ダイヤモンドという物が存在します。
ダイヤモンドは、炭素からできています。
炭素という元素に、温度と圧力が加わって形成されます。
今ではその原理を使って、人工的にダイヤモンドを作ることもできます。
しかし、炭素に温度と圧力をかければ出来るからといって、
炭素を人間の掌で力いっぱいグーッと押し続けたってできるものではありません。
超高圧、超高温という条件があるのですから。
【聖道門と浄土門/善人と悪人/悪人だもの】(←よい題名が浮かびません。あれば教えてください)
ある人は説きました。
大根の種をまけば、大根が生え、西瓜の種をまけばスイカが生える。
善いことをすれば善いことが自分に返ってきますよ。
お金がほしければ、一生懸命働きなさいと言いました。
それを聞いた人は言葉通り一生懸命働いて、
たくさんのお金は得られました。
今度はある人は、○○が欲しければ→→をしなさい、
と説きました。
○○を獲得したいと思った人はそれを信じて、
→→に一生懸命励みました。
→→という原因を蒔けば、
○○という結果が生えてくるに違いないと信じたからです。
でも、自分なりに一生懸命→→をしても○○はなかなか得られません。
そのうち、→→をすることにも少々疲れてきました。
でも、ある人ははっぱをかけます。
まだまだ→→が足りないからだ。○○はそう簡単には得られないぞと。
そう言われて、また頑張りました。
死ぬまでに間に合わせたいと頑張りましたが、
結局、得られませんでした。
なぜでしょう。
たしかに、→→をすれば○○は得られるものだったのです。
でも、それには実は「その人が善人であったならば」という条件があったのです。
所詮、無理だったのです。
【幻に向かって】
ある人は言いました。
○○が欲しければ、この▽▽という種に→→という縁をたくさん与えなさい。
そうすれば、炭素でも高温と圧力という強い縁によってダイヤモンドに変わるように、
きっと得られるのだと。
人々はそれを信じて、→→という縁をたくさん与え続けました。
しかし、なかなか○○は得られません。
きっとまだまだ→→が足りないのだと思って頑張りますが、
○○は生えてきません。
なぜでしょう。
実は、○○の因は▽▽などではなかったのです。
本当は、○○の種は、私がもつことのできないものでした。
種をもてないのですから、
もっていないところにいくら→→をしたって、生まれてくるはずがない。
しかし、いつか生えてくるに違いないと思って人々が頑張るのをいいことに、
ちっとも生えてこないのをいいことに、
ある人はもっと→→をやれと騙すばかり、
人々はいつまでたっても生えてこないのは自分のせいなのだと、
ありもしない結果を求めて、
幻に向かっていくばかりなのでした。
【因果の道理と浄土真宗の救い】
因果の道理は正しくても
因果の道理によって自分が救われるかということとは別なのです。
因果の道理という真理では救われようのない悪人の私であるから
因果の道理を超えた如来の誓いを信じることによって救われていくのです。
この区別がわかりますか。
因果の道理を否定するのではありません。
因果の道理を信じないのでもありません。
自力の心を捨ててとは、
因果の道理によって救われようとする心を捨てて、
自身の救いに於いては因果の道理ではなく、
如来(名号・念仏)によって救われるということなのです。
ダイヤモンドは、炭素からできています。
炭素という元素に、温度と圧力が加わって形成されます。
今ではその原理を使って、人工的にダイヤモンドを作ることもできます。
しかし、炭素に温度と圧力をかければ出来るからといって、
炭素を人間の掌で力いっぱいグーッと押し続けたってできるものではありません。
超高圧、超高温という条件があるのですから。
【聖道門と浄土門/善人と悪人/悪人だもの】(←よい題名が浮かびません。あれば教えてください)
ある人は説きました。
大根の種をまけば、大根が生え、西瓜の種をまけばスイカが生える。
善いことをすれば善いことが自分に返ってきますよ。
お金がほしければ、一生懸命働きなさいと言いました。
それを聞いた人は言葉通り一生懸命働いて、
たくさんのお金は得られました。
今度はある人は、○○が欲しければ→→をしなさい、
と説きました。
○○を獲得したいと思った人はそれを信じて、
→→に一生懸命励みました。
→→という原因を蒔けば、
○○という結果が生えてくるに違いないと信じたからです。
でも、自分なりに一生懸命→→をしても○○はなかなか得られません。
そのうち、→→をすることにも少々疲れてきました。
でも、ある人ははっぱをかけます。
まだまだ→→が足りないからだ。○○はそう簡単には得られないぞと。
そう言われて、また頑張りました。
死ぬまでに間に合わせたいと頑張りましたが、
結局、得られませんでした。
なぜでしょう。
たしかに、→→をすれば○○は得られるものだったのです。
でも、それには実は「その人が善人であったならば」という条件があったのです。
所詮、無理だったのです。
【幻に向かって】
ある人は言いました。
○○が欲しければ、この▽▽という種に→→という縁をたくさん与えなさい。
そうすれば、炭素でも高温と圧力という強い縁によってダイヤモンドに変わるように、
きっと得られるのだと。
人々はそれを信じて、→→という縁をたくさん与え続けました。
しかし、なかなか○○は得られません。
きっとまだまだ→→が足りないのだと思って頑張りますが、
○○は生えてきません。
なぜでしょう。
実は、○○の因は▽▽などではなかったのです。
本当は、○○の種は、私がもつことのできないものでした。
種をもてないのですから、
もっていないところにいくら→→をしたって、生まれてくるはずがない。
しかし、いつか生えてくるに違いないと思って人々が頑張るのをいいことに、
ちっとも生えてこないのをいいことに、
ある人はもっと→→をやれと騙すばかり、
人々はいつまでたっても生えてこないのは自分のせいなのだと、
ありもしない結果を求めて、
幻に向かっていくばかりなのでした。
【因果の道理と浄土真宗の救い】
因果の道理は正しくても
因果の道理によって自分が救われるかということとは別なのです。
因果の道理という真理では救われようのない悪人の私であるから
因果の道理を超えた如来の誓いを信じることによって救われていくのです。
この区別がわかりますか。
因果の道理を否定するのではありません。
因果の道理を信じないのでもありません。
自力の心を捨ててとは、
因果の道理によって救われようとする心を捨てて、
自身の救いに於いては因果の道理ではなく、
如来(名号・念仏)によって救われるということなのです。
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