因縁果の道理とは、
すべてのものは因と縁によって成り立っているということです。
ただし、因と縁と果は固定的なものではなく、
それぞれの「関係性」を表す言葉であるということに注意が必要です。
【例:「聞き手」と「話し手」】
聞き手と話し手が存在して関わりあっているということではなく、
聞き手によって話し手が存在し、
話し手によって聞き」が存在するということ。
(聞き手と言えるのは話し手が存在するからであり、
逆もまたしかり。
話し手と聞き手が生じるのが同時であるということ。)
【例:親と子】
親から子が生まれたのではなく、
子が生まれた時に産んだ人が親になる。
「親」と呼べるのは「子」が生まれたから。
子が生まれたときに、親と子という関係が生まれたということ。
子が存在するなら親が存在する。
【因果の道理と浄土真宗】
浄土真宗では、因果の道理をわきまえて生きていく。
◎祈祷的宗教を否定する。
…大根の種からスイカが生えることを恐れる必要はない。
スイカの種を蒔いて大根が生えることを期待しない。
→だから迷信をもたない。(浄土真宗では祈祷やまじないに迷う必要がない。)
◎求道的宗教を否定する。
…因果の道理をわきまえて生きていく(祈祷的宗教の否定)としながらも、
因果の道理によって自身で自身を救うことはできないと説く。
(如来を信知することによってのみ救われるのだから)
【因果の道理と浄土真宗の救い】
因果の道理は正しくても
因果の道理によって自分が救われるかということとは別なのです。
因果の道理という真理では救われようのない悪人の私であるから
因果の道理を超えた如来の誓いを信じることによって救われていくのです。
この区別がわかりますか。
因果の道理を否定するのではありません。
因果の道理を信じないのでもありません。
自力の心を捨ててとは、
因果の道理によって救われようとする心を捨てて、
自身の救いに於いては因果の道理ではなく、
如来(名号・念仏)によって救われるということなのです。
すべてのものは因と縁によって成り立っているということです。
ただし、因と縁と果は固定的なものではなく、
それぞれの「関係性」を表す言葉であるということに注意が必要です。
【例:「聞き手」と「話し手」】
聞き手と話し手が存在して関わりあっているということではなく、
聞き手によって話し手が存在し、
話し手によって聞き」が存在するということ。
(聞き手と言えるのは話し手が存在するからであり、
逆もまたしかり。
話し手と聞き手が生じるのが同時であるということ。)
【例:親と子】
親から子が生まれたのではなく、
子が生まれた時に産んだ人が親になる。
「親」と呼べるのは「子」が生まれたから。
子が生まれたときに、親と子という関係が生まれたということ。
子が存在するなら親が存在する。
【因果の道理と浄土真宗】
浄土真宗では、因果の道理をわきまえて生きていく。
◎祈祷的宗教を否定する。
…大根の種からスイカが生えることを恐れる必要はない。
スイカの種を蒔いて大根が生えることを期待しない。
→だから迷信をもたない。(浄土真宗では祈祷やまじないに迷う必要がない。)
◎求道的宗教を否定する。
…因果の道理をわきまえて生きていく(祈祷的宗教の否定)としながらも、
因果の道理によって自身で自身を救うことはできないと説く。
(如来を信知することによってのみ救われるのだから)
【因果の道理と浄土真宗の救い】
因果の道理は正しくても
因果の道理によって自分が救われるかということとは別なのです。
因果の道理という真理では救われようのない悪人の私であるから
因果の道理を超えた如来の誓いを信じることによって救われていくのです。
この区別がわかりますか。
因果の道理を否定するのではありません。
因果の道理を信じないのでもありません。
自力の心を捨ててとは、
因果の道理によって救われようとする心を捨てて、
自身の救いに於いては因果の道理ではなく、
如来(名号・念仏)によって救われるということなのです。
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