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表現の単純化~「簡潔」と「必要な説明が欠落している」は異なる~

2012年05月29日02:45

前々回の記事についてコメントをいただきました。一部ご紹介します。

信心と信仰の違いについての考察もできそうです。例えば信心は卑近な語感があり、信仰は「いと高きところにまします」と仰ぎ見る語感があるというように。

しかし両者は類似の概念として論理的問題にしぼって、
①卒業(完成)のある信仰
②信仰には卒業(完成)がある
のように単純化すると、

①では、「卒業のある信仰と卒業のない信仰があり、私達は卒業のある信仰を求めている。」となり、
②では、「卒業のない信仰はあり得ない。信仰とは必ず卒業があるものである。卒業のないのは信仰とは呼べないもので、間違い者である。」となります。

言い換えれば、①は色々な立場を認めた上で自分達の立場を打ち出している姿勢、②は自分達の立場以外は論外という姿勢であると思います。正確に言えば、卒業があるのは会の信仰だけという暗黙の了解が必要ですが。

また、「卒業のある信心」と「信仰には卒業がある」として信心と信仰を使い分けるなら、信心は世間一般のものも会のものも包括する概念、信仰は会のものだけを表す概念となりますね。これも、先の暗黙の了解の部分を差し引いて論理的正確さを追求すれば、「信心には卒業のあるものとないものがあり、信仰には卒業のあるものしかない。」というべきです。

どうもくどくなってしまってすみません。日本語の特性というより、正確に言おうとするとどこの国語でもくどくなるでは、と疑っています。



有難うございました。
私とはまた若干違った角度から素晴らしい分析をしてくださいました。

少し整理させていただくと、
記事にも書かせていただいたように、
親鸞会は①の意味でも②の意味でも用いていて、
①から入っていって②を強調する、②が結論となっている形だと思います。

世間でいう求道には完成がないという話から、
卒業(完成)がなければ救い(浄土真宗)じゃないという話まで
含んだ意味として使っているということです。

>卒業があるのは会の信仰だけという暗黙の了解が必要ですが
の「暗黙の了解」というのが、
私の述べたところの「前提」ということです。

>信心は世間一般のものも会のものも包括する概念、信仰は会のものだけを表す概念となりますね。
そうですね。親鸞会の言いたいことは、
「信心は皆が求めているものだけれども、
卒業のある信仰は親鸞会だけが説いている」
ということなのです。

>論理的正確さを追求すれば、「信心には卒業のあるものとないものがあり、信仰には卒業のあるものしかない。」というべきです。
そうです。しかしこう言ってしまうと、
「信仰には卒業のあるものしかない」
↑この部分が、本当にそうですか?となります。
そうでないないなら、論理破綻です。

>どうもくどくなってしまってすみません。日本語の特性というより、正確に言おうとするとどこの国語でもくどくなるでは、と疑っています。
これもそのとおりで、大事なことが含まれていると思います。
今回はこの点も絡めて考えてみたいと思います。

さて、このサイトで何度かご紹介した香西秀信氏は
著書『レトリックと詭弁』ちくま書房 の中で、
宇佐美寛氏の「問いの構造」という論文を紹介しています。

香西氏はこの宇佐美氏について、

 宇佐美氏は、論争の達人として、
教育学界ではその名を知らない人はいないほど畏敬されている研究者です。
当該の論文は、公共の図書館にはたいてい備えられている雑誌に掲載されておりますので、
巻末の引用文献表を頼りにぜひ検索され、
一読のみならず、二読、三読をお勧めいたします。
 何度も言うようですが、質の悪い問いを跳ね返す方法を学ぶのに、
これ以上役に立つ文献はありません。


と述べています。

この論文は、
論争相手の吉田氏の「引っ掛け」と言える“質の悪い問い”に対して、
これでもかこれでもかと
ひたすら理詰めで吉田氏の主張を破壊していくものです。
これ以上のないくどさです。

これについては宇佐美氏が自ら著書
(『「議論の力」をどう鍛えるか』 明治図書)
の中でさらに詳しく解説をしていました。

簡単なことほど詳しく説明するのは難しいので、
わかってもらおうとするとくどくなるということがあります。
宇佐美氏にとっては議論のルールとして当たり前のことが
吉田氏には理解されていない(共有されていない)ので、
とことん理詰めで説明しなければならないということなのでしょう。

わかるようにしかも正確に説明しようとすれば、
相手のわからないところにまで立ち戻って説明しなければならず、
その地点で言い換えた言葉にまた説明が必要であれば
またそこで説明しなければならないといった具合です。

しかし、筋の通った正しい話なら、
どんなにくどく説明しようとしても論理が破綻することはありません。

逆に、どこかで矛盾する話は詳細にしようとすると
自ら破綻します。崩壊してしまいます。
詳しく追求すると論理的にボロが出てきてしまうからもたないのです。
つまり、くどい説明をしようとしてもできないのです。

親鸞会は詳しく説明するということをしません。できません。
同じ話を何度も繰り返すだけです。
前にも述べたように、親鸞会が推奨する
「文章は簡潔に、余計なところはなるべく削って」というのは、
矛盾していたり論理破綻していたり
途中で話や言葉の意味が変わってしまっていたりする正確さに欠けた話を
誤魔化すのに好都合なのです。

以前の記事「接続詞のない文章②~隠す効果~」
で紹介した「4-36 隠す効果」とも関連する、
その続きに挙げられていた詭弁が以下のものです。
さらにその後のコラムも紹介します。

4-37 表現を過剰に単純化する

 「詳しく述べたらどこが変かバレてしまうので、
詳しく述べない」のがこの方法です。
 詳しい説明を聞きなれていて、
いつでも詳しい説明を求めている人には、
説得力がまったくありません。

 文章の簡潔さ(コラム)

 日本人は俳句や和歌に深くなじんでいて、
「簡素な表現がよい」という意識が強く、
理詰めの表現は、
多くの日本人には必要以上に長く感じられるものです。

理詰めに正確に書けば数ページかかる内容でも、
「要するに何か」の部分は1、2行で書けるので、
「数ページ費やすのはくどいだけで数行で終わらせるのがよい」
と考えていて、
説明を1、2行で済ませてしまう人がたくさんいます。
「それが簡潔でよい」という考えゆえなのです。

 でも、それは実は「簡潔ではなく」、
単に「必要な説明が欠落しているだけ」です。
同じことを述べる場合に、
語数の多い版と少ない版がある場合、
少ないほうを簡潔と呼びます。

何かが欠落していて語数が少ないものを簡潔と呼ぶのは
間違いです。

不要なものは欠落していてよい
──不要なものがある文章は冗漫と呼ぶ──のですが、
必要な説明は欠落していてはいけません。



削って足りなかったりよく分からなかったりする部分は、
会員が勝手に都合のよいように補ってくれます。
「察してくれよ」「察してしまう」の関係で
お互いに都合の悪い部分は排除できるのです。

今改めて親鸞会の文章を読んでみると、
素直に読んでみようとすればするほど、
何が書かれてあるのか言いたいのか、本当によくわかりません。

何度も聞かされてきたセンテンスが淡々と接続詞もなく、
短い文章で区切られて繰り返されているだけです。
いかに自分が、繰り返し聞かされていた話で
その隙間(行間)を埋めて読んでいたのかを実感させられます。

いわば、記号や暗号に近いのです。
会員だけに通用するという意味でもそう言えるでしょう。
真に人に訴えよう、伝えようという心のこもった誠実な文章、
心に訴える力のある本物の文章ではないのです。

それでも会員には心地よいのです。
聞き慣れた言葉、単語、文章、
この「絶対に間違いのない真実」でいつも自分に暗示をかけて
「間違っているはずがない」のですから、
考えることも、判断することも要らない、
もう考えなくてよいから楽です。

ここはこう言うと覚える・人に説明する。
考えなくとも、与えられるものだけを暗記をしていけばいいのです。
丸写しの正確さで覚えることがいいことです。
カルトにとっていかに正確に話せるかという正確さとは、
教祖と一言一句違わないでという意味であって、
つまりコピーできているかという意味での正確さなのです。

こんなことを続けていると、
だんだん文章が読めなくなります。
読めても、考えることが苦手・苦痛になります。
ますます依存的になり、悪循環(カルトには好都合)に陥ります。
脱するのにも時間がかかります。

考える力を取り戻すには、一つには
自分の言葉で語ることを試みることです。
それも長くなってもできるだけ詳しく(理詰めで正確に)。
詳しく語ろうとすれば、筋の通らない話は破綻します。
日本語のおかしさも露呈します。

たいていのカルトの教祖は
自分で咀嚼した上での自分の言葉で語れない人でしょう。
そんな人物の下にいれば同じようになっていきますし、
自分の言葉で語らせない・考えさせないほうが、
従わせるにも好都合なのです。

「信仰には卒業(完成)がある」という言い方について

2012年05月21日03:24

前回の続きです。非常に簡単な話ですが
できる限り詳しく(くどく)述べてみたいと思います。


 「〇〇のある~~」という言い方について

例えば、このような言い方をします。
「自覚症状のない歯周病」
これには二通りの使い方(意味合い・ニュアンス)があります。
1)「自覚症状のある歯周病」と「自覚症状のない歯周病」があって、
そのうちの一方である後者を示す場合。
2)歯周病には自覚症状がないのが普通であるが
「自覚症状がないことを強調して」歯周病のことを紹介したい場合。

1)は自覚症状があるものとないものがあるという意味になりますから、
2)の使い方をするとむしろ1)とは反対の意味合いになります。
日本語は難しいですね。
しかしそのどちらであるかは
その前後の説明なりを読めば自ずと判明することでしょう。
そのような曖昧さを排して2)の意味を示したいなら、
「歯周病には自覚症状がない」
と言えば正確になります。


 「信仰には卒業がある」という言い方に隠された前提

さて、本題の
「信仰には卒業がある」ですが、
ここで「信仰には卒業がある」と言えば、
・「すべての信仰には卒業がある」ことを改めて述べたもの
・「一般に考えられている信仰や他で説かれてきた信仰には卒業はないが、
 これから説こうとする信仰には卒業がある」ことを強調したいもの
の二通りが考えられます。

前者と後者では、その前提が異なります。
前者のように用いるのは、
「どんな信仰にも卒業がある」ことが前提で、
しかしそのことが一般に知られていなかったりする場合に、
そのことを改めて詳しく説明したい場合です。

しかし、ここでの親鸞会の話は、
「信仰に卒業があるなど知らなかった(説かれてなかった)」
「親鸞会で信仰に卒業があると知った」
という話ですから、これには当てはまりません。
「これから説こうとする親鸞会の信仰には卒業がある」
という内容ですから、後者になります。

後者は、「信仰に卒業なんてあるのか」「そんな話は聞いたことがない」
ということが前提になっているのです。
つまり、前者と後者では前提が逆、要するに
話の出発点が反対なのです。

そして、「これから説こうとする卒業のある親鸞会の信仰」、
「卒業のある信仰」が正しい救いなのだから聞き求めなさいという意味です。

ここでまた「卒業のある信仰が正しい」ということが前提になっているのですが、
これにも二つの意味合いがあって、
・世間一般の求道には卒業がないが親鸞会で説く救いには
信心決定という完成がある
という意味(卒業があるのが救いという問題)と、
・本願寺で説かれている信仰には卒業や完成がないが、親鸞会にはある
という意味(信仰とはどういうものかという問題)があるのです。
「本願寺で説かれている教えには信心決定という卒業がないが
親鸞会で説いている教えには信心決定という卒業がある(から正しいのだ)」
という主張です。

つまり、この話には隠された前提があるのです。
前提1)信仰には卒業のあるものとないものがある
前提2)そのうちの卒業のある信仰(を説いているの)が正しい

です。

前提が崩れればその主張の正しさは崩れるという話は
何度かしてきました。
さて、この主張は正しいのでしょうか。


 「信仰」の示す意味で違ってくる

まず、前提1)について考えてみます。
よく考えてみると、これも変なのです。
そもそもここで親鸞会はこの信仰という言葉を、
どういう意味で使っているのでしょうか。
親鸞会の説明を読めばわかるように*1)
「信仰を卒業したとき、それが信心決定(縦の線)」
なので、ここでいう親鸞会の信仰とは、
「信心決定するまで」のことを指しています。

親鸞会では世間一般の求道を指して卒業がないと言いますが、
それはいいとしても、
では浄土真宗の視点ではどうなのでしょう。
決勝点のその後(信後)は何なのでしょうか?
親鸞会では「御恩報謝」と言っています。それ自体は間違いではないです。
ではしかし、信後の御恩報謝の暮しは「信仰」に入らないのでしょうか。
もうお分かりだと思います。
「親鸞会では信後は信仰のうちに入らない・入れていない」のです。
親鸞会の「卒業のある信仰」とは、信前の「求道」のことを示すのです。
(前々回お話した「曖昧独自な言葉の定義」)

同じ意味で「親鸞会の求道には完成がある、卒業がある」
と言い換えることができることからも、
この主張の「信仰」が「求道」のことを示していることはお分かりになると思います。

ですから、このような言い方は、
「信仰」=「信前の求道」なら正しいのですが、
一般的に、特に浄土真宗で信仰とは信前の求道のことを示すものなのでしょうか。

信仰という言葉は浄土真宗ではあまり用いられないのですが、*2)
むしろ浄土真宗の信心の意味からすれば、
信後の御恩報謝のほうが信仰といえるのです。
だとすれば、親鸞会でも「御恩報謝に卒業はない」と言っているように、
信仰にも卒業はないということになります。

この信仰には卒業があるという話の中で、
信仰に卒業があると説いた後に寺の人が
「信仰に卒業があるなんてはずがない」と抗議にやって来て諭した後、
「卒業なんてあるはずがないというのは
御恩報謝のことと間違えておられるのではないですか?
確かに、御恩報謝には卒業はありませんよ」
といって助け船を出して、寺の人も「そうだったそうだった」と納得する
というくだりがありましたが、
・信後も信仰の中に含めるなら信仰に卒業はない
・信仰とは信前のことだけを指す(親鸞会独自の定義)なら卒業がある
これだけのことです。


 「卒業のある信仰と卒業のない信仰」

前提2)そのうちの卒業のある信仰(を説いているもの)のみが正しい
のか?についてです。
ここまでで、「信仰」という言葉の使い方(親鸞会独自の定義)に
問題があるということがわかりましたから、
これについては説明するまでもありません。

・信仰が信前の求道だけを指すなら卒業はある(信心決定ということがある)
・信仰に信後の御恩報謝も含めるなら卒業はない(御恩報謝に卒業はない)
どちらも正しいのです。

親鸞会の言い方はこのうち前者だけに意味を固定して、
勝手に独自性を作り出して
唯一の正当性を醸し出そうとしているに過ぎないのです。

繰り返しになりますが、親鸞会で
>弥陀の本願に一念で救い摂られ、報土往生が
>ハッキリと定まったことを、「業事成弁」略して「業成」と
>言われています。そのときが、信仰の卒業であり、決勝点であります。
といっているように*3)
親鸞会では「信仰」=「信心決定するまでの求道」であり、

そして、「信仰の卒業」とは
「一念で救い摂られること」「報土往生がハッキリと定まったこと」
を示しますから、
親鸞会で「信仰の卒業」とは
一念で救いとられる、報土往生がハッキリと定まる、つまり「信心決定」を示します。
要するによく読めば、親鸞会で言っていることは
「信心決定ということがある」ということであって、
これを独自に「『信仰の卒業点』と定義している」だけです。
ですから、「信仰に卒業があるとする親鸞会の教え」だけが
信心決定できる正しい教えということではないのです。
(信心決定する、できる、このような言い方を好んで
強調するのも親鸞会の特徴です。
このあたりのことも考察してみるとよいかも知れません)

「卒業・完成のある信仰」という言い方で、
あたかも、親鸞会だけが完成・卒業のある信心を説いている、もしくは
親鸞会だけが卒業・完成(信心決定)ができるという印象を与えたいのです。


まとめ
ここでの親鸞会のトリック

・「信仰」を「信心決定までの求道」という意味に限定して
求道に完成がある→信仰に完成がある
とした。

・はじめから「信仰」という言葉を「卒業のあるもの」としての意味で
定義し直して用いている。
(「信心決定するまでの求道」の意味で使っている)
 それなら当然信仰に卒業があるとなって当たり前だが、
浄土真宗で「信仰」とは「信心決定するまでの求道」に限られるのか?(違う)

・あたかも「卒業のある信仰」を説いているのは親鸞会だけだといいたいのだが、
確かに余所では「信仰の卒業」という言い方はしない。しかし、ここで
「信仰の卒業」とは「一念で救い摂られること」「一念で救い摂られること」「報土往生がハッキリと定まったこと」をいっているのに他ならない。
「一念の救い」「報土往生がはっきり定まること」が説かれているのが浄土真宗であるから
それは親鸞会だけで説かれていることではない。
むしろその内容になれば親鸞会では正しく説かれていないといっていい。

*1)http://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/kansei-sotsugyou-shinjin01.htm
*2)http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-380.html
*3)http://sinshu.blog.shinobi.jp/Entry/624/

言葉の意味を変えるから、それによって構成した教えは全く別のものになる

2012年03月21日23:12

以前に「言葉の定義」について触れました。
言葉で伝えるということは、「言葉の意味を共有している」ということが大前提です。

英語を知らない人に英語で話しても伝わらないのは、
一方しかその意味を理解していないからです。

しかし、言葉の意味には範囲があります。
同じ言葉・単語でも、
場面や場所に応じてその指し示す範囲は異なったり変わったりするものです。
それを、話す方は前後の言葉や文脈で補うことによって
より相手に自分が伝えたいところの意味を伝えようとし、
また聞く方もそうしてより相手と同じ意味で理解しようとする
そしてお互いが理解の一致に至るように努力する、

つまりは、
聞いた方が「相手の言っているのはこういう意味なのだな」と理解したものが、
話し手の「私が伝えたいと思っている内容」と一致できている
このような状態なら分かり合えているのです。
言葉や説明を尽くしてより一致するように努力するのです。
そうしてお互いに同じものを理解できていることを、「共有」というのです。

ところが、
「言葉は、場面や場所に応じてその指し示す意味は異なったり変わったりする」
と述べたように、言葉には「曖昧さ」というものが必ず存在します。

親鸞会はそこを利用するのです。

簡単な遊びの例を挙げましょう。
「アルファベットの最後の文字は何でしょう?」
英語でも有名ななぞなぞですが、ここでは日本語で。
何と答えるでしょうか。「Z」ですね。普通はそうだと思います。
しかしなぞなぞでははずれです。「ト」です。

おわかりだと思います。
「アルファベット」という単語の指す意味は二種類に捉えることができるのです。
一つは、「AからZの26種類の文字を伝統的な順番に並べたもの全体を示すもの」
もう一つは文字どおりの「アルファベットという一つの単語」です。
前後に説明もなく、アルファベットと言われれば普通は前者のように捉えるのが一般的だから、なぞなぞとして成立するのです。

本題に入ります。
親鸞会の教義は、それはそれで成り立っています。
内部では矛盾のない完璧なものとして、
これこそが本当の浄土真宗なのだと主張もし、自信ももっています。

のめり込んで深みに嵌まってしまっていた人も、嵌まりそうになるところだった人も、
何らかのきっかけで、膨らむ矛盾や疑問に堪えられなくなり、
幸運にもその誤りと嘘に気付いた人はたいてい、
どこがどうおかしくて間違っていたのか教義面でも整理を試みようとします。

すると、おかしなところだらけだということが露わになっていきます。
端から見たら、どうしてこんなものを信じるのかと言われても仕方のない
酷い程度だと知らされて、
少なからずのショックと憤慨の感情を抱くことになります。

しかし、どうしてこんなものを信じるのか、
こんなものを信じるのは余程愚かか特殊な人間だというのは、
何も知らない人の言うことです。
その巧みさだけでなく周りに存在する様々な影響力の行使も相まって、
してやられてしまうのです。
これは誰しも陥る可能性のある話なのです。

親鸞会の教義とは一体何だったのかと考える時、
一つには、「浄土真宗の言葉(単語)を使った、全く別の教え」
であったということがあります。

「全く別の教え」というのは、根本的なところでという意味で、
結局は浄土真宗とは別のものを目指している教え、
つまり親鸞会の好きな「目的」という言葉を使って言えば、
親鸞会の示す目的(救い)は浄土真宗の目的(救い)とは違ったものになってしまい、
結局浄土真宗ではない、という意味での「全く別」という意味です。
親鸞会の救いと浄土真宗の救いは全く違うものであるということで、
こうなると教えの本質は「救い」なのですから、
別の教えということになってしまうのです。

親鸞会が浄土真宗で使われる言葉や話を使っている以上、
浄土真宗の教えと当然重なる部分や共通する部分もあるのです。
ただ、結論として親鸞会の会員の大多数が理解すべき理想の形
「善に励んで宿善を厚くしたら信仰が進む。信仰が進まなかったら救われない。
だからそこ(救いの決勝点)に向かって善に励まねばならない。」
という教えは、浄土真宗ではないのです。

誰でもこの親鸞会的結論にすぐに至る訳ではありません。
親鸞会の教えでいけば会員獲得が最大の宿善になるのですから、
それを信じた熱心な先輩会員達によって、
内部で経験により培われた育成法により、
情熱的かつ継続的に徐々に信じ込まされていくのです。

ですから、先にも述べたように、
会(員)の中では教えは完成しているのです。
疑問にも想定された答えはいくつも用意されていて、
自他の疑問にはたいていすべて対処できてしまいます。
(実際はできていないのですが、できているように錯覚させられてしまう
それが詭弁による誤魔化しです)

そんな風にして中にいるときは教えは完璧なものに思えたのですが、
実は親鸞会の教義というものは、
【「浄土真宗あるいは宗教的に使われる用語」の意味を都合よく独自に変えて使って語られたもの】
ですから、それによって構成された教義は全く別のものになっていたのです。
「」の部分を「他人の文章」に変えても当てはまります。

浄土真宗と言っても、言葉の意味が違うのです。
雑行、善(善人)、宿善、信心決定、帰命、悪人、等々、
本来親鸞聖人が説かれた意味とは異なるのです。
親鸞会でのお聖教の読み方はどのようなものでしょうか。
前後を無視して切り取ってしまえば、いくらでも意味を変えてしまうことはできます。
まさによく指摘される「断章取義」です。

また、本来浄土真宗では使われないような独自の言葉というものも多くあります。
(カルトグループの特徴でもあります。)
求道、信仰、人生の目的、絶対の幸福、相対の幸福、
決勝点、必堕無間、光に向かう、親鸞学徒、真実の自己、法謗罪等々。

こう言った独自の用語を繰り返し繰り返し使って、
独自の教理に染めていきます。
聞く方もいつしか条件反射のようになっていきます。
人生の目的と言われればすべてに優先するという意味、
後生、地獄の苦しみに比べればと言われれば
どんなことにも耐えなければならないという意味、
法謗罪と言われれば恐ろしいから黙らなければならないというように──。

結局、独自の意味に改変された真宗用語と、
独自の教団用語で組み立てられた教義は、
教団独自の教理になるのは当然の成り行きです。
もはや真宗の土俵の上で説明をしようにも、言葉が通じないのです。
言葉が通じないことには誤りを理解することもできません。
親鸞会のように一方の情報ばかりを与えられ(選び)、
偏った考えに染められてしまうということは、
非常に危険なことなのです。


ここで、一つ問題です。
親鸞会で、「信仰には卒業がある」とよく聞かされました。
親鸞会及びその関係者による布教サイトでも「平生業成」の説明として、
「信仰には完成がある、仏教には卒業がある」
と書いています。
(例)http://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/kansei-sotsugyou-shinjin01.htm(親鸞会)
   http://sinshu.blog.shinobi.jp/Entry/624/(親鸞会広宣部)
   http://shinshublog.seesaa.net/article/80437759.html(会員)


親鸞会のサイトでは「卒業、完成のある『信心』」となっていますが、
他のサイトにあるように法話では「信仰に卒業がある」という言い方をして強調しています。
私も何度も聞きました。

さてこの「信仰には卒業(完成)がある」という言い方ですが、
正しいのでしょうか?
正しくないとすればどこがどのように、
またこのような言い方をすることで生じる効果は何だったのでしょうか。
考えてみてください。
次回述べたいと思います。

親鸞会の誤り、陥った過ちをとおして見えてくるもの

2012年02月07日19:22

「一つの決勝点はまた新たなスタートである」

年末にあるオリンピック金メダリストが、
職場であり教育の現場での不祥事により
法に触れたという容疑で検挙されるという事案が報道されました。
それについてある関係者は、
「オリンピックの金メダルは取ってからの生き方が大事だというのに」と
残念そうに述べていました。

さて、私がこのサイトで訴えたいこと、それは何か。
S会やそこに関わる人の悪辣さか
そこに気付かず騙されてしまう人の愚かさか。
それだけではないのです。

カルト(カリスマ的指導者を中心とする小規模で熱狂的な信者の集まり)
と言われる集団には、共通点があります。
カルトの特徴とでも検索すればいくらでも出てくるので、
それを見れば、カルトと関わったことがある人なら
どれもなるほどと頷くものばかりでしょう。

なぜ同じような特徴を持つのか。
それは、その統率者と周りの人間の行動に共通の特徴があるからです。
その中の一つとして、
大抵、統率者はその集団内において素晴らしい人格者として
称賛され崇められているということがあります。
ところが、その集団を離れた人は
「そんな人間ではなかった」と、
つまりは化けの皮が剥がれた現実の姿を知って、
自分も何らかの形で騙されていたことを自覚するのです。

考えてみれば、不思議で不可解なことです。
自分の都合で嘘をつき、人を騙して平気であるような人が、
教団内では最高の人格者として崇められている。
どうしてそんなことになるのでしょう。

ここで思い出してください。
統率者の側にはいつも、側近が何人もいたことを。
狡猾な統率者は、いつも、自分がやっていると見せかけて実は肝心なことは、
「自分ではやらない」のです。
つまり、「自分の『本当の』意思を伝える行為をする」のは
いつも側近や部下であり、
いつしか自分が指示をしなくとも、部下が「御心を汲んで」
先周りしてやってくれるようになっている
そういう組織が出来ているのです。
究極の「責任転嫁」の構造です。

あれ?…何かおかしい…どこか変…一貫しない…
そんなところがあっても、すべて周りの側近や部下が補ってくれるのです。
自分では答えられなくても、周りが先回りして回答してくれる。
あるいは、他人に先に答えさせて、自分はそれを判定あるいは承認する形をとる。
見ている人には常に、
「この先生だけが言っているのではない、先生には賛同者が何人もいる。
(納得のいく話なのだ。納得ができないとしたら
それは納得できない人のほうがおかしいのだ。)」
ということが無意識の中に刷り込まれていく形になっています。
さらには、よくわからないことでも先に答えてくれるブレーンに合わせて、
後から「〇〇君の言う通りだ」と言っておけば
いくらでも知ったかぶりもできるのです。

側近や部下はいつも説明してくれます。
「それは〇〇先生の深い御心であって(私どもには理解できなくとも)」…。
そのうちいつしか、個々の信者の中で、疑問が起こっても、
「深い御心であって…きっと、こうだ…」と良い様に解釈するようになります。
そんなおかしなことがあるはずがない、と思うからです。
自分の中で矛盾を解消しなければ
信じ続けることができなくなるからです。

「信心決定している会長先生が間違ったことを説くなんて、
そんなおかしなことがあるはずがない」
「これまで50年、間違っていたなんてあるはずがない」
「これだけ多くの人が間違いないと言っているのに間違っているはずがない」
「そんな嘘の教えを広めるなんてできるはずがない」
そうですね、自分が…と考えたら、できませんね、そんなこと。
まともな人ほど、そんな人がいるとは考えられません。
だから、そんなことあるはずがないと
現実との間にできそうなギャップを埋めるための理屈を頭の中で考えるのです。
「それ(現実)は、きっと(想像)こういう深い御心で…」

異常さも、矛盾も、不足も、疑問も、
全部自分の頭の中で自動的に補ってしまうのです。
かくして、全てを完璧に備えた素晴らしい人格者が、
個々の信者の脳内に確立されるのです。

どこかの会だけに存在する構造でしょうか?
いいえ、巷にはこんなものが、溢れているのです。
決して、人を信じるのが悪いのではありません。
依存するのが悪いのでもありません。
会や集まりをつくるのが悪いのでもありません。
何事も、程度の問題です。
どこでも、最初からそんな風ではなかったのです。

さて、あなたの近くにもいませんか?
実はいつも足りないところを誰か他人がフォローしている。
(曖昧な話や一貫性のないところを、いつも他人がフォローしなければならない。
周囲が知らぬ間にさせられている。)
それまで自分からは動かない。(動けない。)
それでいて、なぜかフォローさせられている人たちが過度に称賛して
本人はそれを黙って承認している。

見ているとそんな、第二、第三の親鸞会のような構造は
もう既にいくつかあるようです。
再度同じような集団や関係を作ってしまうのは傾向として仕方ないにしても
残念なことだと思うのです。
誰しも騙される危険性は潜在的にもっているのであり、
騙された人はむしろ、また再び同じことに陥る危険性があるのです。

早く間違いに気付いて欲しいということで
親鸞会の誤りを指摘することは当然のこととして、
誤りを知ることを通して、
自分も他人も再び同じ過ちに陥らないようにすること、
これこそが大事なことなのです。

立証責任の転嫁~相手に質問のみをするフェアでない言い分~①

2011年09月22日14:42

3-9 立証責任の転嫁

◎自分の論の正しさは自分で証明する
 説得力のある議論には必ずギャップがあります。
 そのギャップの中にあるのは「当然正しい」とみなしている
さまざまな考えであり、
それらすべてが正しいことを他の人に証明するのは不可能です。

 なぜなら、聞く人にとってその証明が説得力のあるものなら、
それにはさらにギャップがあり…という具合に永久に証明を続けなければならないからです。

 何かを論ずる場合、この「立証責任」は、
論者にとって非常に重いものです。

 あることで相反する意見をもつ者同士は、各自、
自分の論の正しさを証明せねばなりません。
自分の論の正当性を証明しようとせずに相手に質問のみをすることで
相手に一方的に立証責任を負わせるのは、
フェアなことではないからです。

 ──と、ここまでを読んで「それがフェアでないことには同意するが、
フェアでないことをしていけないのはなぜ?」
と私に質問をしたい読者がいるかもしれませんね──そう、
相手に立証責任を負わせる質問をするのは簡単なのです。

 つまりこうです。もしもあなたが何かを主張したいのなら、
相手に立証せよと求めるのではなく、
まず自分の側の意見を立証しましょう。つまり、たとえば、
「*の答えはAでもいいのではないですか?なぜそれでは間違いなのですか?」
(とのみ書き、Aであってもよい理由を書かない)
これではダメで、
「*の答えはAでもいいのではないのですか?というのは
○○だからです。なぜそれでは間違いなのですか?」
 
と書かねばならない、ということです。
 それが論ずる者のフェアな態度です。

 議論で「立証責任の転嫁」を行うと、
非常に汚い詭弁となりえます。それが次の例です。

A「霊は存在しますよ」
──(なぜそう言えるのか理由を述べていない点に注目)
B「そうかなあ。なぜ?」
──「Aが理由を述べていないので、これは正しい質問──
  立証責任の転嫁ではない質問)
A「では、あなたは霊が存在しないと思っているんですね。
存在しないって、なぜ言えるんですか?」
──(相手の質問を無視し、相手に逆側の意見を立証させようとしている
点に注目)
B「なぜ存在しないかなんて、理由は答えられないよ」
A「そうでしょうとも。存在しているんですからね」

(小野田博一著『正論なのに説得力のない人ムチャクチャでも絶対に議論に勝つ人』日本実業出版社p86~)



これまで何度も述べてきたように、
自分の論の正当性を支えるものは「根拠」であり、
根拠の説得力の大きさがその主張の正当性の強さになります。

ですから何かを訴えたいなら根拠を述べなくては話になりませんし、
たとえ根拠が添えられていたとしてもそれがいい加減なもので
正当性を支えるに足りるものでなければ根拠があるとはいえません。

したがって、相手の主張に対してその根拠(理由)がなければ、
それを求めるのは当然のことです。
それ以前に、「自分の論の正しさは自分で証明しなければならない」
というのが議論の原則なのです。

だから、上の引用中で言われているように、
「*の答えはAでもいいのではないですか?なぜそれでは間違いなのですか?」
(とのみ書き、Aであってもよい理由を書かない)
これではダメで、
「*の答えはAでもいいのではないのですか?というのは
○○だからです。なぜそれでは間違いなのですか?」
 
と書かねばならない
のです。

後者の前者との違いは、自分の主張に「というのは○○だからです。」
という「根拠」が主張されているかどうかということです。
主張に反論したければ、この根拠に反論すればいいのです。
それでその根拠が相手の正当性を支えるものでない、つまり
崩れてしまえば、相手の主張は間違いだということになります。

つまり、議論とは、お互いに自分の主張が正しいことを示す為に根拠を出して、
その正当性(正しく主張を支えているか)を諮る
(威勢のいい言い方をすれば戦わせる)ものなのですから、
まず自分の論の正当性は自分で証明しようとする姿勢でなければ
フェアではないし、議論にならないのです。(続く)

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