に向かわされてしまっていますので、
矛盾だらけの教えでも、(なにしろ矛盾が出発でありゴールですから、)
「きっと間違いない『いつかわかるはずだ』」と追いかけ続けている限り、
浄土真宗に対面することがないのです。

> それにしましても、「報謝の行」とは彼らはいつから言い出したのでしょうか。
?どういう意味の疑問でしょうか。
親鸞会でなくても「報謝の行」という言い方はしているようですよ。
外部から浄土真宗を解説して「浄土真宗では念仏は報謝の行とする」と説明されることが多いようですし、自分達で言うときは、論文等を除いては「行」ということはあまりなく「仏恩報謝の営み」「仏恩報謝の念・思い」という言い方が多いように思います。

  • 2011年06月27日 11:26 |
  • lonli URL :
  • 編集
No title

そうですね。普通なら簡単に理解できることですが、熱心な会員ほど敢えて理解しようとしないのではないかと思ったまでです。

私が会員であった頃は、親鸞会が勧めるところの善は「宿善」になると説明され、私が会員を止めてからは、その善は雑毒の善であること、真実の善はできないことを身をもって知らされるまで励めと「三願転入」に関連づけていたと私は理解していました。それがこの顕真6月号や、親鸞会のHPに新しく載ったマンガでは、親鸞会の勧める善は「報謝の行」であることを最初に述べているので、勧める善の意味づけを方向転換しようとしているのかなと思ったまでです。確かに今から思えば、昔から恩徳讃の説明もあり、「報謝の行」の話はあったと思い出しましたが、会員当時はそれよりも「宿善」の方が強かったですね。「報謝の行」はあくまでも信心決定してからと考えていました。

  • 2011年06月27日 18:39 |
  • 雑草 URL :
  • 編集
Re: No title

> 私が会員であった頃は、親鸞会が勧めるところの善は「宿善」になると説明され、私が会員を止めてからは、その善は雑毒の善であること、真実の善はできないことを身をもって知らされるまで励めと「三願転入」に関連づけていたと私は理解していました。

そのようですし、その流れもありますね。
昭和30年代ころからいわゆる宿善論争までの新聞などを見ますと、
はっきり「宿善を積もう」「宿善を積め」と言っていますね。

>それがこの顕真6月号や、親鸞会のHPに新しく載ったマンガでは、親鸞会の勧める善は「報謝の行」であることを最初に述べているので、勧める善の意味づけを方向転換しようとしているのかなと思ったまでです。

そういうことですか。わかりました。

>確かに今から思えば、昔から恩徳讃の説明もあり、「報謝の行」の話はあったと思い出しましたが、会員当時はそれよりも「宿善」の方が強かったですね。「報謝の行」はあくまでも信心決定してからと考えていました。

私のときも名目としては「御報謝」として勧められていたと思います。
「御報謝だからお礼であって(ここでは信後とは言わない)、何も強要していない」というのが、
親鸞会の公式見解であり、私もそのとおりに理解していました。
ただ、ここでも「御報謝が宿善になる」という矛盾した頓珍漢な理解が、
会員にはある(あった)と思います。その辺りの曖昧さも利用していますね。
今は御報謝とは言わないそうですが。

何かの決起大会か、出陣式か、「決死報恩」と書かれた
鉢巻きをしめてエイエイオーと気勢を挙げる儀式をしていたのは、
少し違うのではないかと思いました。
ですから今に始まったことではないと思います。

今救われて御報謝させていただきましょうというのが浄土真宗ですから
報謝の行を勧め努めさせていただくのが当然のことですが、
しかし親鸞会にとっては「念仏は報謝の行であるから信後に限る」と言い続けてきたので、
「報謝の行としての善なら信後に限る」はずですが大丈夫でしょうか。
(これは「称名念仏は、すべて信後報謝に限るからです。」という言い方に
問題があるのですね。これは元々伊藤氏の『安心調べ』からですが、
どう問題があるのかわからないのでしょうね。)

参考になります。ありがとうございます。

  • 2011年06月27日 20:26 |
  • lonli URL :
  • 編集

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